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第2話 流れないもの

ー/ー




 警察署の待合室は、妙に静かだった。
 外の雨が、窓ガラスを断続的に叩いている。規則性のないその音が、逆に一定のリズムを作っていた。天井の蛍光灯は白く、感情のない光を落とす。時計の秒針が、一秒ごとに空気を切る。耳の奥に張り付くような音だった。

 三樹は、パイプ椅子に浅く腰掛けていた。
 膝の上で重ねた両手は、きれいに揃えられている。指先の位置も、角度も、無意識に整えられていた。血は、もう落とした。制服も替えた。乾いた布が皮膚に触れているはずなのに、まだ何処かに湿り気が残っている気がする。

 視界の奥に、断片が残っていた。
 床に広がる赤。母の身体の沈み方。父の腕の角度。ナイフの重さ。刃が肉に入るときの、あの、柔らかな抵抗。

 考えないようにする。そうすると、別の考えが浮かぶ。
 考えないようにしている、という事実。
 それが一番、逃げている感じがした。

「父さんも、母さんもいない。俺は……人を殺した」

 声は掠れていたが、震えてはいなかった。言葉だけが先に出て、感情が遅れている。追いつく気配がない。数秒、空白が落ちる。

「……ごめんなさい……」

 誰もいない方向へ、言葉を落とす。対象は曖昧だった。
 両親かもしれない。男かもしれない。あるいは、自分自身か。それでも、言わなければならなかった。そうしないと、何処かの均衡が崩れる気がした。

 三樹は視線を落とし、自分の靴先を見つめる。
 床に映る光が、微かに揺れていた。誰も通らない廊下。足音も、話し声もしない。世界から切り離されたような静けさだった。

 その静けさに、僅かな震えが混じる。肩が、ほんの少しだけ上下した。
 ――孤独だ、と。言葉にしないまま、理解してしまう。

「宮原三樹くん」

 ドアの開閉音とともに落ちてきた声は、穏やかだった。
 柔らかいが、曖昧ではない。輪郭のある声。三樹は、反射的に立ち上がった。呼ばれる前から、呼ばれる準備だけは出来ていた。

 視線を上げる。
 そこに立っていた男を見て、三樹の思考が、ほんの一瞬だけ止まった。

 見覚えがある。はっきりと名前が出るわけではない。
 だが、記憶のどこかに引っ掛かる。幼い頃の――家のリビング。父と向かい合って座り、酒を飲んでいた誰か。男もまた、三樹を見ていた。一瞬だけ、目が細まる。何かを言いかけて、飲み込むような僅かな間が落ちた。

「……来てくれるか」

 それだけだった。三樹は頷き、後に続いた。
 案内されたのは、白い部屋だった。中央に机と椅子。壁には何もない。温度も匂いも、均一に保たれている。感情が沈殿しないように設計された空間。

 すでに、もう一人の刑事が座っていた。若い。表情は薄い。
 三樹が椅子に座ると、肘に机の冷たさが伝わる。向かいに座った男が、名刺を差し出した。三樹はそれを受け取り、両手で揃えて机の端に置く。角を整える。ほんの僅かなズレを指先で直す。

「……覚えてるか」

 低く、抑えた声だった。
 三樹は顔を上げる。

「……少しだけ。父と……家で」
「そうか」

 それ以上は続けなかった。だが、それで十分だった。
 この人は、父を知っている。その事実だけが、静かに沈んだ。

「今日は大変だったな」

 若い刑事が言う。事務的な労い。温度は低い。
 三樹は、一瞬だけ言葉に詰まる。

「……いえ、」
 否定しかけて、止まる。

「俺は、大丈夫です」

 口にした瞬間、それが適切ではないと理解する。
 だが、言い直す理由も見つからなかった。

 年配の刑事――父の同僚だった男が、資料を開いた。
 紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。男は視線を落としたまま、資料を一枚めくる。指の動きは無駄がなく、癖もない。ただ、長く同じことを繰り返してきた人間の手だった。インクの匂いが、微かに漂う。

