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第1話 祝福の音

ー/ー




 教室の空気は、授業の終わりに向かい、薄く乾いていた。
 黒板に残ったチョークの粉が、光に触れて僅かに浮遊している。消し切れなかった白が、指で触れれば崩れそうなまま、そこに留まっていた。

 窓際の席に差し込む光だけが、机の角を不自然なほど白く縁取っている。
 その白は、何処か現実から浮いて見えた。触れれば冷たいはずなのに、見ているだけで温度が分からなくなる。

 宮原三樹(みやはらみつき)は、プリントを二枚重ねた。
 端と端を合わせる。角を揃える。ほんの数ミリのずれを、指先で探る。紙の擦れる音が、やけに大きく感じられた。揃えたところで、世界は整わない。そんなことは、とうに分かっている。それでも、指先は止まらない。僅かな歪みがあるだけで、呼吸が浅くなる。紙一枚の乱れですら、何処かで誰かに迷惑を掛けているような錯覚が、喉の奥に引っ掛かる。

 整える。整え続ける。
 そうしていれば、自分の外側で起きている何かが、少しだけ静かになる。

「……あ、すみません」

 言葉は、殆ど反射だった。隣の席の椅子が、床を擦る。
 ただ、それだけの音。それでも三樹の口は、理由を探す前に動いていた。謝る必要があるかどうか判断するより先に、謝罪だけが滑り出る。

 もし今、誰かが不快になっているなら。その原因は、自分のどこかにある。そう考えてしまった方が、楽だった。考え続けるよりも、ずっと。

 背後で、誰かが肩を小突かれて笑った。
 軽い音だった。空気に溶けるような、ありふれた笑い声。けれど、その一瞬だけ。教室の温度が、ほんの僅かに落ちた気がした。三樹の胸の奥で、何かが静かに沈む。誰かが無理をしていないか。誰かが、置いていかれていないか。その笑いの裏に、ひびが入っていないか。反射的に、考える。

 視線を上げることはしない。
 確かめる勇気はないが、確かめないままでいることも出来ない。
 だから、考える。

 場の空気が崩れた原因を、反射的に探してしまう。自分が何かを見落としていたのではないかと、根拠もなく疑う。その行動が間違っているとは、考えたことがなかった。全体が回るなら、その方がいい。個人の快不快よりも、場が滞らないことの方が重要だ。そういうものだと、いつの間にか決めていた。

 他人が、自分のことを気に掛けてくれるとは思っていない。
 期待するだけ、無駄だ。ならば、自分が引き受ければいい。期待しない代わりに、責任を持つ。誰かの不都合が表に出る前に、自分の内側に沈めてしまえばいい。それが三樹なりの、世界との距離の取り方だった。

 頭の奥で、声がする。
 遠いはずの記憶が、やけに近い位置で響いた。

『人様に迷惑だけは掛けるな』
『犯罪を犯すなら、徹底的にやれ』

 柔らかく、だが逃げ場のない声。
 同じ口から発せられたとは思えないほど、温度の違う言葉。

 三樹は、気付かないふりをしたまま、息を吐く。
 肺の奥に溜まっていた空気が、僅かに濁っている気がした。

 この言葉は冗談のようで、冗談ではなかった。父も母も、本気でそれを教えた。前者は理解できる。世界は、大抵、誰かの迷惑で出来ている。なら、自分はその原因にならなければいい。それだけで、少なくとも誰かの負担は減る。単純で、分かりやすい。だから守れている、と考えるようにしている。

 問題は、後者だ。
 思い出すのは、テレビの光だった。夕食の時間、ニュース番組。画面の中で誰かが捕まっていた。スーパーの弁当を盗んだ男。値段の安さと、罪の軽さばかりが強調されていた記憶がある。そのとき、父は言った。

