第五話
ー/ー大陸歴669年。九の月、第二巡、太陽の日。
帝国軍、本陣幕舎
「忌々しい雨だな、諸君」
第三皇子レオンハルト・ヴァイスホルンが幕舎に入るなり、居並ぶ将官たちに問いかける。
起立して迎えた幕僚の反応は様々であった。
無言で頭を垂れる者。
張り付いたような愛想笑いを浮かべる者。
「まことに」
おもねる者。
「だろう?」
天幕に雨粒が叩きつける不快な音が響く、地面はぬかるみ、雨漏りが滴り落ちる。
漂う黴の臭いが帝国軍首脳の心情を表しているようだった。
ヴァイスホルン皇家の血を色濃く引いた顔立ちは、百年前に帝国を建てた太祖の若き日に瓜二つ。
黄金に近い赤褐色の髪、整った顎の線、切れ長の目元――その相貌を見るたびに老世代は目を細める。
「まるであの御方が生き返ったようだ」と。
もっとも本人にとっては「似ているのは顔だけ」「エルゼヴィア様はあんなにご立派なのに」――そんな陰口ばかりが耳につく。
レオンハルトが上座に設えられた、戦場には似つかわしくない豪奢な椅子に腰を下ろし、将官達にも着座を促す。
「では、戦況をご報告申し上げます」
レオンハルト指揮下の「第一軍」の参謀だけが軍議の開始を告げる。まだ若い。二十代半ばといったところか。声だけは張っていた。
「開戦七日目現在、帝国第三軍は全線において所期の作戦を概ね順調に遂行中であります」
「砲撃によりドナエル北岸の河岸陣地を継続的に圧迫、王国軍前衛部隊の一部を後退させることに成功」
「渡河に向けた舟橋工事の準備も着々と進行いたしております。また昨日の砲撃では敵精霊術師の陣地と思われる地点に有効弾を――」
将官たちは黙って聞いていた。
良い意味ではない。
口を挟まないのではなく、挟めない。
参謀の声だけが続く。「概ね」「着々と」「有効に」。そういう言葉が並ぶ。しかし具体的な数字があまり出てこない。
兵達の士気を落とさぬ為に発表する、威勢の良いだけの戦果報告、それは軍首脳が集まってする軍議にはふさわしくないものだ。
「以上であります。殿下」
「……いささか状況は悪いな。だがそれ以上にあちらは消耗している。だろう?」
「はっ」
「ヴィルヘルムの奴が山越えてくれば奴らは大慌てだ、その混乱突いて一気に渡河すれば良い」
ヴィルヘルムの言葉に必要以上に力が入る。偽らざる隔意それが余裕の仮面から漏れ出す。
「まだ慌てるような状況ではない。兵達は辛いやもしれんが、軽挙妄動は慎むようにな」
沈黙が落ちた。
他ならぬ皇子がそう思って居ないのは既に周知の事実。
昨晩、雨が止んだと聞いて工兵隊に、第三軍の了承を得ずに船橋の建設と中洲の占領を命じたのは、皇子自身だ。
「各所この雨の中を善戦している。よく戦ってくれている。諸君らの奮闘を心より称える」
皇子は言葉を選んで、丁寧に言った。苛立ちは感じさせなかった。そうならぬよう努めた。
幕舎の中は静かなままだった。
第三軍の幕僚達の表情が凍りついてる中、副将ハンス・シュタウフェンだけが愛想笑いを浮かべている。
皆副将がそうしている以上声を上げることはできないのだ。
しかし誰も気がついていない、ハンスの眼鏡の奥の細い目が…笑っていないことに
「失礼いたします」
静けさを破ったのは、冷たく平坦な声だった。
第三軍の副将、ヒルダ・フォン・アーリウス=ヴァルデリートが、陣幕を跳ね飛ばし入ってくる。
ずぶ濡れの外套を脱ぎ捨て、沈黙が支配する天幕内を睥睨した。
緊張が幕舎内を支配する。
「遅参して詫びもないのか?ヴァルデリート副将」
「全軍の上級指揮官が全員ここに居て…何かことが起きた時即応ができませぬ」
正論に皇子が舌打ちを漏らしそうするのを必死に堪える。