「確認していく」

 声は低く、平坦だった。
 感情を削ぎ落とした響き。
 それでも、どこかに“知っている側”の温度が残っている。

「帰宅したのは、何時頃だ」

 三樹は、視線を机の一点に落としたまま、記憶を辿る。
 時計の針。教室の光。廊下の湿った空気。

「十七時、少し前です」
「鍵は?」
「……開いていました」

 一拍、間が落ちる。
 若い刑事のペンが、紙の上を走る。規則的な音。だが、その速度がほんの僅かに遅くなる。記録として書きながら、意味を噛み砕いている音だった。

「異変に気付いたのは、その時か」
「……はい」

 返答は短い。
 だが、その一音に至るまでに、いくつもの像が喉元を通り過ぎていた。

 玄関の湿った空気。靴を脱ぐときの、妙な静けさ。生活音が一つも落ちてこない家の、あの空白。胸騒ぎ。三樹は、指先を僅かに握り込む。机の縁に触れていた皮膚が、軋むように白くなる。

「……母が、倒れていて。父も……その、近くに」

 言葉を選ぶというより、順番を崩さないように並べていく。倒れているという言い方が適切かどうか、一瞬だけ思考が引っかかる。だが、それ以上の言葉を選ぶ余裕はなかった。事実は、言葉にするほど整っていない。

 若い刑事のペンが、僅かに止まる。次の瞬間、また動き出す。
 さっきよりも、ほんの少しだけ遅い。

「侵入者は、その時点でいたのか」

 年配の刑事が問う。声は変わらない。平坦なまま、少しだけ低く落ちる。
 三樹は、視線を動かさない。机の、木目の一点を見続ける。

「……いました。男が、一人。ナイフを、持って」
「何か言われたか」
「……何か、言われたような気もしますが、覚えていません」

 即答だった。だが、その直後、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。
 聞いていないわけではない。ただ、残っていない。声よりも先に、言い表せない感情が流れ込んできたからだ。そのあとすぐ、動きがあった。刃が振り下ろされる角度。床に落ちる音。肉を裂くときの、あの――感触。

 三樹は、瞬きを一つ挟む。
「気付いたら、俺が……刺していました」

 そこで、初めて主語が変わる。受け身から、能動へ。部屋の空気が、僅かに沈む。若い刑事のペンが止まる。書くべき言葉は分かっているはずなのに、その一瞬だけ、動きを失う。年配の刑事は、目を伏せたまま資料に視線を落としている。だが、その指先が、ほんの僅かに止まっていた。

「怖かったか」

 質問は、あくまで手続きの延長だった。
 単純な問い。だが、三樹はすぐには答えられなかった。怖かったか――その言葉に、適切な答えを探す。刃が振り下ろされたとき。馬乗りになられたとき。血が広がったとき。自分が刺したとき。どこに“怖さ”があったのか。

「……分かりません。ただ、怖い、より先に……終わる、って」

 静かに、付け足した。
 その言葉は、部屋の中央に落ちて、しばらく動かなかった。
 時計の秒針が、一つ進む。カチ、と乾いた音。年配の刑事が、ゆっくりと息を吐いた。意識しなければ気付かないほどの、微かな吐息。

「……正当防衛になる可能性は高い」

 誰に向けたものでもない独り言のように、言葉が零れる。
 若い刑事が、顔を上げる。一瞬だけ、三樹を見る。その視線には、判断が乗りかけていた。だが、すぐに引っ込める。記録者に徹するための、距離。三樹はそのやり取りを見ていない。見ていないが、空気で理解していた。

 自分が、どの位置に置かれているのか。
 被害者側か、加害者側か。あるいは、その中間か。
 どちらでもいい、と一瞬だけ思う。分類されたところで、何も変わらない。父も母も、もういない。その事実は、どの枠にも収まらない。

「――ただね、三樹くん」

 年配の刑事が、初めて名前を呼ぶ。
 さっきよりも、ほんの僅かにだけ低い。三樹は顔を上げる。

「君の行為が正しかったかどうかは……また別の話だ」

 その言葉は、やけに静かだった。
 責めるでもなく、庇うでもない。ただ、事実の隣に置かれた別の事実。三樹は、すぐには反応しなかった。正しさという単語が、頭の中で一度ほどける。糸のように解けて、形を失う。

「……はい」

 ようやく出た返事は、曖昧だった。
 理解したわけではない。ただ、受け取ったというだけの音。
 年配の刑事は、三樹の目をまっすぐ見ていた。視線は強くない。押し付けるものではない。だが、逃がさない。

