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こんな世界で、彼女はページをめくる

ー/ー



 指先から伝わってくるのは、ひんやりとしたなめらかな触感だった。

 仔牛の背の皮を丁寧になめし、三度の染色を経て磨き上げられた漆黒の革。私はそこに、高純度の金箔を熱で圧着していく。ミリ単位の狂いも許されない、息を詰めるような作業だ。箔押しの刻印が革の表面に沈み込む。
 第三百五十層にある私の工房は、徹底して音が遮断されていた。空調の微かな稼働音さえ、特殊な吸音材によって抑え込まれている。

 私はブックデザイナーを職業としている。
 今の時代、この肩書きが意味するものは、何世紀も前のそれとは決定的に異なっている。もはや本は、情報を伝達するための大衆的なメディアではない。限定された特権階級だけが所有を許される、工芸品にして、芸術品である。
 社会の大多数を占める中層階から低層階の人々にとって、文字を読むという行為は、とうの昔に放棄されれている。
 まどろっこしいプロセスを省略し、直接脳の報酬系を刺激する道を人々は選んだ。彼らの網膜には常に極彩色のホログラムが投影され、頸椎に貼られた安価な神経パッチからは、歌や断片的な映像が、いつでも流れている。
 三行以上のテキストを順序立てて目で追い、文脈を理解する。そんなスローで非効率的な行為に耐えられる脳の回路は、大多数の人間の中ですでに退化している。
 だからこそ、「読むこと」は究極の贅沢となった。
 即座に快楽を与えてくれるノイズを遮断し、あえて情報を遅延させ、物理的な物質を通してのみ得られる静寂の世界に浸ること。天然の木材から作られたパルプ紙や、動物由来の革といった、今や絶滅危惧種に等しい超・高級素材を惜しげもなく使い、それを美しく束ねる。富裕層たちはそれを愛でるために、途方もない対価を支払う。私は、彼らの虚栄心と知的探求心を満たすための、特権階級の職人だった。

 彼女の存在に気づいたのは、今から半年前のことだ。
 毎日十九時、私は工房での作業を終えると、共有広場へ向かう。そこは上層と中層、そして低層を繋ぐ巨大なエレベーターシャフトが貫く、都市のハブのような場所だ。広場の中央には、強化ガラスで隔てられた低層階行きの待合エリアがある。
 私はいつも、安全な上層のカフェテラスから、そのガラス越しに彼女を見ていた。
 おそらく二十四歳前後。低層階の過酷な労働環境に身を置いていることは、そのくすんだ作業服や、手首に巻かれた保護バンテージ、そして時折ガラス越しにも伝わってくるような深い疲労の影から明らかだった。
 彼女は、広場の喧騒の中でたった一人、古びた一冊の「本」を開いていた。
 最初は目を疑った。低層階の人間が、紙の本を持っているはずがない。もし持っていたとしても、それを読めるはずがないのだ。しかし、彼女は確かに読んでいた。周囲の人間たちが、虚空を見つめながら神経パッチの快楽にだらしなく口元を緩ませたり、無意味な短い言葉を叫んだりして思考を停止させている中、彼女だけが、楽しそうにページに視線を落としていた。
 擦り切れ、背表紙が崩れかかったその本は、おそらく彼女が半年分、いやそれ以上の蓄えを投じて、闇市の古物商から手に入れたものだろう。ここからでは表紙くらいしか見えない。あとで調べてみると、その本が「人類が初めて月面を歩いた時代の記録」を記した古い物語であることがわかった。
 彼女ははるか彼方の、真空と静寂の世界に思いを馳せているのだ。
 ボロボロになった紙の端を優しくめくる彼女の指先は、とても美しく見えた。

 それから半年間、私は毎日十九時になると広場に通い、ガラスの向こうの彼女を観察し続けた。彼女のページを繰る速度、眉間に寄るわずかな皺、読み終えたあとのため息。それらすべてが私の胸を締め付けた。それが恋だと自覚するまでに時間はかからなかった。
 だが同時に、私は自分自身の醜悪さを自覚してしまった。
 私は安全圏にいる。分厚いガラスと、階級という絶対に越えられない壁のこちら側から、彼女の美しい孤独を「風景」として覗き見ているだけだ。
 私は己の無知と傲慢を深く恥じた。私がこれまで作ってきた「美しい本」は、すべて彼女のような人間を拒絶し、遠ざけるために機能していたのだ。