ますます幕舎内の空気は重くなっていく。
「なにより昨晩捕虜になった工兵隊付きの護衛部隊の大半が王国側から返還されましたので。その受取と聞き取りが先でしたので」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「今、申しましたが?」
ちょっとちょっとヒルダちゃん、とハンスが嗜めるがヒルダは意に介さない。
お前のようなお飾りに一々報告する義務は無い、言外にその態度で語る。
アーリウス=ヴァルデリートは初代皇后の兄、太祖と義兄弟の契を交わし、一族を率い彼に最初に従った忠臣。
そして、カナルンの退き口において太祖を救うために散った殉将七十二烈士の筆頭。
ヒルダの祖父。
太祖をして「アーリウスの倅が玉座を望んだらくれてやる」そう言い切る程の信頼を勝ち得た一族。
ヴァルデリート一門筆頭アーリウス=ヴァルデリート家の現当主たるヒルダに、皇子へおもねる理由はなく、するつもりも毛頭なかった。
幕舎の中央に置かれたテーブルに広げられた戦場の地図をヒルダが見やる。
「一巡で。目標の中洲は制圧できず。砲は精霊により強化された防壁を突き崩せていない。砲弾消費は計画の三割超過」
淡々と奮戦の戦果を述べ始めるヒルダ、居並ぶ将官が青ざめ、皇子の表情がますます険しくなっていく。
「なにより、私共が許可した記憶の無い、無茶な渡河作戦によりドワーフ工兵隊が捕虜になりました」
彼女は地図から目を上げなかった。
「なにが"順調"なので?」
幕舎内がしんと静まった。
参謀の一人が小さく息を呑む。隣の将校が目を伏せる。
近衛大隊長ヘルマン・クラウゼヴィッツ将軍が僅かに眉尻を動かしたが、口を開くことはない、彼の任務はレオンハルトの護衛、全軍の軍議には口を出さない。
ハンス・シュタウフェンだけが「やったーこのお嬢ちゃん」とばかりに天を仰ぐ。
「……ヒルダ」
皇子の声のトーンが上がる。
「それは副将の立場から述べているのか。それとも私へのあてつ……軍閥の……何か別の意向か」
ヒルダは顔を上げ、真っ直ぐに皇子を見た。
「事実を述べたまでです。殿下」
「貴様っ――」
クラウゼヴィッツ将軍がひとつ咳払いをした。
「ヴァルデリート殿、いささか言葉が過ぎる。それと殿下も、時と場をわきまえねば」
小官は気にしませんが、居並ぶ将兵のやる気を削ぐのは、よろしくございませんな――
年長者の極めて真っ当な意見に、ヒルダは口を閉じる。レオンハルトが奥歯を噛む。
「ほっほっほ」
笑い声が天幕に響いた。
低く、腹の底から出てくるような、なんとも愉快そうな笑い声だった。
地図の端、卓の横に置かれた椅子に座ったまま、一人のドワーフが肩を揺らして笑っている。
齢は百六十三。ドワーフの寿命は200年程なので人ならば八十代後半の老人、しかしドワーフ特有の頑健さか、かくしゃくとしたその身は老いを感じさせない。
名をダグナル・ブロームという。帝国黎明期より帝国の工兵として仕えた、生きた歴史そのものと呼ぶべき老ドワーフだ。
その白い顎髭を揺らしながら、楽しそうに将官たちを見回している。
「ダグじい」
レオンハルトが眉を寄せる。
幼少期から実の祖父のように接してくれた彼には、皇子といえど頭が上がらない。むしろ親しさを込めてじいと呼ぶ。
「何がおかしい」
「いやなに若」
ダグナルは顎髭を撫でた。
「ハルト様と奥方様もよぅ、こうやって軍議で怒鳴り合ってなさったのでな。毎度毎度」
レオンハルトが眉をひそめた。
「……何の話だ」
「ハルト殿とイングリット様でございますよ。太祖と皇后両陛下のお話ですじゃ、若とヒルダ嬢ちゃんのお祖父様と大叔母上様」
幕舎内の空気が、ふっと弛緩した。