「命を守った。それは事実だ。だが同時に、命を奪った。それも事実だ」

 部屋の空気が、僅かに重くなる。
 温度は変わらないはずなのに、呼吸が一段階深くなる。

 三樹は、何も言わない。言葉が見つからないわけではない。
 どの言葉も、的外れに思えただけだ。正しいとか、正しくないとか。そんな単純な線で切れるなら、こんな場所に座ってはいない。

「その二つは、しばらく一緒に残る」

 年配の刑事の声は、相変わらず平坦だった。
 だが、どこかで“知っている”響きが混じる。それは経験ではなく、理解に基づく何かだった。

「忘れようとすると、歪む。抱えたままでも、歪む」

 そこで、言葉が止まる。答えは提示されない。選択肢すら、与えられない。
 三樹は、僅かに視線を落とす。
 机の上の名刺。きれいに揃えた角。ほんの一ミリも狂っていない配置。
 それを見ていると、少しだけ呼吸が整う。

「……じゃあ、どうすればいいんですか」

 気付けば、口にしていた。問いというより、確認に近い。何か正解があるなら、先に知っておきたかった。間違えないために。年配の刑事は、ほんの一瞬だけ目を細めた。困ったようにも見えるし、納得しているようにも見える。

「ないよ」

 即答だった。
 あまりにもあっさりしていて、三樹は一瞬だけ思考が止まる。

「そんなものがあるなら、とっくに誰かが配ってる」

 僅かに肩を竦める。
 冗談めいた仕草だったが、声は笑っていなかった。

「強いて言うなら――逃げるな、だな」

 短い。だが、それ以上削れない形をしていた。
 三樹の指先が、僅かに動く。
 机の縁に触れていた指が、ほんの少しだけ離れる。

 逃げるな。それは、簡単な命令に聞こえる。
 だが、何から逃げるのかが曖昧だ。
 記憶か、罪悪感か、それとも――自分自身か。

「……逃げているつもりは、ありません」

 反射的に出た言葉だった。
 だが、口にした瞬間、それが完全ではないと理解する。考えないようにしていた。感じないようにしていた。それは、逃げではないのか。年配の刑事は、否定もしなければ肯定もしなかった。

「そうかもしれないな。……ただ、人間はな。自分が逃げてるかどうか、自分じゃ分からないように出来てる」

 淡々とした説明だった。責める響きはない。ただ、構造を述べているだけ。
 三樹は、何も返さない。返せない、が正しい。正しさも、逃げも、どちらも輪郭がぼやけている。ただ一つ、確かなのは――胸の奥に、何かが残っているということ。消えていない、という事実。

「……今日はここまでだ」
 年配の刑事が、資料を閉じる。紙の重なる音が、小さく響く。
 若い刑事も、ペンを置く。その動きは、さっきよりもゆっくりしていた。記録が終わったからではない。区切りを置くための動き。

 三樹は、静かに立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく感じられた。体が少しだけ重い。だが、動かないわけではない。ドアに手を掛ける。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。

「三樹くん」
 背後から、もう一度だけ呼ばれる。
 三樹は振り返らない。ただ、動きを止める。

「……明日も来てもらう」
 業務連絡のような声音だった。
 だが、その奥に、ほんの僅かだけ別の色が混じる。

「一人で抱え込むには、まだ早い」
 その言葉に、三樹はほんの僅かに目を伏せた。
 返事はしない。ただ、小さく頷く。

 ドアを押す。廊下に出た瞬間、空気が変わる。白い部屋の均一さが途切れ、現実の温度が流れ込んでくる。蛍光灯の明かり。遠くで鳴る電話の音。誰かの足音。そして、雨の匂い。窓の外では、まだ降り続いているらしい。ガラスに当たる水滴が、光を歪める。街の輪郭が、滲んでいる。

 ――帰る場所は、もうない。
 その事実は、さっきよりもはっきりしていた。
 代わりに、別のものが残る。行く場所。明日、またここに来る。
 それだけが、今の三樹に与えられた、唯一の“次”だった。