 ――やるなら、徹底的にやれ。
 その言葉の意味を、未だに掴みきれない。

 小さな罪を犯すくらいなら。中途半端に捕まるくらいなら。
 もっと――そこまで考えて、思考を止める。

 自分には、無理だ。そんなことを考えられるほど、頭は良くない。
 そもそも、犯罪を犯すつもりもない。だから考える必要もない。
 そう結論付けるのは、簡単だった。

 チャイムが鳴った。甲高い音が、教室の空気を一度だけ切り裂いた。
 次の瞬間には、全てが一斉に動き出す。椅子が引かれる音。鞄のファスナーが締まる音。誰かの柔らかな呼び声。音が重なり、混ざり、方向を失う。

 三樹はその流れに遅れないよう、鞄を持ち上げた。
 肩に掛ける角度を、ほんの少しだけ調整する。誰かの進路を塞がない位置を選ぶ。それだけで、衝突は避けられる。小さな摩擦は、事前に消せる。

 廊下に出た瞬間、空気が変わった。
 雨の匂いがする。湿った風が、何処かから入り込んできていた。コンクリートの冷えた匂いと、遠くで濡れた土の気配が混ざる。制服の繊維が、僅かに重くなる感覚があった。皮膚に触れる温度が、少しだけ下がる。

 ――今日は、早く帰ろう。
 そう思った、その直後。理由のない不安が、胸の奥に落ちた。重さはない。形もない。ただ、確かにそこにあると分かる感覚。こういうものは、後になって意味を持つことが多い。その時には、もう遅いことが殆どだ。

 三樹は、足を止めなかった。
 歩幅を、僅かに広げる。人の流れに紛れながら、ほんの少しだけ前へ出る。誰にも気付かれない程度に、速度を上げる。

 帰路へ向かう。
 背後に残る教室のざわめきが、いつまでも耳の奥に張り付いていた。


***


 玄関の鍵は開いていた。
 それだけで、呼吸が浅くなる。鍵を掛け忘れるような家ではない。母は、鍵に関して異様なほど几帳面だった。「指差し確認!」と声に出して、必ず確認する人だった。三樹は靴を脱ぐ動作を途中で止め、耳を澄ませた。

 音がない。テレビも、台所も、生活の擦れる音が、まるでしない。
 雨の音だけが、外側の世界を不規則に叩いている。

「……ただいま」

 声が、廊下に吸われた。
 返事はない。三樹は一瞬、言い直すべきか迷った。もっと、明るく言えば良かったのではないか。自分の声が足りなかったせいで、返事が返らなかったのではないか。そんな事を考える余裕が残っているのが、逆に不気味だった。

 一歩、踏み出す。
 廊下の奥。リビングへ続く扉が半開きになっていた。隙間から、電気の暖色が漏れている。扉のノブに手を掛けると、指先に僅かな抵抗を感じた。何かが扉の向こうで、引っ掛かっている。

 押し込むと、扉が少しだけ開き、抵抗が消えた。
 次に、匂いが鼻腔を掠めた。鉄。湿った鉄の匂い。雨の匂いと混ざり合い、喉の奥に薄い膜を張った。

 床に、母が倒れていた。その横に、父の足が見えた。
 テレビ台の前で、身体が不自然に折れ曲がっている。身体の下から滲んだ血が、僅かな傾斜に沿って流れていく。鮮血だった。

 そこまで見て、三樹の喉が無意識に鳴った。
 世界の焦点が、勝手に狂う。視界が遠近を失い、家具の輪郭が少しだけ霞んで見える。三樹は息を吸うのも忘れていたが、ようやく唾を飲み込んだ。

 そして、気付く。キッチンの前に、男が立っていた。鋭利なナイフを持ち、黒い上着を羽織っている。顔の半分が影に沈んでいて、その容貌は見えない。男の指先は濡れていない。その代わりに、上着は両親の血飛沫で塗れていて、ナイフの刃先からは、赤黒い液体が、床へ滴り落ちていた。

 三樹の脳は、そこでようやく言葉を探した。
「……あの、すみません。はは……」

 引き攣った口元から出たのは、それだけだった。
 男の肩が、僅かに揺れた。両親が殺されている状況で、三樹が謝罪の言葉を投げたことに笑ったのか、ただ呼吸をしたのかは分からない。男はナイフを持ったまま、ゆらりと一歩踏み出し、三樹の方へ向けて顎を上げた。