ダグナルは相変わらず楽しそうに続けた。
「なにせ奥方様は北方の海賊の王女様、我を通すことにかけてはそちらのヒルダ嬢に負けず劣らずな御仁でしてなぁ」
ダグナルの言うハルト殿とは太祖皇帝のことだ、盟友たる彼はそう親しげに呼ぶ。レオンハルトの愛称もまたハルトだった。
「ハルト殿と意見が合わないと、それはもう激しい夫婦喧嘩ですじゃ。わしらも最初は冷や冷やしておったが」
ダグナルが懐かしそうに目を細め、笑う
「そのうちに、ああまた始まった。となって解散したものですじゃよ」
一同、何を聞かされているのだろう我々は?と内心で首をかしげる。
「若とヒルダ嬢ちゃんを見ているとそれを思い出して、ついつい笑ってしまったのですじゃよ」
ヒルダの表情がひきつる。
「だ」
「ん?」
「だ、誰と誰が夫婦ですか!」
声が一段高くなっていた。
「からかわないでください、ダグナル翁!」
「おや?」
ダグナルは白い眉を片方だけ上げた。まったく悪びれていない。
「いや、なに、わしは覚えておりますぞ。殿下が幼きころ――六つか七つだったかのう――ヒルダ嬢ちゃんに向かってな、"俺の嫁になれ"と大真面目に言っておったのを、ヒルダ嬢ちゃんも満更――」
「「わあああっ!!」」
声が重なった。
ヒルダが顔を赤くして立ち上がり、レオンハルトが立ち上がって何かを叫び、お互いに罵りあう。
ハンスが「おやおや」と眼鏡を直し、クラウゼヴィッツ将軍とダグナルが目を合わせ笑みを交わす。
幕舎の外で警備に立っていた近衛兵が、何が起きたのかと飛び込んでくる。
どたばた喜劇が数呼吸ほど続いた後、先に落ち着きを取り戻したのはヒルダだった。
「っ……失礼しました」
ヒルダが着席する、顔色は微妙だったが、姿勢は完璧だった。
レオンハルトも渋々座った。
ハンスが咳払いをした。
「さて場が和んだ所ですが、嫌なお話……数字のご報告いたします。現在の戦況ですが」
砲弾消費は計画の三割六分超過。湿気により使用不能になる火薬も多数。
エルフの狙撃による士官クラスの死傷率。
雇用しているダークエルフの間諜があちら側のダークエルフとの交戦により半数が行方不明。
以上などの要因により部隊の肉体的精神的疲弊指数、士気の低下は許容値の上限スレスレであること。
何より昨夜の交戦で工兵隊が捕虜になった為、中洲の制圧は事実上不可能に近い状態であること。
淡々とハンスが語る。
誰も口を開かなかった。
惨憺たる有り様である。
「ただし精霊術による天候操作については、王国軍側にも消耗の兆候が見られます。本日の降雨量は当初と比べ約二割減少。術者の限界でしょう」
「つまり」
レオンハルトが低く言った。怒りではなく、今度は本物の問いだった。
「あちらが消耗しているのは間違いないわけだな」
「はっ。ですが、ヴィルヘルム将軍と密に連携するには、やはり向こう岸に陣地を確保しなければなりません」
王国側の情報伝達速度は驚異的だ、本隊であるこちらが王国軍を引き付けていなければ、ヴィルヘルムは敵地で孤立する。
「奴らならなんとかする気もするがな」
「殿下、戦ですので、気がする。では困ります」
静寂。
雨が天幕を打つ音だけが続いた。
ダグナルがゆっくりと立ち上がった。
笑みが消えていた。白い眉の下の目が、深く、静かに地図を見つめる。
百六十年以上をこの大陸で生き、太祖の建国を手伝い、帝国が育つのを見届けてきた目で。
老いたドワーフの指が、地図をなぞる。
ドナエル河の上流。中央山脈から流れ下る複数の支流を。
「……水量を、落とせばよいのじゃろ?」
居並ぶ将兵が、ヒルダやハンスでさえ、頭を金槌で横殴りされたような衝撃を受ける。
なぜ、誰もこんな簡単な事に気が付かなかったのか?
