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無菌の青

ー/ー



 プラスチックのバケツの中で、筆の先についた絵の具を溶かした。濁った水の中で、焦げ茶色がゆっくりと散っていく。
 顔を上げると、目の前にはどこまでも青い水面が広がっていた。水平線の底の白い砂の波模様が、まるでガラス越しに見ているみたいにくっきりと見えた。
 波の音はほとんどしない。水そのものに奇妙なとろみがあるような感じで、波打ち際で水が崩れるときも、かすかな音がするだけだった。
 イーゼルのネジを締め直して、新しい筆を手に取った。パレットの上には、海の色とは似ても似つかない、濁った赤や暗い緑の絵の具を出してあった。
 政府が散布したナノマシンと特殊な酵素が、この海水を二十四時間ずっと監視して、浄化し続けている。
 海風が吹いても、潮の匂いはしない。
 ふと、波打ち際の少し手前に、銀色に光るものが打ち上げられているのに気づいた。十センチくらいの小魚だった。
 干からびる前に海に戻ろうとして、尾びれで砂を叩いていた。ぱた、ぱた、という音が、静かな浜辺に響いた。
 僕は筆を持ったまま、その動きを見ていた。助けようとは思わなかった。どうせ間に合わないとわかっていたからだ。
 魚の動きが急に止まった。エラが何度か微かに動いて、それきり動かなくなった。
 死んだ、と思った次の瞬間だった。
 魚の輪郭が、ふっとぼやけた。銀色の鱗が細かく泡立ち、シュワシュワという微かな音を立てて、白い煙みたいに分解され始めた。ナノマシンが、生体反応の停止を検知したのだ。
 五秒もかからず、魚の死骸は跡形もなく消え、あとには少しだけ湿った砂のくぼみが残っただけだった。骨の欠片ひとつ、そこには残っていない。
 この海のシステムは、不純物を許さない。生きていない有機物は、即座に水と二酸化炭素に分解される。だからこの浜辺には、流れ着いた流木も、貝殻の欠片も、海藻の干からびたものも、何ひとつ落ちていない。
 完璧に無菌化された、真っ白な砂浜が続いているだけだ。
 僕はパレットナイフで、暗い緑色の絵の具をすくい、キャンバスに塗りつけた。
「何を描いてるんですか」
 背後から声がして、少し肩が跳ねた。振り向くと、数メートル後ろに人が立っていた。
 僕と同じか、少し下くらいの年齢の女性だった。色落ちしたジーンズに、薄手のリネンシャツを着ている。足元は白いキャンバス地のスニーカーだった。
 彼女の右手には、コンビニのレジ袋がぶら下がっていた。
「海を、描いてるんですか?」
 彼女は、イーゼルに立てかけられたキャンバスと、目の前の青い海を交互に見比べた。
 キャンバスに塗られているのは、濁った泥のような色ばかりだ。
「海の色には見えないですね」
 彼女は数歩近づいてきて、僕の斜め後ろに立った。シャツの袖口から出ている手首が、妙に細く見えた。
「綺麗な海ですね」と、彼女は言った。
 その声には、感嘆の響きがなかった。目の前にある壁の白さを確認するような、事務的な口調だった。
「綺麗すぎるから、汚い色を置きたくなるのかもしれないです」
 僕がそう言うと、彼女は「ふうん」と小さく息を吐いた。
 彼女はレジ袋からペットボトルを取り出し、キャップを開けた。一口飲んでから、足元の砂浜に視線を落とした。
「海って、昔は磯の匂いがしたって聞いたんですけど」
「もうしないですね。全部、分解されてしまうから」
 彼女は手に持っていたペットボトルを傾け、中の水を少しだけ砂にこぼした。
 水は砂に染み込んだ。普通の水だ。ナノマシンの酵素液ではないから、発泡することも消えることもない。ただ砂を濡らして、色を濃くしただけだった。
「さっき、あそこで魚が消えたんです」
 僕は言った。
「打ち上げられて、死んだ瞬間に、泡になって溶けました」
「溶けるんですか」