 口が動いた。
 何かを言ったはずだが、三樹の耳は言葉を拾わなかった。否、拾えなかったわけではない。ただ、拾う前に、別のものが押し寄せた。

 痛みではない。恐怖でもない。
 形容しがたい感情が、他人の形で流れ込んでくる。母の残り香のような怯えと、父の怒りの途中で折れた熱。そして、男の胸の底にある、粘ついた確信。そこに混ざる、細く鋭い殺意。僅かに気圧されて、半歩後退する。

 殺意が、刃の向きと同じ方向に流れた。
 それは予感でも、予知でもなく、確信として。このままだと、次に倒れるのは自分。あるいは、まだ息があるかもしれない家族。救えるかもしれない――という可能性が、三樹の中で紙のように薄く揺れた。

 三樹の身体が動いた。
 考えたわけでも、選んだわけでもなかった。ただ、逃げるという選択肢が、最初から頭になかった。足が床を蹴り、腕を伸ばす。ナイフを持つ男の手首を掴む。皮膚越しに、骨の硬さが伝わった。男の力が強い。指が滑った。

「――っ、やめてください! どうして、こんなこと……!」

 声が、はじめて言葉になった。
 男の目が、三樹を捉えた。目の奥に、妙に澄んだ色がある。冷たい水の底のような色で、恍惚に似た感情。その瞳が一瞬だけ細まり、口角が歪んだ。

 次の瞬間、三樹の視界が反転した。
 男が体当たりをしてきたのか、投げられたのか、単に足を取られたのか分からない。ただ、木目の床に背中を打ち、痛みが遅れてやってくる。空気が喉に詰まり、呼吸が一拍止まった。ナイフの柄が、誰かの手の中で軋む。

 男が馬乗りになった。
 だが、三樹はナイフから手を離さなかった。離せば終わる。その終わるという確信だけが、焦燥に代わって胸の中で冷たく光っていた。

 揉み合いの中で、男の腕が大きく振れた。
 刃が、三樹の頬を掠める。通った軌道が、一直線に熱を持つ。動揺を見せず抵抗した。そして、刃先が何処かに吸い込まれる。肉に沈む感触。抵抗。骨ではない、柔らかな抵抗。そこから先は、驚くほど簡単だった。

 頭上の喉から、変な音が漏れた。
 息とも、笑いとも付かない声。三樹の腹の上で男の口が開き、唾液と血が混ざったものが垂れ落ちる。生温い感触が肌を撫でた。

 三樹は自分の手を見た。
 男から奪ったナイフが握られている。
 刃は、男の腹に深く刺さっていた。

 自分が、この男を刺した。
 そう理解した瞬間、時間が少しだけ伸びた。
 男の目が、三樹の目を捉えたまま離さない。澄んでいた色が濁るでもなく、ただ遠ざかる。男は立ち上がろうとした。だが、足が言うことを聞かない。膝が折れ、そのまま凭れ掛かってくる。触れた男の体温が、やけに温かい。

 三樹は、その重みを感じたまま、呆然とした。
 男の呼吸が、浅くなる。胸が上下する回数が減っていく。
 そのとき、男が肩を揺らした。男は、笑っていた。

「……おめでとう。君も、私たち(・・・)の仲間入りだ……」
「な、なに言って――」

 男は言葉を残し、そのまま事切れた。
 胸の鼓動が止まった瞬間、部屋の空気が一段重くなる。男の言葉はきっと、冗談のはずなのに、世界が頷いた気がした。

 三樹の耳に、雨の音が戻ってきた。
 雨が窓ガラスを叩く音。換気扇の低い唸り。遠くで走る、車の水飛沫。
 日常の音に反して、視界は悲惨だった。

 その静けさの中で、唐突に。
 三樹の頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。場違いなほど明るい音。祝福の形をした音。耳の奥ではなく、脳そのものが揺れている感覚。