 廊下を歩き出す。足音が、一歩ごとに遅れて聞こえる。
 自分のものなのに、少しだけ他人のものみたいに。雨音は、まだ止まない。まるで、何も流しきれていないみたいに。



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 警察署の待合室は、妙に静かだった。
 外の雨が、窓ガラスを断続的に叩いている。規則性のないその音が、逆に一定のリズムを作っていた。天井の蛍光灯は白く、感情のない光を落とす。時計の秒針が、一秒ごとに空気を切る。耳の奥に張り付くような音だった。
 三樹は、パイプ椅子に浅く腰掛けていた。
 膝の上で重ねた両手は、きれいに揃えられている。指先の位置も、角度も、無意識に整えられていた。血は、もう落とした。制服も替えた。乾いた布が皮膚に触れているはずなのに、まだ何処かに湿り気が残っている気がする。
 視界の奥に、断片が残っていた。
 床に広がる赤。母の身体の沈み方。父の腕の角度。ナイフの重さ。刃が肉に入るときの、あの、柔らかな抵抗。
 考えないようにする。そうすると、別の考えが浮かぶ。
 考えないようにしている、という事実。
 それが一番、逃げている感じがした。
「父さんも、母さんもいない。俺は……人を殺した」
 声は掠れていたが、震えてはいなかった。言葉だけが先に出て、感情が遅れている。追いつく気配がない。数秒、空白が落ちる。
「……ごめんなさい……」
 誰もいない方向へ、言葉を落とす。対象は曖昧だった。
 両親かもしれない。男かもしれない。あるいは、自分自身か。それでも、言わなければならなかった。そうしないと、何処かの均衡が崩れる気がした。
 三樹は視線を落とし、自分の靴先を見つめる。
 床に映る光が、微かに揺れていた。誰も通らない廊下。足音も、話し声もしない。世界から切り離されたような静けさだった。
 その静けさに、僅かな震えが混じる。肩が、ほんの少しだけ上下した。
 ――孤独だ、と。言葉にしないまま、理解してしまう。
「宮原三樹くん」
 ドアの開閉音とともに落ちてきた声は、穏やかだった。
 柔らかいが、曖昧ではない。輪郭のある声。三樹は、反射的に立ち上がった。呼ばれる前から、呼ばれる準備だけは出来ていた。
 視線を上げる。
 そこに立っていた男を見て、三樹の思考が、ほんの一瞬だけ止まった。
 見覚えがある。はっきりと名前が出るわけではない。
 だが、記憶のどこかに引っ掛かる。幼い頃の――家のリビング。父と向かい合って座り、酒を飲んでいた誰か。男もまた、三樹を見ていた。一瞬だけ、目が細まる。何かを言いかけて、飲み込むような僅かな間が落ちた。
「……来てくれるか」
 それだけだった。三樹は頷き、後に続いた。
 案内されたのは、白い部屋だった。中央に机と椅子。壁には何もない。温度も匂いも、均一に保たれている。感情が沈殿しないように設計された空間。
 すでに、もう一人の刑事が座っていた。若い。表情は薄い。
 三樹が椅子に座ると、肘に机の冷たさが伝わる。向かいに座った男が、名刺を差し出した。三樹はそれを受け取り、両手で揃えて机の端に置く。角を整える。ほんの僅かなズレを指先で直す。
「……覚えてるか」
 低く、抑えた声だった。
 三樹は顔を上げる。
「……少しだけ。父と……家で」
「そうか」
 それ以上は続けなかった。だが、それで十分だった。
 この人は、父を知っている。その事実だけが、静かに沈んだ。
「今日は大変だったな」
 若い刑事が言う。事務的な労い。温度は低い。
 三樹は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……いえ、」
 否定しかけて、止まる。
「俺は、大丈夫です」
 口にした瞬間、それが適切ではないと理解する。
 だが、言い直す理由も見つからなかった。
 年配の刑事――父の同僚だった男が、資料を開いた。
 紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。男は視線を落としたまま、資料を一枚めくる。指の動きは無駄がなく、癖もない。ただ、長く同じことを繰り返してきた人間の手だった。インクの匂いが、微かに漂う。
「確認していく」