 私は工房での仕事の合間に、密かに新しいプロジェクトを始めた。
 低層階の労働者が、半年分の蓄えなど投じなくても手に取れる価格。それでいて、彼女が見せてくれたあの気高い読書の姿に相応しい、「読む喜び」と美しさを決して損なわない本を作ること。
 しかし、それは困難を極めた。
 紙や革を使えない以上、代替の素材を見つけるしかない。私は中層階の工業プラントや、さらに下の廃棄物処理層から様々なサンプルを取り寄せた。
 最初に目をつけたのは、都市の廃棄プラスチックから精製された極薄の再生フィルムだった。透明で安価だが、そのままでは光を反射しすぎて文字を読むには適さない。私はそこに微細なブラスト加工を施し、光沢を抑え、紙に近い摩擦係数を持たせる実験を繰り返した。インクの乗りが悪ければ、定着剤の配合をミリグラム単位で調整した。
 次に試したのは、工業用の培養菌糸体シートだ。これは主に低層階の断熱材として使われている安価な素材だが、特殊な酵素で処理し、プレス機で極限まで圧縮すると、まるで古い羊皮紙のような独特のテクスチャと柔軟性が生まれた。
「レン、お前、最近何をコソコソやってるんだ?」
 ある日の午後、同僚の熟練職人であるカシムが、私の作業台を覗き込んで鼻で笑った。
「なんだそのゴミは。そんな廃材で本を作るなんて、うちのブランドの品位が落ちるぞ。お前、頭がおかしくなったんじゃないか?」
「これは個人的な実験です」
 私は短く答えた。
「ふん。下層の連中向けか?  無駄なことだ。あいつらには文字なんて読めない。神経パッチの快楽を与えておけば、大人しく歯車として働くんだよ。豚に真珠、いや、豚に本を与えてどうする」
 カシムの言葉は、この世界の支配層の論理そのものだった。
 彼の言う通りかもしれない。私がやろうとしていることは、単なる職人の自己満足を越えて、社会システムに対する反逆行為になり得る。もしこの技術が広まれば、治安維持局から目をつけられ、私はこの上層階から追放されるかもしれない。その危険性は十分に理解していた。
 だが、あのガラス越しの横顔を思い出せば、手が止まることはなかった。
 私の頭の中にあったのは、大衆の啓蒙などではない。ただ一人の女性を肯定したいという、個人的で強烈なエゴだった。
 失敗を重ね、指を薬品で焦がしながらも、三ヶ月後、私はついに納得のいくプロトタイプを完成させた。
 表紙には菌糸体シートを深い藍色に染め上げたものを使い、鈍い銀色でタイトルを印字した。中のページは再生フィルムを積層させたもので、めくるたびに、本物の紙とは違うが、どこかしっとりとした心地よい音が鳴る。軽く、水や汚れに強く、それでいて、手の中で確かな質量を感じさせる物質。
 誰も搾取しない、誰もが手に取れる美しい本。
 私はその束を胸に抱き、静かに工房の扉を閉めた。

 半年間の安全圏からの観察を、終わらせる時が来た。
 今日の十九時。私は共有広場へ向かう前、入念に準備をした。上層階特有の仕立ての良いウールのジャケットを脱ぎ捨て、飾りのない無地の綿シャツ一枚になった。髪に撫でつけていた香油も洗い流し、身につけているあらゆる特権の記号を削ぎ落とした。彼女に余計な威圧感を与えないためだ。私は一人の、ただの人間として彼女の前に立ちたかった。
 広場はいつものように混雑していた。低層行きのエレベーターホールの前。
 私は、雑多な音にまみれながら、人混みを縫って進んだ。
 エレベーターの扉の前に、彼女はいた。今日もまた、あの古い月の記録を開き、周囲の喧騒など一切存在しないかのように、深い静寂の中で活字を追っている。
 あと三歩。あと二歩。
「間もなく、低層階行きのエレベーターが到着します」
 無機質なアナウンスが響き、待合エリアの人々がドヤドヤと動き始める。
 彼女がパタン、と本を閉じ、顔を上げた。
 その瞬間、私は彼女の視界に踏み込んだ。
「あの」
 私の声は、ひどく掠れていた。
 彼女が驚いてこちらを見た。至近距離で見る彼女の瞳は、想像していたよりもずっと深く、暗い色をしていた。その瞳の奥に、見知らぬ男への警戒と、わずかな戸惑いが浮かぶのがわかった。
 語彙の豊かさも、住む世界も違う。ここで気の利いた言葉を並べ立てても、それは上層階の驕りでしかない。私は、自分の手の中にある新しい素材の本のプロトタイプを隠すように背中に回し、すべての装飾を捨てた一言だけを投げかけた。
「本、お好きなんですか?」