 三樹は、血だらけの両手で、耳を塞いだ。
 だが、音は止まらない。止める場所が、分からない。

 目の前に、光の板が生まれた。
 黒いウィンドウ――現実の上に重なる異物。
 そこに文字と、数値が並んでいる。三樹は瞬きをした。消えない。目を逸らしても、視界の端を横切って目の前に躍り出た。

 =========================================
  宮原 三樹/17歳 〈堕層指数〉1

  異能:感情先読み
  対象:他者
  範囲:未確定
  遮断:不可

  身体:
  ・体力  :標準
  ・反射  :標準
  ・痛覚処理:遅延なし

  精神:
  ・恐怖反応:検出あり
  ・自己認識:保持
  ・現実認知:基準内(※)

  ※堕層指数上昇に伴い変動します

  通知:
  ・〈堕層指数〉は行為により蓄積します
  ・増加時、知覚に変質が生じます
  ・変質は回復しません

  NEW ―― 初回開示、おめでとうございます
 =========================================

 理解できないのに、分かってしまう。意味が入ってくる。
 言葉にできない理解が、喉の奥に沈む。三樹の胃が、ゆっくりと縮んだ。

 祝う理由が、どこにもない。
 三樹は、血の匂いの中で、掠れた声を漏らした。

「……人を殺して、おめでとう? このウィンドウも、この男も、頭おかしいんじゃないのか……」

 返事はない。家族も、男も、ただ静かに横たわっている。
 ウィンドウだけが、淡く光っていた。
 三樹は、ふと、自分の両親の声を思い出した。

『犯罪を犯すなら徹底的にやれ』

 胸の奥に、嫌な予感が沈殿していく。
 これが始まりだと、理解してしまう。
 これから先、自分は“徹底的に”を試されるのだと。

 三樹は、血のついた手を握り締めた。
 指の隙間から、赤が滲んだ。
 雨は止まない。祝福の音だけが、いつまでも消えなかった。



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 教室の空気は、授業の終わりに向かい、薄く乾いていた。
 黒板に残ったチョークの粉が、光に触れて僅かに浮遊している。消し切れなかった白が、指で触れれば崩れそうなまま、そこに留まっていた。
 窓際の席に差し込む光だけが、机の角を不自然なほど白く縁取っている。
 その白は、何処か現実から浮いて見えた。触れれば冷たいはずなのに、見ているだけで温度が分からなくなる。
 |宮原三樹《みやはらみつき》は、プリントを二枚重ねた。
 端と端を合わせる。角を揃える。ほんの数ミリのずれを、指先で探る。紙の擦れる音が、やけに大きく感じられた。揃えたところで、世界は整わない。そんなことは、とうに分かっている。それでも、指先は止まらない。僅かな歪みがあるだけで、呼吸が浅くなる。紙一枚の乱れですら、何処かで誰かに迷惑を掛けているような錯覚が、喉の奥に引っ掛かる。
 整える。整え続ける。
 そうしていれば、自分の外側で起きている何かが、少しだけ静かになる。
「……あ、すみません」
 言葉は、殆ど反射だった。隣の席の椅子が、床を擦る。
 ただ、それだけの音。それでも三樹の口は、理由を探す前に動いていた。謝る必要があるかどうか判断するより先に、謝罪だけが滑り出る。
 もし今、誰かが不快になっているなら。その原因は、自分のどこかにある。そう考えてしまった方が、楽だった。考え続けるよりも、ずっと。
 背後で、誰かが肩を小突かれて笑った。
 軽い音だった。空気に溶けるような、ありふれた笑い声。けれど、その一瞬だけ。教室の温度が、ほんの僅かに落ちた気がした。三樹の胸の奥で、何かが静かに沈む。誰かが無理をしていないか。誰かが、置いていかれていないか。その笑いの裏に、ひびが入っていないか。反射的に、考える。
