21g
ー/ー ――あれはさそり座、胸に赤色の星が見えるだろう?
耳元で囁いた、声は今や何処にもなかった。
白い光、赤い光。何も語らない、何も求めない。ただ瞬いて、天上にあるもの。あの人はそれになったのだと考えた時、視界が歪んで水に沈んだ。
私は泣いているのだろう。きっとそう。雨が降ってきたなら、頭から濡れるはずだから。
星が見えない、貴方が見えない。何度拭っても溢れてくる。止まらない、それが悲しい。はやく、乾いて、星空を、見上げたいのに。
痛むのは胸の奥。そこには心があるはずだ。あの人が作り上げた、私だけの小さな心を、今すぐに取り出して洗い流してしまいたかった。何もかも忘れるように、石鹸を泡立てて。
空にはこんなにもたくさんの星があるのに。
地上にはもう、光はなかった。
貴方以外のものは何一つ欲しくはなかった。
「ほ、本当に金をくれるんだろうな?」
骸骨のように痩せた男が目を血走らせて縋り付いている。その汚れた手で衣服を掴まれているにもかかわらず、嫌そうな表情の一つも見せずに男が言った。
「もちろん。これは取引ですからね。どうぞお持ちください」
若い男だ。何が楽しいのか、口元には微笑みを浮かべ、痩せた男の手に鞄の持ち手を握らせた。はち切れそうなほどに膨らんだ鞄だ。
「は、はは……!」
痩せた男は、若い男の着衣からぱっと手を離すと、明るい大通りの方へと走り去っていった。渡された鞄を大事そうに抱えて、息子の方には見向きもせずに。
代わりに、薄暗い路地裏に残った若い男がこちらを向いて、手を差し伸べた。
「おいで」
僕はそれに、自分の血と土のこびり付いた手のひらを重ねた。目の前の男の白い手が汚れてしまう――と、ぼんやりと思った。
男は僕の小さな手をしっかりと握り込むと、歩き出した。
何処へ行くのかと尋ねることはしなかった。行き先など何処でもいい。父親が幾らで僕を売ったのか、手を引くこの男が何の目的で僕を買ったのか、それらのことにさえ興味はなかった。
ただ、空腹だった。
身体に付く傷は時間が経てば癒えるものだ。けれど空腹だけは、何かを口に入れなければ終わらない。何をしても死なないからと言って、つらくないとは限らない。
『お前に食わせる飯ほど、無駄なもんはねぇな』
父親は僕の皿から、硬いパンの一欠片さえも取り上げた。喉が渇いたのなら川の水でも飲んでおけと言われ、泥混じりの汚水を啜った。空腹だけが僕の敵だった。
男のものと思われる大きな屋敷に着いた途端、僕は桶に入れられた。服を脱がされ、温かい湯をかけられた――冷たい水ではなく。石鹸の泡が口の中に入って、その味わったことのない刺激に僕は慌てて吐き出した。
「あぁ、すまないね、苦かっただろう」
男は新しい湯を両手に掬って、僕の口元に差し出した。袖をまくり上げていても男の衣服には湯が散っているが、気にする様子はなかった。
埃も垢も、髪に絡まる泥も、すべて洗い流された。
今まで着ていた、穴だらけのぼろ切れのさらに残骸のような服は、もう見当たらなかった。男が着せてくれた新しい衣服は、日向の草むらで嗅いだような、お日さまの匂いがした。
それから男は僕を連れて、違う部屋の扉を開けた。
大きな机の上に、湯気の立つ皿が並んでいた。息を吸い込むと、香ばしい匂いが胸いっぱいに広がり、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
柔らかくてふかふかのパンと、味の付いたスープ。とろりとしていて飲みやすかった。もっと、もっと、と食べ物に手を伸ばす僕を叱りつけることもなく、男はただ穏やかに微笑んでいた。
天国というものがあるなら、きっと此処だと僕は思った。
彼は広い屋敷にひとりで住んでいるようだった。時折、掃除夫や料理人と思われる者たちが出入りしていたが、日が暮れる前には姿を消した。
屋敷の中にはいくつかの絵が飾られていて、彼にも家族がいたことを想像することができる。立派な髭をたくわえた壮年の男性。彼の隣で椅子に座り、儚げに微笑む女性。
しかし、今は誰もいない。彼の腕に抱かれた幼い男の子が何処へ行ったのか、僕には分からない。けれど、今はもういないということ、きっとそれが答えなのだろうと思った。
夜になると、彼は僕を地下室へ連れて行った。そこは、大きな机が一つだけ置かれた不思議な部屋だった。絨毯も壁紙もない。壁際には流し台と小さな棚があり、大小様々な薬瓶のようなものが並んでいた。