「生体反応がなくなると、システムがそれを不純物だと認識して、水とガスに還元するんです。だからこの海には、死骸もゴミもありません」
 彼女はじっと海面を見つめていた。ゼリーのようにとろみのある青い水面は、太陽の光を反射して、プラスチックの板のように均質に光っていた。
「生きている間は、溶けないんですね」
「生体電位や心拍があるうちは、分解の対象から外れるみたいです」
「じゃあ」
 彼女はペットボトルのキャップをゆっくりと閉めた。プラスチックのネジが擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
「生きてるってことは、この海にとってはエラーみたいなものなんですね」
「そうかもしれないですね」
 僕は筆先についた余分な絵の具を、布切れで拭いながら答えた。
 彼女は少しだけ口角を上げたように見えた。笑ったのかどうかは、よくわからなかった。
「私、ずっと自分のこと、何かのノイズみたいだなって思ってたんです」
 彼女はそう言って、また海を見た。
「ここにいれば、そのうち綺麗にしてもらえるのかな」
 彼女の言葉の意味について、深く考えないようにした。僕が答えるべきことではないような気がしたからだ。
 彼女はレジ袋を砂の上に置いた。ペットボトルもその横に、倒れないように慎重に置いた。
 それから、かがみ込んでスニーカーの紐を解き始めた。
 右足、左足の順にスニーカーを脱ぎ、つま先を海に向けて綺麗に揃えた。短い靴下も脱いで、スニーカーの中に突っ込んだ。
 素足になった彼女は、立ち上がってシャツの裾を少し引っ張った。
「少し、泳いできます」
 彼女は言った。水着を着ているわけでもないし、泳ぐ準備など何ひとつしていないのに。
「海の水、冷たいかもしれないですよ」
 僕がそう言うと、彼女はこちらを見ずに「大丈夫だと思います」と答えた。
 止める理由はなかった。彼女の手つきや声の温度には、絶望してパニックになっているようなところは少しもなかった。ただ、自分の持ち物を整理して、予定されていた作業をこなすような、静かな確信があった。
 彼女が波打ち際へ向かって歩き出した。
 素足が砂を踏む、ザク、ザクという音が遠ざかっていく。
 僕はキャンバスに向き直り、パレットナイフについた絵の具を拭き取り始めた。布切れが緑色に染まっていく。
 彼女の足音が止まった。
 波打ち際に立っているのだろう。
 パレットの上の絵の具を、少しずつ混ぜ合わせる。赤と緑を混ぜて、さらに濁った黒に近い色を作る。ナイフの金属が、木製のパレットに擦れる、カチッという小さな音が鳴った。
 ――ざぶん。
 重たい水音が聞こえた。
 表面張力の強い、とろみのある海面を、質量のある何かが無理やり引き裂いたような、暴力的な音だった。
 僕はナイフを動かす手を止めた。
 水音がしたきり、何も聞こえなくなった。バシャバシャと水を掻く音も、息継ぎをする音もしない。
 ただ、静寂だけがあった。
 数分が経ったと思う。
 やがて、微かな音が鳴り始めた。
 シュワ、シュワシュワシュワ……。
 炭酸飲料のキャップを開けたときに似た、細かくて連続した発泡音だった。さっき、小さな魚が溶けたときとは比べ物にならないくらい、広範囲から聞こえてくる。
 彼女の心拍が止まったのだ。
 システムが、彼女という巨大な有機物を検知し、水とガスに還元するための処理を始めた音だった。
 海からの風が、少しだけ生温かくなった気がした。急激な分解反応による熱が、風に混じっているのかもしれない。
 完璧に無菌だった青い海面が、彼女の血液や体液でほんの一瞬だけ濁り、それに無数のナノマシンが群がって猛烈な勢いで透明に戻していく。
 発泡音は、五分ほど続いた。
 やがて、それも少しずつ小さくなり、最後には完全に聞こえなくなった。
 風の生温かさも消え、元の無臭の空気に戻った。
 海は再び、何事もなかったかのように完璧な青を取り戻している。