 声は低く、平坦だった。
 感情を削ぎ落とした響き。
 それでも、どこかに“知っている側”の温度が残っている。
「帰宅したのは、何時頃だ」
 三樹は、視線を机の一点に落としたまま、記憶を辿る。
 時計の針。教室の光。廊下の湿った空気。
「十七時、少し前です」
「鍵は?」
「……開いていました」
 一拍、間が落ちる。
 若い刑事のペンが、紙の上を走る。規則的な音。だが、その速度がほんの僅かに遅くなる。記録として書きながら、意味を噛み砕いている音だった。
「異変に気付いたのは、その時か」
「……はい」
 返答は短い。
 だが、その一音に至るまでに、いくつもの像が喉元を通り過ぎていた。
 玄関の湿った空気。靴を脱ぐときの、妙な静けさ。生活音が一つも落ちてこない家の、あの空白。胸騒ぎ。三樹は、指先を僅かに握り込む。机の縁に触れていた皮膚が、軋むように白くなる。
「……母が、倒れていて。父も……その、近くに」
 言葉を選ぶというより、順番を崩さないように並べていく。倒れているという言い方が適切かどうか、一瞬だけ思考が引っかかる。だが、それ以上の言葉を選ぶ余裕はなかった。事実は、言葉にするほど整っていない。
 若い刑事のペンが、僅かに止まる。次の瞬間、また動き出す。
 さっきよりも、ほんの少しだけ遅い。
「侵入者は、その時点でいたのか」
 年配の刑事が問う。声は変わらない。平坦なまま、少しだけ低く落ちる。
 三樹は、視線を動かさない。机の、木目の一点を見続ける。
「……いました。男が、一人。ナイフを、持って」
「何か言われたか」
「……何か、言われたような気もしますが、覚えていません」
 即答だった。だが、その直後、ほんの一瞬だけ呼吸が浅くなる。
 聞いていないわけではない。ただ、残っていない。声よりも先に、言い表せない感情が流れ込んできたからだ。そのあとすぐ、動きがあった。刃が振り下ろされる角度。床に落ちる音。肉を裂くときの、あの――感触。
 三樹は、瞬きを一つ挟む。
「気付いたら、俺が……刺していました」
 そこで、初めて主語が変わる。受け身から、能動へ。部屋の空気が、僅かに沈む。若い刑事のペンが止まる。書くべき言葉は分かっているはずなのに、その一瞬だけ、動きを失う。年配の刑事は、目を伏せたまま資料に視線を落としている。だが、その指先が、ほんの僅かに止まっていた。
「怖かったか」
 質問は、あくまで手続きの延長だった。
 単純な問い。だが、三樹はすぐには答えられなかった。怖かったか――その言葉に、適切な答えを探す。刃が振り下ろされたとき。馬乗りになられたとき。血が広がったとき。自分が刺したとき。どこに“怖さ”があったのか。
「……分かりません。ただ、怖い、より先に……終わる、って」
 静かに、付け足した。
 その言葉は、部屋の中央に落ちて、しばらく動かなかった。
 時計の秒針が、一つ進む。カチ、と乾いた音。年配の刑事が、ゆっくりと息を吐いた。意識しなければ気付かないほどの、微かな吐息。
「……正当防衛になる可能性は高い」
 誰に向けたものでもない独り言のように、言葉が零れる。
 若い刑事が、顔を上げる。一瞬だけ、三樹を見る。その視線には、判断が乗りかけていた。だが、すぐに引っ込める。記録者に徹するための、距離。三樹はそのやり取りを見ていない。見ていないが、空気で理解していた。
 自分が、どの位置に置かれているのか。
 被害者側か、加害者側か。あるいは、その中間か。
 どちらでもいい、と一瞬だけ思う。分類されたところで、何も変わらない。父も母も、もういない。その事実は、どの枠にも収まらない。
「――ただね、三樹くん」
 年配の刑事が、初めて名前を呼ぶ。
 さっきよりも、ほんの僅かにだけ低い。三樹は顔を上げる。
「君の行為が正しかったかどうかは……また別の話だ」
 その言葉は、やけに静かだった。
 責めるでもなく、庇うでもない。ただ、事実の隣に置かれた別の事実。三樹は、すぐには反応しなかった。正しさという単語が、頭の中で一度ほどける。糸のように解けて、形を失う。
「……はい」
 ようやく出た返事は、曖昧だった。
 理解したわけではない。ただ、受け取ったというだけの音。
 年配の刑事は、三樹の目をまっすぐ見ていた。視線は強くない。押し付けるものではない。だが、逃がさない。