 雑多な音が支配する待合エリアの中で、そこだけがぽっかりと無音になったような気がした。
 エレベーターの重い扉が、ゆっくりと開き始めた。
「はい」
 彼女の唇が動いた。小さな、けれど、力強い声だった。
「とても」
 彼女はそれだけ言い、少しだけ目を伏せて会釈をすると、開いたエレベーターの中へと歩み去っていった。
 扉が閉まる直前、彼女の手の中にしっかりと抱えられたあのボロボロの本が、私の目に焼き付いた。
 やがて扉は完全に閉ざされ、彼女は下層へ帰っていった。
 後に残されたのは、私の中に生まれた静かな確信だけだった。
 この恋が成就する未来は、この先もないだろう。私は彼女の名前すら知らないし、彼女も私を探すことはない。
 それでいい。

 私は上層階の工房へと戻った。廃棄プラスチックと菌糸体から作られた、誰の目にも美しく、そして誰の手にも届くその本を、そっと撫でた。
 明日から、私はこの技術の量産化に取り掛かる。どんな圧力がかかろうとも、絶対に止めるつもりはない。
 私がこれから作り出すこの本は、分厚い世界の断絶に、小さな、けれど確かな風穴を開けていく。
 いつか、彼女のような人々が、当たり前のように新しい本を開き、はるか遠くの星へと思索を巡らせるその日まで。
 私はもう二度と、目を逸らさない。