彼は僕を机に座らせると、何も言わずに水の入ったカップを差し出した。
入っているのはおそらく水だけではない――けれど、それが薬であろうと毒であろうと、僕は構わなかった。空腹が満たされたのだから、何も恐れるものはない。
そうしてコップの水を全て飲み干しても、僕が死ぬことはなかった。ただ、少し経つと、なんとなく頭がぼんやりとしてきたような、そんな気がした。
「眠ってかまわないよ」
彼はそう言って、僕を机の上に横たえた。
眠たくはなかった。ただ、頭と身体が別々のものになったかのように、身体がうまく動かない。彼は何をしているのだろう。金属の擦れ合う音が聞こえる。
胸からお腹の辺りに何かが触れて、僕はその正体を見ようと思った。
頭を動かそうとしたからか、彼は困ったような表情で僕の顔を覗き込んできた。片方の手で僕の頭を撫で、顔の上に布を被せた。何も見えなくなった。
お腹の内側で、何かが動いている。探るように、繊細に。きっと彼の手だと思った。少しだけ、くすぐったいような気がした。
それは数分だったようにも、数時間だったようにも思える。やがて水の流れる音がして、顔の上の布が取り払われた。
「よくがんばったね」
彼は僕の顔を覗き込み、また頭を撫でた。お腹を見下ろすと、一筋の傷が癒えて消えていくところだった。
その地下室には、入ってきた扉とは別にもう一つ扉があったが、僕はその向こうに何があるのか、分かったような気がした。嗅ぎ慣れた腐臭は、薬の匂いだけでは誤魔化せない。
彼は優しかった。温かい食事も、柔らかい寝床も、惜しむことなく与えてくれた。たとえ、彼が僕の中に何を探していようと、その快適な暮らしを手放そうとは思わなかった。
読めもしないのに触れてみたくて、僕が書斎の棚から本を引っ張り出した時も、彼は怒らなかった。ぎっしりと詰まった文字ばかりで絵のない本だった。途方に暮れた僕を見て、彼はペンを走らせる手を止めて言った。
「持っておいで。読んであげよう」
彼は僕を膝の上に座らせて、一文ずつ指でなぞりながら読み上げていった。それは難しい内容の本で、僕には理解できなかったが、次に彼が選んでくれた本は楽しかった。僕は彼の声を聴きながら、頭の中で冒険をした。怪物を倒し、宝物を見つけ、お姫様を救い出した。
窓の外では、いつの間にか日が暮れていた。
僕の中に欲しいものがあるなら、全部持って行ってくれていいのに――そう思っていた。
いつの頃からか、彼は探し物をしなくなった。代わりに、本を読んでくれる時間が増えた。郊外の丘へ出かけて行って、風にそよぐ花を眺めた。
地下室の天井の代わりに星空を見上げて、神話を語りながら星座を探した。
それはきっと、彼が本当の息子にしてやりたかったことだろう。
私が彼に買われてから、何度、春を迎えただろう。
いつか彼の背丈を追い抜く日が来るかもしれないと、私は想像していた。それは楽しみであり、同時に不安でもあった。今はまだ、頭を撫でてくれる。けれど大きくなってしまったら、撫でてくれなくなるかもしれないと考えながら過ごしていた。
――そんな日は、来ないのに。
その日、私は彼に見守られながら、文字を書く練習をしていた。私の文字は角張っていて、彼の書く滑らかなお手本とは程遠かった。
唐突に大きな物音がして、部屋の扉が蹴り開けられた。同じ帽子を目深に被り、同じ服を着た男たちが雪崩れ込んできた。
一人の男が大きな声で叫んだ。何を言ったのかは聞き取れなかったが、薄らと理解はできた。私の身体は強張り、うまく動かなかった。
――きっと地下室のその奥を、暴きに来たのだ。
男たちは彼を取り囲み、腕を掴んで部屋から連れ出そうとした。私は彼に駆け寄ろうとした。
「待って、連れて行かないで!」
伸ばした手は、男たちによって押さえつけられた。いくら背が伸びても、私は無力だった。
彼は抵抗をせず、男たちに半ば引きずられるように連れ去られた。私の方を見ながら、困ったように眉を下げて微笑んでいた。
その横顔が、最後だった。
保護という名の監視の下に置かれてから、しばらくして、私は彼が獄中で死んだことを知った。
『生命の灯が消えた後、私たちは何処へ行くのだと思う?』
難しくて分からない。彼の言葉はいつだってそうだ。
『天国、地獄。あぁ、星になると言う人もいるね』
それなら星がいい。私は確かそう言った。
『それはどうして?』
貴方は星が好きだから。
『……そう』
彼の好きなものになりたいと思った。