「命を守った。それは事実だ。だが同時に、命を奪った。それも事実だ」
 部屋の空気が、僅かに重くなる。
 温度は変わらないはずなのに、呼吸が一段階深くなる。
 三樹は、何も言わない。言葉が見つからないわけではない。
 どの言葉も、的外れに思えただけだ。正しいとか、正しくないとか。そんな単純な線で切れるなら、こんな場所に座ってはいない。
「その二つは、しばらく一緒に残る」
 年配の刑事の声は、相変わらず平坦だった。
 だが、どこかで“知っている”響きが混じる。それは経験ではなく、理解に基づく何かだった。
「忘れようとすると、歪む。抱えたままでも、歪む」
 そこで、言葉が止まる。答えは提示されない。選択肢すら、与えられない。
 三樹は、僅かに視線を落とす。
 机の上の名刺。きれいに揃えた角。ほんの一ミリも狂っていない配置。
 それを見ていると、少しだけ呼吸が整う。
「……じゃあ、どうすればいいんですか」
 気付けば、口にしていた。問いというより、確認に近い。何か正解があるなら、先に知っておきたかった。間違えないために。年配の刑事は、ほんの一瞬だけ目を細めた。困ったようにも見えるし、納得しているようにも見える。
「ないよ」
 即答だった。
 あまりにもあっさりしていて、三樹は一瞬だけ思考が止まる。
「そんなものがあるなら、とっくに誰かが配ってる」
 僅かに肩を竦める。
 冗談めいた仕草だったが、声は笑っていなかった。
「強いて言うなら――逃げるな、だな」
 短い。だが、それ以上削れない形をしていた。
 三樹の指先が、僅かに動く。
 机の縁に触れていた指が、ほんの少しだけ離れる。
 逃げるな。それは、簡単な命令に聞こえる。
 だが、何から逃げるのかが曖昧だ。
 記憶か、罪悪感か、それとも――自分自身か。
「……逃げているつもりは、ありません」
 反射的に出た言葉だった。
 だが、口にした瞬間、それが完全ではないと理解する。考えないようにしていた。感じないようにしていた。それは、逃げではないのか。年配の刑事は、否定もしなければ肯定もしなかった。
「そうかもしれないな。……ただ、人間はな。自分が逃げてるかどうか、自分じゃ分からないように出来てる」
 淡々とした説明だった。責める響きはない。ただ、構造を述べているだけ。
 三樹は、何も返さない。返せない、が正しい。正しさも、逃げも、どちらも輪郭がぼやけている。ただ一つ、確かなのは――胸の奥に、何かが残っているということ。消えていない、という事実。
「……今日はここまでだ」
 年配の刑事が、資料を閉じる。紙の重なる音が、小さく響く。
 若い刑事も、ペンを置く。その動きは、さっきよりもゆっくりしていた。記録が終わったからではない。区切りを置くための動き。
 三樹は、静かに立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく感じられた。体が少しだけ重い。だが、動かないわけではない。ドアに手を掛ける。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。
「三樹くん」
 背後から、もう一度だけ呼ばれる。
 三樹は振り返らない。ただ、動きを止める。
「……明日も来てもらう」
 業務連絡のような声音だった。
 だが、その奥に、ほんの僅かだけ別の色が混じる。
「一人で抱え込むには、まだ早い」
 その言葉に、三樹はほんの僅かに目を伏せた。
 返事はしない。ただ、小さく頷く。
 ドアを押す。廊下に出た瞬間、空気が変わる。白い部屋の均一さが途切れ、現実の温度が流れ込んでくる。蛍光灯の明かり。遠くで鳴る電話の音。誰かの足音。そして、雨の匂い。窓の外では、まだ降り続いているらしい。ガラスに当たる水滴が、光を歪める。街の輪郭が、滲んでいる。
 ――帰る場所は、もうない。
 その事実は、さっきよりもはっきりしていた。
 代わりに、別のものが残る。行く場所。明日、またここに来る。
 それだけが、今の三樹に与えられた、唯一の“次”だった。
 廊下を歩き出す。足音が、一歩ごとに遅れて聞こえる。
 自分のものなのに、少しだけ他人のものみたいに。雨音は、まだ止まない。まるで、何も流しきれていないみたいに。