帝国ならばそれが可能だ。
戦の潮目が変わる、そう確信した瞬間だった。
帝国軍、本陣幕舎
「忌々しい雨だな、諸君」
第三皇子レオンハルト・ヴァイスホルンが幕舎に入るなり、居並ぶ将官たちに問いかける。
起立して迎えた幕僚の反応は様々であった。
無言で頭を垂れる者。
張り付いたような愛想笑いを浮かべる者。
「まことに」
おもねる者。
「だろう?」
天幕に雨粒が叩きつける不快な音が響く、地面はぬかるみ、雨漏りが滴り落ちる。
漂う黴の臭いが帝国軍首脳の心情を表しているようだった。
ヴァイスホルン皇家の血を色濃く引いた顔立ちは、百年前に帝国を建てた太祖の若き日に瓜二つ。
黄金に近い赤褐色の髪、整った顎の線、切れ長の目元――その相貌を見るたびに老世代は目を細める。
「まるであの御方が生き返ったようだ」と。
もっとも本人にとっては「似ているのは顔だけ」「エルゼヴィア様はあんなにご立派なのに」――そんな陰口ばかりが耳につく。
レオンハルトが上座に設えられた、戦場には似つかわしくない豪奢な椅子に腰を下ろし、将官達にも着座を促す。
「では、戦況をご報告申し上げます」
レオンハルト指揮下の「第一軍」の参謀だけが軍議の開始を告げる。まだ若い。二十代半ばといったところか。声だけは張っていた。
「開戦七日目現在、帝国第三軍は全線において所期の作戦を概ね順調に遂行中であります」
「砲撃によりドナエル北岸の河岸陣地を継続的に圧迫、王国軍前衛部隊の一部を後退させることに成功」
「渡河に向けた舟橋工事の準備も着々と進行いたしております。また昨日の砲撃では敵精霊術師の陣地と思われる地点に有効弾を――」
将官たちは黙って聞いていた。
良い意味ではない。
口を挟まないのではなく、挟めない。
参謀の声だけが続く。「概ね」「着々と」「有効に」。そういう言葉が並ぶ。しかし具体的な数字があまり出てこない。
兵達の士気を落とさぬ為に発表する、威勢の良いだけの戦果報告、それは軍首脳が集まってする軍議にはふさわしくないものだ。
「以上であります。殿下」
「……いささか状況は悪いな。だがそれ以上にあちらは消耗している。だろう?」
「はっ」
「ヴィルヘルムの奴が山越えてくれば奴らは大慌てだ、その混乱突いて一気に渡河すれば良い」
ヴィルヘルムの言葉に必要以上に力が入る。偽らざる隔意それが余裕の仮面から漏れ出す。
「まだ慌てるような状況ではない。兵達は辛いやもしれんが、軽挙妄動は慎むようにな」
沈黙が落ちた。
他ならぬ皇子がそう思って居ないのは既に周知の事実。
昨晩、雨が止んだと聞いて工兵隊に、第三軍の了承を得ずに船橋の建設と中洲の占領を命じたのは、皇子自身だ。
「各所この雨の中を善戦している。よく戦ってくれている。諸君らの奮闘を心より称える」
皇子は言葉を選んで、丁寧に言った。苛立ちは感じさせなかった。そうならぬよう努めた。
幕舎の中は静かなままだった。
第三軍の幕僚達の表情が凍りついてる中、副将ハンス・シュタウフェンだけが愛想笑いを浮かべている。
皆副将がそうしている以上声を上げることはできないのだ。
しかし誰も気がついていない、ハンスの眼鏡の奥の細い目が…笑っていないことに
「失礼いたします」
静けさを破ったのは、冷たく平坦な声だった。
第三軍の副将、ヒルダ・フォン・アーリウス=ヴァルデリートが、陣幕を跳ね飛ばし入ってくる。
ずぶ濡れの外套を脱ぎ捨て、沈黙が支配する天幕内を睥睨した。
緊張が幕舎内を支配する。
「遅参して詫びもないのか?ヴァルデリート副将」
「全軍の上級指揮官が全員ここに居て…何かことが起きた時即応ができませぬ」
正論に皇子が舌打ちを漏らしそうするのを必死に堪える。
ますます幕舎内の空気は重くなっていく。