――私には、なれなかった。
耳元で囁いた、声は今や何処にもなかった。
白い光、赤い光。何も語らない、何も求めない。ただ瞬いて、天上にあるもの。あの人はそれになったのだと考えた時、視界が歪んで水に沈んだ。
私は泣いているのだろう。きっとそう。雨が降ってきたなら、頭から濡れるはずだから。
星が見えない、貴方が見えない。何度拭っても溢れてくる。止まらない、それが悲しい。はやく、乾いて、星空を、見上げたいのに。
痛むのは胸の奥。そこには心があるはずだ。あの人が作り上げた、私だけの小さな心を、今すぐに取り出して洗い流してしまいたかった。何もかも忘れるように、石鹸を泡立てて。
空にはこんなにもたくさんの星があるのに。
地上にはもう、光はなかった。
貴方以外のものは何一つ欲しくはなかった。
「ほ、本当に金をくれるんだろうな?」
骸骨のように痩せた男が目を血走らせて縋り付いている。その汚れた手で衣服を掴まれているにもかかわらず、嫌そうな表情の一つも見せずに男が言った。
「もちろん。これは取引ですからね。どうぞお持ちください」
若い男だ。何が楽しいのか、口元には微笑みを浮かべ、痩せた男の手に鞄の持ち手を握らせた。はち切れそうなほどに膨らんだ鞄だ。
「は、はは……!」
痩せた男は、若い男の着衣からぱっと手を離すと、明るい大通りの方へと走り去っていった。渡された鞄を大事そうに抱えて、息子の方には見向きもせずに。
代わりに、薄暗い路地裏に残った若い男がこちらを向いて、手を差し伸べた。
「おいで」
僕はそれに、自分の血と土のこびり付いた手のひらを重ねた。目の前の男の白い手が汚れてしまう――と、ぼんやりと思った。
男は僕の小さな手をしっかりと握り込むと、歩き出した。
何処へ行くのかと尋ねることはしなかった。行き先など何処でもいい。父親が幾らで僕を売ったのか、手を引くこの男が何の目的で僕を買ったのか、それらのことにさえ興味はなかった。
ただ、空腹だった。
身体に付く傷は時間が経てば癒えるものだ。けれど空腹だけは、何かを口に入れなければ終わらない。何をしても死なないからと言って、つらくないとは限らない。
『お前に食わせる飯ほど、無駄なもんはねぇな』
父親は僕の皿から、硬いパンの一欠片さえも取り上げた。喉が渇いたのなら川の水でも飲んでおけと言われ、泥混じりの汚水を啜った。空腹だけが僕の敵だった。
男のものと思われる大きな屋敷に着いた途端、僕は桶に入れられた。服を脱がされ、温かい湯をかけられた――冷たい水ではなく。石鹸の泡が口の中に入って、その味わったことのない刺激に僕は慌てて吐き出した。
「あぁ、すまないね、苦かっただろう」
男は新しい湯を両手に掬って、僕の口元に差し出した。袖をまくり上げていても男の衣服には湯が散っているが、気にする様子はなかった。
埃も垢も、髪に絡まる泥も、すべて洗い流された。
今まで着ていた、穴だらけのぼろ切れのさらに残骸のような服は、もう見当たらなかった。男が着せてくれた新しい衣服は、日向の草むらで嗅いだような、お日さまの匂いがした。
それから男は僕を連れて、違う部屋の扉を開けた。
大きな机の上に、湯気の立つ皿が並んでいた。息を吸い込むと、香ばしい匂いが胸いっぱいに広がり、僕はごくりと唾を飲み込んだ。
柔らかくてふかふかのパンと、味の付いたスープ。とろりとしていて飲みやすかった。もっと、もっと、と食べ物に手を伸ばす僕を叱りつけることもなく、男はただ穏やかに微笑んでいた。
天国というものがあるなら、きっと此処だと僕は思った。
彼は広い屋敷にひとりで住んでいるようだった。時折、掃除夫や料理人と思われる者たちが出入りしていたが、日が暮れる前には姿を消した。
屋敷の中にはいくつかの絵が飾られていて、彼にも家族がいたことを想像することができる。立派な髭をたくわえた壮年の男性。彼の隣で椅子に座り、儚げに微笑む女性。
しかし、今は誰もいない。彼の腕に抱かれた幼い男の子が何処へ行ったのか、僕には分からない。けれど、今はもういないということ、きっとそれが答えなのだろうと思った。
夜になると、彼は僕を地下室へ連れて行った。そこは、大きな机が一つだけ置かれた不思議な部屋だった。絨毯も壁紙もない。壁際には流し台と小さな棚があり、大小様々な薬瓶のようなものが並んでいた。
彼は僕を机に座らせると、何も言わずに水の入ったカップを差し出した。