 視線を上げることはしない。
 確かめる勇気はないが、確かめないままでいることも出来ない。
 だから、考える。
 場の空気が崩れた原因を、反射的に探してしまう。自分が何かを見落としていたのではないかと、根拠もなく疑う。その行動が間違っているとは、考えたことがなかった。全体が回るなら、その方がいい。個人の快不快よりも、場が滞らないことの方が重要だ。そういうものだと、いつの間にか決めていた。
 他人が、自分のことを気に掛けてくれるとは思っていない。
 期待するだけ、無駄だ。ならば、自分が引き受ければいい。期待しない代わりに、責任を持つ。誰かの不都合が表に出る前に、自分の内側に沈めてしまえばいい。それが三樹なりの、世界との距離の取り方だった。
 頭の奥で、声がする。
 遠いはずの記憶が、やけに近い位置で響いた。
『人様に迷惑だけは掛けるな』
『犯罪を犯すなら、徹底的にやれ』
 柔らかく、だが逃げ場のない声。
 同じ口から発せられたとは思えないほど、温度の違う言葉。
 三樹は、気付かないふりをしたまま、息を吐く。
 肺の奥に溜まっていた空気が、僅かに濁っている気がした。
 この言葉は冗談のようで、冗談ではなかった。父も母も、本気でそれを教えた。前者は理解できる。世界は、大抵、誰かの迷惑で出来ている。なら、自分はその原因にならなければいい。それだけで、少なくとも誰かの負担は減る。単純で、分かりやすい。だから守れている、と考えるようにしている。
 問題は、後者だ。
 思い出すのは、テレビの光だった。夕食の時間、ニュース番組。画面の中で誰かが捕まっていた。スーパーの弁当を盗んだ男。値段の安さと、罪の軽さばかりが強調されていた記憶がある。そのとき、父は言った。
 ――やるなら、徹底的にやれ。
 その言葉の意味を、未だに掴みきれない。
 小さな罪を犯すくらいなら。中途半端に捕まるくらいなら。
 もっと――そこまで考えて、思考を止める。
 自分には、無理だ。そんなことを考えられるほど、頭は良くない。
 そもそも、犯罪を犯すつもりもない。だから考える必要もない。
 そう結論付けるのは、簡単だった。
 チャイムが鳴った。甲高い音が、教室の空気を一度だけ切り裂いた。
 次の瞬間には、全てが一斉に動き出す。椅子が引かれる音。鞄のファスナーが締まる音。誰かの柔らかな呼び声。音が重なり、混ざり、方向を失う。
 三樹はその流れに遅れないよう、鞄を持ち上げた。
 肩に掛ける角度を、ほんの少しだけ調整する。誰かの進路を塞がない位置を選ぶ。それだけで、衝突は避けられる。小さな摩擦は、事前に消せる。
 廊下に出た瞬間、空気が変わった。
 雨の匂いがする。湿った風が、何処かから入り込んできていた。コンクリートの冷えた匂いと、遠くで濡れた土の気配が混ざる。制服の繊維が、僅かに重くなる感覚があった。皮膚に触れる温度が、少しだけ下がる。
 ――今日は、早く帰ろう。
 そう思った、その直後。理由のない不安が、胸の奥に落ちた。重さはない。形もない。ただ、確かにそこにあると分かる感覚。こういうものは、後になって意味を持つことが多い。その時には、もう遅いことが殆どだ。
 三樹は、足を止めなかった。
 歩幅を、僅かに広げる。人の流れに紛れながら、ほんの少しだけ前へ出る。誰にも気付かれない程度に、速度を上げる。
 帰路へ向かう。
 背後に残る教室のざわめきが、いつまでも耳の奥に張り付いていた。
***
 玄関の鍵は開いていた。
 それだけで、呼吸が浅くなる。鍵を掛け忘れるような家ではない。母は、鍵に関して異様なほど几帳面だった。「指差し確認!」と声に出して、必ず確認する人だった。三樹は靴を脱ぐ動作を途中で止め、耳を澄ませた。