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 指先から伝わってくるのは、ひんやりとしたなめらかな触感だった。
 仔牛の背の皮を丁寧になめし、三度の染色を経て磨き上げられた漆黒の革。私はそこに、高純度の金箔を熱で圧着していく。ミリ単位の狂いも許されない、息を詰めるような作業だ。箔押しの刻印が革の表面に沈み込む。
 第三百五十層にある私の工房は、徹底して音が遮断されていた。空調の微かな稼働音さえ、特殊な吸音材によって抑え込まれている。
 私はブックデザイナーを職業としている。
 今の時代、この肩書きが意味するものは、何世紀も前のそれとは決定的に異なっている。もはや本は、情報を伝達するための大衆的なメディアではない。限定された特権階級だけが所有を許される、工芸品にして、芸術品である。
 社会の大多数を占める中層階から低層階の人々にとって、文字を読むという行為は、とうの昔に放棄されれている。
 まどろっこしいプロセスを省略し、直接脳の報酬系を刺激する道を人々は選んだ。彼らの網膜には常に極彩色のホログラムが投影され、頸椎に貼られた安価な神経パッチからは、歌や断片的な映像が、いつでも流れている。
 三行以上のテキストを順序立てて目で追い、文脈を理解する。そんなスローで非効率的な行為に耐えられる脳の回路は、大多数の人間の中ですでに退化している。
 だからこそ、「読むこと」は究極の贅沢となった。
 即座に快楽を与えてくれるノイズを遮断し、あえて情報を遅延させ、物理的な物質を通してのみ得られる静寂の世界に浸ること。天然の木材から作られたパルプ紙や、動物由来の革といった、今や絶滅危惧種に等しい超・高級素材を惜しげもなく使い、それを美しく束ねる。富裕層たちはそれを愛でるために、途方もない対価を支払う。私は、彼らの虚栄心と知的探求心を満たすための、特権階級の職人だった。
 彼女の存在に気づいたのは、今から半年前のことだ。
 毎日十九時、私は工房での作業を終えると、共有広場へ向かう。そこは上層と中層、そして低層を繋ぐ巨大なエレベーターシャフトが貫く、都市のハブのような場所だ。広場の中央には、強化ガラスで隔てられた低層階行きの待合エリアがある。
 私はいつも、安全な上層のカフェテラスから、そのガラス越しに彼女を見ていた。
 おそらく二十四歳前後。低層階の過酷な労働環境に身を置いていることは、そのくすんだ作業服や、手首に巻かれた保護バンテージ、そして時折ガラス越しにも伝わってくるような深い疲労の影から明らかだった。
 彼女は、広場の喧騒の中でたった一人、古びた一冊の「本」を開いていた。
 最初は目を疑った。低層階の人間が、紙の本を持っているはずがない。もし持っていたとしても、それを読めるはずがないのだ。しかし、彼女は確かに読んでいた。周囲の人間たちが、虚空を見つめながら神経パッチの快楽にだらしなく口元を緩ませたり、無意味な短い言葉を叫んだりして思考を停止させている中、彼女だけが、楽しそうにページに視線を落としていた。
 擦り切れ、背表紙が崩れかかったその本は、おそらく彼女が半年分、いやそれ以上の蓄えを投じて、闇市の古物商から手に入れたものだろう。ここからでは表紙くらいしか見えない。あとで調べてみると、その本が「人類が初めて月面を歩いた時代の記録」を記した古い物語であることがわかった。
 彼女ははるか彼方の、真空と静寂の世界に思いを馳せているのだ。
 ボロボロになった紙の端を優しくめくる彼女の指先は、とても美しく見えた。
 それから半年間、私は毎日十九時になると広場に通い、ガラスの向こうの彼女を観察し続けた。彼女のページを繰る速度、眉間に寄るわずかな皺、読み終えたあとのため息。それらすべてが私の胸を締め付けた。それが恋だと自覚するまでに時間はかからなかった。
 だが同時に、私は自分自身の醜悪さを自覚してしまった。
 私は安全圏にいる。分厚いガラスと、階級という絶対に越えられない壁のこちら側から、彼女の美しい孤独を「風景」として覗き見ているだけだ。
 私は己の無知と傲慢を深く恥じた。私がこれまで作ってきた「美しい本」は、すべて彼女のような人間を拒絶し、遠ざけるために機能していたのだ。
 私は工房での仕事の合間に、密かに新しいプロジェクトを始めた。
 低層階の労働者が、半年分の蓄えなど投じなくても手に取れる価格。それでいて、彼女が見せてくれたあの気高い読書の姿に相応しい、「読む喜び」と美しさを決して損なわない本を作ること。
 しかし、それは困難を極めた。
 紙や革を使えない以上、代替の素材を見つけるしかない。私は中層階の工業プラントや、さらに下の廃棄物処理層から様々なサンプルを取り寄せた。
 最初に目をつけたのは、都市の廃棄プラスチックから精製された極薄の再生フィルムだった。透明で安価だが、そのままでは光を反射しすぎて文字を読むには適さない。私はそこに微細なブラスト加工を施し、光沢を抑え、紙に近い摩擦係数を持たせる実験を繰り返した。インクの乗りが悪ければ、定着剤の配合をミリグラム単位で調整した。