 僕はパレットナイフで、作ったばかりの黒に近い絵の具をすくい、キャンバスの中央に厚く塗りつけた。
 油絵の具の匂いが、鼻を突いた。
 筆を洗い、パレットを拭き、イーゼルのネジを緩めて畳んだ。道具をすべて専用の鞄にしまい込む。
 海は、僕がここに来たときと同じように、恐ろしいほど透明で、静かだった。波ひとつない青い水面が、どこまでも広がっていた。
 砂浜には、僕の足跡と、イーゼルを立てていた跡。
 そして少し離れたところに、行儀よく揃えられた白いスニーカーと、半分水が残ったペットボトルが入ったレジ袋だけが残されていた。
 僕は鞄を肩に掛け、来た道を戻り始めた。
 砂を踏む自分の足音だけが、やけに大きく聞こえていた。


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 プラスチックのバケツの中で、筆の先についた絵の具を溶かした。濁った水の中で、焦げ茶色がゆっくりと散っていく。
 顔を上げると、目の前にはどこまでも青い水面が広がっていた。水平線の底の白い砂の波模様が、まるでガラス越しに見ているみたいにくっきりと見えた。
 波の音はほとんどしない。水そのものに奇妙なとろみがあるような感じで、波打ち際で水が崩れるときも、かすかな音がするだけだった。
 イーゼルのネジを締め直して、新しい筆を手に取った。パレットの上には、海の色とは似ても似つかない、濁った赤や暗い緑の絵の具を出してあった。
 政府が散布したナノマシンと特殊な酵素が、この海水を二十四時間ずっと監視して、浄化し続けている。
 海風が吹いても、潮の匂いはしない。
 ふと、波打ち際の少し手前に、銀色に光るものが打ち上げられているのに気づいた。十センチくらいの小魚だった。
 干からびる前に海に戻ろうとして、尾びれで砂を叩いていた。ぱた、ぱた、という音が、静かな浜辺に響いた。
 僕は筆を持ったまま、その動きを見ていた。助けようとは思わなかった。どうせ間に合わないとわかっていたからだ。
 魚の動きが急に止まった。エラが何度か微かに動いて、それきり動かなくなった。
 死んだ、と思った次の瞬間だった。
 魚の輪郭が、ふっとぼやけた。銀色の鱗が細かく泡立ち、シュワシュワという微かな音を立てて、白い煙みたいに分解され始めた。ナノマシンが、生体反応の停止を検知したのだ。
 五秒もかからず、魚の死骸は跡形もなく消え、あとには少しだけ湿った砂のくぼみが残っただけだった。骨の欠片ひとつ、そこには残っていない。
 この海のシステムは、不純物を許さない。生きていない有機物は、即座に水と二酸化炭素に分解される。だからこの浜辺には、流れ着いた流木も、貝殻の欠片も、海藻の干からびたものも、何ひとつ落ちていない。
 完璧に無菌化された、真っ白な砂浜が続いているだけだ。
 僕はパレットナイフで、暗い緑色の絵の具をすくい、キャンバスに塗りつけた。
「何を描いてるんですか」
 背後から声がして、少し肩が跳ねた。振り向くと、数メートル後ろに人が立っていた。
 僕と同じか、少し下くらいの年齢の女性だった。色落ちしたジーンズに、薄手のリネンシャツを着ている。足元は白いキャンバス地のスニーカーだった。
 彼女の右手には、コンビニのレジ袋がぶら下がっていた。
「海を、描いてるんですか?」
 彼女は、イーゼルに立てかけられたキャンバスと、目の前の青い海を交互に見比べた。
 キャンバスに塗られているのは、濁った泥のような色ばかりだ。
「海の色には見えないですね」
 彼女は数歩近づいてきて、僕の斜め後ろに立った。シャツの袖口から出ている手首が、妙に細く見えた。
「綺麗な海ですね」と、彼女は言った。
 その声には、感嘆の響きがなかった。目の前にある壁の白さを確認するような、事務的な口調だった。
「綺麗すぎるから、汚い色を置きたくなるのかもしれないです」