 音がない。テレビも、台所も、生活の擦れる音が、まるでしない。
 雨の音だけが、外側の世界を不規則に叩いている。
「……ただいま」
 声が、廊下に吸われた。
 返事はない。三樹は一瞬、言い直すべきか迷った。もっと、明るく言えば良かったのではないか。自分の声が足りなかったせいで、返事が返らなかったのではないか。そんな事を考える余裕が残っているのが、逆に不気味だった。
 一歩、踏み出す。
 廊下の奥。リビングへ続く扉が半開きになっていた。隙間から、電気の暖色が漏れている。扉のノブに手を掛けると、指先に僅かな抵抗を感じた。何かが扉の向こうで、引っ掛かっている。
 押し込むと、扉が少しだけ開き、抵抗が消えた。
 次に、匂いが鼻腔を掠めた。鉄。湿った鉄の匂い。雨の匂いと混ざり合い、喉の奥に薄い膜を張った。
 床に、母が倒れていた。その横に、父の足が見えた。
 テレビ台の前で、身体が不自然に折れ曲がっている。身体の下から滲んだ血が、僅かな傾斜に沿って流れていく。鮮血だった。
 そこまで見て、三樹の喉が無意識に鳴った。
 世界の焦点が、勝手に狂う。視界が遠近を失い、家具の輪郭が少しだけ霞んで見える。三樹は息を吸うのも忘れていたが、ようやく唾を飲み込んだ。
 そして、気付く。キッチンの前に、男が立っていた。鋭利なナイフを持ち、黒い上着を羽織っている。顔の半分が影に沈んでいて、その容貌は見えない。男の指先は濡れていない。その代わりに、上着は両親の血飛沫で塗れていて、ナイフの刃先からは、赤黒い液体が、床へ滴り落ちていた。
 三樹の脳は、そこでようやく言葉を探した。
「……あの、すみません。はは……」
 引き攣った口元から出たのは、それだけだった。
 男の肩が、僅かに揺れた。両親が殺されている状況で、三樹が謝罪の言葉を投げたことに笑ったのか、ただ呼吸をしたのかは分からない。男はナイフを持ったまま、ゆらりと一歩踏み出し、三樹の方へ向けて顎を上げた。
 口が動いた。
 何かを言ったはずだが、三樹の耳は言葉を拾わなかった。否、拾えなかったわけではない。ただ、拾う前に、別のものが押し寄せた。
 痛みではない。恐怖でもない。
 形容しがたい感情が、他人の形で流れ込んでくる。母の残り香のような怯えと、父の怒りの途中で折れた熱。そして、男の胸の底にある、粘ついた確信。そこに混ざる、細く鋭い殺意。僅かに気圧されて、半歩後退する。
 殺意が、刃の向きと同じ方向に流れた。
 それは予感でも、予知でもなく、確信として《《分かった》》。このままだと、次に倒れるのは自分。あるいは、まだ息があるかもしれない家族。救えるかもしれない――という可能性が、三樹の中で紙のように薄く揺れた。
 三樹の身体が動いた。
 考えたわけでも、選んだわけでもなかった。ただ、逃げるという選択肢が、最初から頭になかった。足が床を蹴り、腕を伸ばす。ナイフを持つ男の手首を掴む。皮膚越しに、骨の硬さが伝わった。男の力が強い。指が滑った。
「――っ、やめてください! どうして、こんなこと……!」
 声が、はじめて言葉になった。
 男の目が、三樹を捉えた。目の奥に、妙に澄んだ色がある。冷たい水の底のような色で、恍惚に似た感情。その瞳が一瞬だけ細まり、口角が歪んだ。
 次の瞬間、三樹の視界が反転した。
 男が体当たりをしてきたのか、投げられたのか、単に足を取られたのか分からない。ただ、木目の床に背中を打ち、痛みが遅れてやってくる。空気が喉に詰まり、呼吸が一拍止まった。ナイフの柄が、誰かの手の中で軋む。
 男が馬乗りになった。
 だが、三樹はナイフから手を離さなかった。離せば終わる。その終わるという確信だけが、焦燥に代わって胸の中で冷たく光っていた。