「なにより昨晩捕虜になった工兵隊付きの護衛部隊の大半が王国側から返還されましたので。その受取と聞き取りが先でしたので」
「そんな話は聞いていないぞ!」
「今、申しましたが?」
ちょっとちょっとヒルダちゃん、とハンスが嗜めるがヒルダは意に介さない。
お前のようなお飾りに一々報告する義務は無い、言外にその態度で語る。
アーリウス=ヴァルデリートは初代皇后の兄、太祖と義兄弟の契を交わし、一族を率い彼に最初に従った忠臣。
そして、カナルンの退き口において太祖を救うために散った殉将七十二烈士の筆頭。
ヒルダの祖父。
太祖をして「アーリウスの倅が玉座を望んだらくれてやる」そう言い切る程の信頼を勝ち得た一族。
ヴァルデリート一門筆頭アーリウス=ヴァルデリート家の現当主たるヒルダに、皇子へおもねる理由はなく、するつもりも毛頭なかった。
幕舎の中央に置かれたテーブルに広げられた戦場の地図をヒルダが見やる。
「一巡で。目標の中洲は制圧できず。砲は精霊により強化された防壁を突き崩せていない。砲弾消費は計画の三割超過」
淡々と奮戦の戦果を述べ始めるヒルダ、居並ぶ将官が青ざめ、皇子の表情がますます険しくなっていく。
「なにより、私共が許可した記憶の無い、無茶な渡河作戦によりドワーフ工兵隊が捕虜になりました」
彼女は地図から目を上げなかった。
「なにが"順調"なので?」
幕舎内がしんと静まった。
参謀の一人が小さく息を呑む。隣の将校が目を伏せる。
近衛大隊長ヘルマン・クラウゼヴィッツ将軍が僅かに眉尻を動かしたが、口を開くことはない、彼の任務はレオンハルトの護衛、全軍の軍議には口を出さない。
ハンス・シュタウフェンだけが「やったーこのお嬢ちゃん」とばかりに天を仰ぐ。
「……ヒルダ」
皇子の声のトーンが上がる。
「それは副将の立場から述べているのか。それとも私へのあてつ……軍閥の……何か別の意向か」
ヒルダは顔を上げ、真っ直ぐに皇子を見た。
「事実を述べたまでです。殿下」
「貴様っ――」
クラウゼヴィッツ将軍がひとつ咳払いをした。
「ヴァルデリート殿、いささか言葉が過ぎる。それと殿下も、時と場をわきまえねば」
小官は気にしませんが、居並ぶ将兵のやる気を削ぐのは、よろしくございませんな――
年長者の極めて真っ当な意見に、ヒルダは口を閉じる。レオンハルトが奥歯を噛む。
「ほっほっほ」
笑い声が天幕に響いた。
低く、腹の底から出てくるような、なんとも愉快そうな笑い声だった。
地図の端、卓の横に置かれた椅子に座ったまま、一人のドワーフが肩を揺らして笑っている。
齢は百六十三。ドワーフの寿命は200年程なので人ならば八十代後半の老人、しかしドワーフ特有の頑健さか、かくしゃくとしたその身は老いを感じさせない。
名をダグナル・ブロームという。帝国黎明期より帝国の工兵として仕えた、生きた歴史そのものと呼ぶべき老ドワーフだ。
その白い顎髭を揺らしながら、楽しそうに将官たちを見回している。
「ダグじい」
レオンハルトが眉を寄せる。
幼少期から実の祖父のように接してくれた彼には、皇子といえど頭が上がらない。むしろ親しさを込めてじいと呼ぶ。
「何がおかしい」
「いやなに若」
ダグナルは顎髭を撫でた。
「ハルト様と奥方様もよぅ、こうやって軍議で怒鳴り合ってなさったのでな。毎度毎度」
レオンハルトが眉をひそめた。
「……何の話だ」
「ハルト殿とイングリット様でございますよ。太祖と皇后両陛下のお話ですじゃ、若とヒルダ嬢ちゃんのお祖父様と大叔母上様」
幕舎内の空気が、ふっと弛緩した。
ダグナルは相変わらず楽しそうに続けた。
「なにせ奥方様は北方の海賊の王女様、我を通すことにかけてはそちらのヒルダ嬢に負けず劣らずな御仁でしてなぁ」