入っているのはおそらく水だけではない――けれど、それが薬であろうと毒であろうと、僕は構わなかった。空腹が満たされたのだから、何も恐れるものはない。
そうしてコップの水を全て飲み干しても、僕が死ぬことはなかった。ただ、少し経つと、なんとなく頭がぼんやりとしてきたような、そんな気がした。
「眠ってかまわないよ」
彼はそう言って、僕を机の上に横たえた。
眠たくはなかった。ただ、頭と身体が別々のものになったかのように、身体がうまく動かない。彼は何をしているのだろう。金属の擦れ合う音が聞こえる。
胸からお腹の辺りに何かが触れて、僕はその正体を見ようと思った。
頭を動かそうとしたからか、彼は困ったような表情で僕の顔を覗き込んできた。片方の手で僕の頭を撫で、顔の上に布を被せた。何も見えなくなった。
お腹の内側で、何かが動いている。探るように、繊細に。きっと彼の手だと思った。少しだけ、くすぐったいような気がした。
それは数分だったようにも、数時間だったようにも思える。やがて水の流れる音がして、顔の上の布が取り払われた。
「よくがんばったね」
彼は僕の顔を覗き込み、また頭を撫でた。お腹を見下ろすと、一筋の傷が癒えて消えていくところだった。
その地下室には、入ってきた扉とは別にもう一つ扉があったが、僕はその向こうに何があるのか、分かったような気がした。嗅ぎ慣れた腐臭は、薬の匂いだけでは誤魔化せない。
彼は優しかった。温かい食事も、柔らかい寝床も、惜しむことなく与えてくれた。たとえ、彼が僕の中に何を探していようと、その快適な暮らしを手放そうとは思わなかった。
読めもしないのに触れてみたくて、僕が書斎の棚から本を引っ張り出した時も、彼は怒らなかった。ぎっしりと詰まった文字ばかりで絵のない本だった。途方に暮れた僕を見て、彼はペンを走らせる手を止めて言った。
「持っておいで。読んであげよう」
彼は僕を膝の上に座らせて、一文ずつ指でなぞりながら読み上げていった。それは難しい内容の本で、僕には理解できなかったが、次に彼が選んでくれた本は楽しかった。僕は彼の声を聴きながら、頭の中で冒険をした。怪物を倒し、宝物を見つけ、お姫様を救い出した。
窓の外では、いつの間にか日が暮れていた。
僕の中に欲しいものがあるなら、全部持って行ってくれていいのに――そう思っていた。
いつの頃からか、彼は探し物をしなくなった。代わりに、本を読んでくれる時間が増えた。郊外の丘へ出かけて行って、風にそよぐ花を眺めた。
地下室の天井の代わりに星空を見上げて、神話を語りながら星座を探した。
それはきっと、彼が本当の息子にしてやりたかったことだろう。
私が彼に買われてから、何度、春を迎えただろう。
いつか彼の背丈を追い抜く日が来るかもしれないと、私は想像していた。それは楽しみであり、同時に不安でもあった。今はまだ、頭を撫でてくれる。けれど大きくなってしまったら、撫でてくれなくなるかもしれないと考えながら過ごしていた。
――そんな日は、来ないのに。
その日、私は彼に見守られながら、文字を書く練習をしていた。私の文字は角張っていて、彼の書く滑らかなお手本とは程遠かった。
唐突に大きな物音がして、部屋の扉が蹴り開けられた。同じ帽子を目深に被り、同じ服を着た男たちが雪崩れ込んできた。
一人の男が大きな声で叫んだ。何を言ったのかは聞き取れなかったが、薄らと理解はできた。私の身体は強張り、うまく動かなかった。
――きっと地下室のその奥を、暴きに来たのだ。
男たちは彼を取り囲み、腕を掴んで部屋から連れ出そうとした。私は彼に駆け寄ろうとした。
「待って、連れて行かないで!」
伸ばした手は、男たちによって押さえつけられた。いくら背が伸びても、私は無力だった。
彼は抵抗をせず、男たちに半ば引きずられるように連れ去られた。私の方を見ながら、困ったように眉を下げて微笑んでいた。
その横顔が、最後だった。
保護という名の監視の下に置かれてから、しばらくして、私は彼が獄中で死んだことを知った。
『生命の灯が消えた後、私たちは何処へ行くのだと思う?』
難しくて分からない。彼の言葉はいつだってそうだ。
『天国、地獄。あぁ、星になると言う人もいるね』
それなら星がいい。私は確かそう言った。
『それはどうして?』
貴方は星が好きだから。
『……そう』
彼の好きなものになりたいと思った。
――私には、なれなかった。
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