 揉み合いの中で、男の腕が大きく振れた。
 刃が、三樹の頬を掠める。通った軌道が、一直線に熱を持つ。動揺を見せず抵抗した。そして、刃先が何処かに吸い込まれる。肉に沈む感触。抵抗。骨ではない、柔らかな抵抗。そこから先は、驚くほど簡単だった。
 頭上の喉から、変な音が漏れた。
 息とも、笑いとも付かない声。三樹の腹の上で男の口が開き、唾液と血が混ざったものが垂れ落ちる。生温い感触が肌を撫でた。
 三樹は自分の手を見た。
 男から奪ったナイフが握られている。
 刃は、男の腹に深く刺さっていた。
 自分が、この男を刺した。
 そう理解した瞬間、時間が少しだけ伸びた。
 男の目が、三樹の目を捉えたまま離さない。澄んでいた色が濁るでもなく、ただ遠ざかる。男は立ち上がろうとした。だが、足が言うことを聞かない。膝が折れ、そのまま凭れ掛かってくる。触れた男の体温が、やけに温かい。
 三樹は、その重みを感じたまま、呆然とした。
 男の呼吸が、浅くなる。胸が上下する回数が減っていく。
 そのとき、男が肩を揺らした。男は、笑っていた。
「……おめでとう。君も、|私たち《・・・》の仲間入りだ……」
「な、なに言って――」
 男は言葉を残し、そのまま事切れた。
 胸の鼓動が止まった瞬間、部屋の空気が一段重くなる。男の言葉はきっと、冗談のはずなのに、世界が頷いた気がした。
 三樹の耳に、雨の音が戻ってきた。
 雨が窓ガラスを叩く音。換気扇の低い唸り。遠くで走る、車の水飛沫。
 日常の音に反して、視界は悲惨だった。
 その静けさの中で、唐突に。
 三樹の頭の中で、ファンファーレが鳴り響いた。場違いなほど明るい音。祝福の形をした音。耳の奥ではなく、脳そのものが揺れている感覚。
 三樹は、血だらけの両手で、耳を塞いだ。
 だが、音は止まらない。止める場所が、分からない。
 目の前に、光の板が生まれた。
 黒いウィンドウ――現実の上に重なる異物。
 そこに文字と、数値が並んでいる。三樹は瞬きをした。消えない。目を逸らしても、視界の端を横切って目の前に躍り出た。
 =========================================
  宮原 三樹/17歳 〈堕層指数〉1
  異能:感情先読み
  対象:他者
  範囲:未確定
  遮断:不可
  身体:
  ・体力  :標準
  ・反射  :標準
  ・痛覚処理:遅延なし
  精神:
  ・恐怖反応:検出あり
  ・自己認識:保持
  ・現実認知:基準内(※)
  ※堕層指数上昇に伴い変動します
  通知:
  ・〈堕層指数〉は行為により蓄積します
  ・増加時、知覚に変質が生じます
  ・変質は回復しません
  NEW ―― 初回開示、おめでとうございます
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 理解できないのに、分かってしまう。意味が入ってくる。
 言葉にできない理解が、喉の奥に沈む。三樹の胃が、ゆっくりと縮んだ。
 祝う理由が、どこにもない。
 三樹は、血の匂いの中で、掠れた声を漏らした。
「……人を殺して、おめでとう? このウィンドウも、この男も、頭おかしいんじゃないのか……」
 返事はない。家族も、男も、ただ静かに横たわっている。
 ウィンドウだけが、淡く光っていた。
 三樹は、ふと、自分の両親の声を思い出した。
『犯罪を犯すなら徹底的にやれ』
 胸の奥に、嫌な予感が沈殿していく。
 これが始まりだと、理解してしまう。
 これから先、自分は“徹底的に”を試されるのだと。
 三樹は、血のついた手を握り締めた。
 指の隙間から、赤が滲んだ。
 雨は止まない。祝福の音だけが、いつまでも消えなかった。