ダグナルの言うハルト殿とは太祖皇帝のことだ、盟友たる彼はそう親しげに呼ぶ。レオンハルトの愛称もまたハルトだった。
「ハルト殿と意見が合わないと、それはもう激しい夫婦喧嘩ですじゃ。わしらも最初は冷や冷やしておったが」
ダグナルが懐かしそうに目を細め、笑う
「そのうちに、ああまた始まった。となって解散したものですじゃよ」
一同、何を聞かされているのだろう我々は?と内心で首をかしげる。
「若とヒルダ嬢ちゃんを見ているとそれを思い出して、ついつい笑ってしまったのですじゃよ」
ヒルダの表情がひきつる。
「だ」
「ん?」
「だ、誰と誰が夫婦ですか!」
声が一段高くなっていた。
「からかわないでください、ダグナル翁!」
「おや?」
ダグナルは白い眉を片方だけ上げた。まったく悪びれていない。
「いや、なに、わしは覚えておりますぞ。殿下が幼きころ――六つか七つだったかのう――ヒルダ嬢ちゃんに向かってな、"俺の嫁になれ"と大真面目に言っておったのを、ヒルダ嬢ちゃんも満更――」
「「わあああっ!!」」
声が重なった。
ヒルダが顔を赤くして立ち上がり、レオンハルトが立ち上がって何かを叫び、お互いに罵りあう。
ハンスが「おやおや」と眼鏡を直し、クラウゼヴィッツ将軍とダグナルが目を合わせ笑みを交わす。
幕舎の外で警備に立っていた近衛兵が、何が起きたのかと飛び込んでくる。
どたばた喜劇が数呼吸ほど続いた後、先に落ち着きを取り戻したのはヒルダだった。
「っ……失礼しました」
ヒルダが着席する、顔色は微妙だったが、姿勢は完璧だった。
レオンハルトも渋々座った。
ハンスが咳払いをした。
「さて場が和んだ所ですが、嫌なお話……数字のご報告いたします。現在の戦況ですが」
砲弾消費は計画の三割六分超過。湿気により使用不能になる火薬も多数。
エルフの狙撃による士官クラスの死傷率。
雇用しているダークエルフの間諜があちら側のダークエルフとの交戦により半数が行方不明。
以上などの要因により部隊の肉体的精神的疲弊指数、士気の低下は許容値の上限スレスレであること。
何より昨夜の交戦で工兵隊が捕虜になった為、中洲の制圧は事実上不可能に近い状態であること。
淡々とハンスが語る。
誰も口を開かなかった。
惨憺たる有り様である。
「ただし精霊術による天候操作については、王国軍側にも消耗の兆候が見られます。本日の降雨量は当初と比べ約二割減少。術者の限界でしょう」
「つまり」
レオンハルトが低く言った。怒りではなく、今度は本物の問いだった。
「あちらが消耗しているのは間違いないわけだな」
「はっ。ですが、ヴィルヘルム将軍と密に連携するには、やはり向こう岸に陣地を確保しなければなりません」
王国側の情報伝達速度は驚異的だ、本隊であるこちらが王国軍を引き付けていなければ、ヴィルヘルムは敵地で孤立する。
「奴らならなんとかする気もするがな」
「殿下、戦ですので、気がする。では困ります」
静寂。
雨が天幕を打つ音だけが続いた。
ダグナルがゆっくりと立ち上がった。
笑みが消えていた。白い眉の下の目が、深く、静かに地図を見つめる。
百六十年以上をこの大陸で生き、太祖の建国を手伝い、帝国が育つのを見届けてきた目で。
老いたドワーフの指が、地図をなぞる。
ドナエル河の上流。中央山脈から流れ下る複数の支流を。
「……水量を、落とせばよいのじゃろ?」
居並ぶ将兵が、ヒルダやハンスでさえ、頭を金槌で横殴りされたような衝撃を受ける。
なぜ、誰もこんな簡単な事に気が付かなかったのか?
帝国ならばそれが可能だ。
戦の潮目が変わる、そう確信した瞬間だった。
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