 次に試したのは、工業用の培養菌糸体シートだ。これは主に低層階の断熱材として使われている安価な素材だが、特殊な酵素で処理し、プレス機で極限まで圧縮すると、まるで古い羊皮紙のような独特のテクスチャと柔軟性が生まれた。
「レン、お前、最近何をコソコソやってるんだ?」
 ある日の午後、同僚の熟練職人であるカシムが、私の作業台を覗き込んで鼻で笑った。
「なんだそのゴミは。そんな廃材で本を作るなんて、うちのブランドの品位が落ちるぞ。お前、頭がおかしくなったんじゃないか?」
「これは個人的な実験です」
 私は短く答えた。
「ふん。下層の連中向けか?  無駄なことだ。あいつらには文字なんて読めない。神経パッチの快楽を与えておけば、大人しく歯車として働くんだよ。豚に真珠、いや、豚に本を与えてどうする」
 カシムの言葉は、この世界の支配層の論理そのものだった。
 彼の言う通りかもしれない。私がやろうとしていることは、単なる職人の自己満足を越えて、社会システムに対する反逆行為になり得る。もしこの技術が広まれば、治安維持局から目をつけられ、私はこの上層階から追放されるかもしれない。その危険性は十分に理解していた。
 だが、あのガラス越しの横顔を思い出せば、手が止まることはなかった。
 私の頭の中にあったのは、大衆の啓蒙などではない。ただ一人の女性を肯定したいという、個人的で強烈なエゴだった。
 失敗を重ね、指を薬品で焦がしながらも、三ヶ月後、私はついに納得のいくプロトタイプを完成させた。
 表紙には菌糸体シートを深い藍色に染め上げたものを使い、鈍い銀色でタイトルを印字した。中のページは再生フィルムを積層させたもので、めくるたびに、本物の紙とは違うが、どこかしっとりとした心地よい音が鳴る。軽く、水や汚れに強く、それでいて、手の中で確かな質量を感じさせる物質。
 誰も搾取しない、誰もが手に取れる美しい本。
 私はその束を胸に抱き、静かに工房の扉を閉めた。
 半年間の安全圏からの観察を、終わらせる時が来た。
 今日の十九時。私は共有広場へ向かう前、入念に準備をした。上層階特有の仕立ての良いウールのジャケットを脱ぎ捨て、飾りのない無地の綿シャツ一枚になった。髪に撫でつけていた香油も洗い流し、身につけているあらゆる特権の記号を削ぎ落とした。彼女に余計な威圧感を与えないためだ。私は一人の、ただの人間として彼女の前に立ちたかった。
 広場はいつものように混雑していた。低層行きのエレベーターホールの前。
 私は、雑多な音にまみれながら、人混みを縫って進んだ。
 エレベーターの扉の前に、彼女はいた。今日もまた、あの古い月の記録を開き、周囲の喧騒など一切存在しないかのように、深い静寂の中で活字を追っている。
 あと三歩。あと二歩。
「間もなく、低層階行きのエレベーターが到着します」
 無機質なアナウンスが響き、待合エリアの人々がドヤドヤと動き始める。
 彼女がパタン、と本を閉じ、顔を上げた。
 その瞬間、私は彼女の視界に踏み込んだ。
「あの」
 私の声は、ひどく掠れていた。
 彼女が驚いてこちらを見た。至近距離で見る彼女の瞳は、想像していたよりもずっと深く、暗い色をしていた。その瞳の奥に、見知らぬ男への警戒と、わずかな戸惑いが浮かぶのがわかった。
 語彙の豊かさも、住む世界も違う。ここで気の利いた言葉を並べ立てても、それは上層階の驕りでしかない。私は、自分の手の中にある新しい素材の本のプロトタイプを隠すように背中に回し、すべての装飾を捨てた一言だけを投げかけた。
「本、お好きなんですか?」
 雑多な音が支配する待合エリアの中で、そこだけがぽっかりと無音になったような気がした。
 エレベーターの重い扉が、ゆっくりと開き始めた。
「はい」
 彼女の唇が動いた。小さな、けれど、力強い声だった。
「とても」
 彼女はそれだけ言い、少しだけ目を伏せて会釈をすると、開いたエレベーターの中へと歩み去っていった。
 扉が閉まる直前、彼女の手の中にしっかりと抱えられたあのボロボロの本が、私の目に焼き付いた。
 やがて扉は完全に閉ざされ、彼女は下層へ帰っていった。
 後に残されたのは、私の中に生まれた静かな確信だけだった。
 この恋が成就する未来は、この先もないだろう。私は彼女の名前すら知らないし、彼女も私を探すことはない。
 それでいい。
 私は上層階の工房へと戻った。廃棄プラスチックと菌糸体から作られた、誰の目にも美しく、そして誰の手にも届くその本を、そっと撫でた。
 明日から、私はこの技術の量産化に取り掛かる。どんな圧力がかかろうとも、絶対に止めるつもりはない。
 私がこれから作り出すこの本は、分厚い世界の断絶に、小さな、けれど確かな風穴を開けていく。
 いつか、彼女のような人々が、当たり前のように新しい本を開き、はるか遠くの星へと思索を巡らせるその日まで。
 私はもう二度と、目を逸らさない。