 僕がそう言うと、彼女は「ふうん」と小さく息を吐いた。
 彼女はレジ袋からペットボトルを取り出し、キャップを開けた。一口飲んでから、足元の砂浜に視線を落とした。
「海って、昔は磯の匂いがしたって聞いたんですけど」
「もうしないですね。全部、分解されてしまうから」
 彼女は手に持っていたペットボトルを傾け、中の水を少しだけ砂にこぼした。
 水は砂に染み込んだ。普通の水だ。ナノマシンの酵素液ではないから、発泡することも消えることもない。ただ砂を濡らして、色を濃くしただけだった。
「さっき、あそこで魚が消えたんです」
 僕は言った。
「打ち上げられて、死んだ瞬間に、泡になって溶けました」
「溶けるんですか」
「生体反応がなくなると、システムがそれを不純物だと認識して、水とガスに還元するんです。だからこの海には、死骸もゴミもありません」
 彼女はじっと海面を見つめていた。ゼリーのようにとろみのある青い水面は、太陽の光を反射して、プラスチックの板のように均質に光っていた。
「生きている間は、溶けないんですね」
「生体電位や心拍があるうちは、分解の対象から外れるみたいです」
「じゃあ」
 彼女はペットボトルのキャップをゆっくりと閉めた。プラスチックのネジが擦れる音が、妙に大きく聞こえた。
「生きてるってことは、この海にとってはエラーみたいなものなんですね」
「そうかもしれないですね」
 僕は筆先についた余分な絵の具を、布切れで拭いながら答えた。
 彼女は少しだけ口角を上げたように見えた。笑ったのかどうかは、よくわからなかった。
「私、ずっと自分のこと、何かのノイズみたいだなって思ってたんです」
 彼女はそう言って、また海を見た。
「ここにいれば、そのうち綺麗にしてもらえるのかな」
 彼女の言葉の意味について、深く考えないようにした。僕が答えるべきことではないような気がしたからだ。
 彼女はレジ袋を砂の上に置いた。ペットボトルもその横に、倒れないように慎重に置いた。
 それから、かがみ込んでスニーカーの紐を解き始めた。
 右足、左足の順にスニーカーを脱ぎ、つま先を海に向けて綺麗に揃えた。短い靴下も脱いで、スニーカーの中に突っ込んだ。
 素足になった彼女は、立ち上がってシャツの裾を少し引っ張った。
「少し、泳いできます」
 彼女は言った。水着を着ているわけでもないし、泳ぐ準備など何ひとつしていないのに。
「海の水、冷たいかもしれないですよ」
 僕がそう言うと、彼女はこちらを見ずに「大丈夫だと思います」と答えた。
 止める理由はなかった。彼女の手つきや声の温度には、絶望してパニックになっているようなところは少しもなかった。ただ、自分の持ち物を整理して、予定されていた作業をこなすような、静かな確信があった。
 彼女が波打ち際へ向かって歩き出した。
 素足が砂を踏む、ザク、ザクという音が遠ざかっていく。
 僕はキャンバスに向き直り、パレットナイフについた絵の具を拭き取り始めた。布切れが緑色に染まっていく。
 彼女の足音が止まった。
 波打ち際に立っているのだろう。
 パレットの上の絵の具を、少しずつ混ぜ合わせる。赤と緑を混ぜて、さらに濁った黒に近い色を作る。ナイフの金属が、木製のパレットに擦れる、カチッという小さな音が鳴った。
 ――ざぶん。
 重たい水音が聞こえた。
 表面張力の強い、とろみのある海面を、質量のある何かが無理やり引き裂いたような、暴力的な音だった。
 僕はナイフを動かす手を止めた。
 水音がしたきり、何も聞こえなくなった。バシャバシャと水を掻く音も、息継ぎをする音もしない。
 ただ、静寂だけがあった。
 数分が経ったと思う。
 やがて、微かな音が鳴り始めた。
 シュワ、シュワシュワシュワ……。
 炭酸飲料のキャップを開けたときに似た、細かくて連続した発泡音だった。さっき、小さな魚が溶けたときとは比べ物にならないくらい、広範囲から聞こえてくる。
 彼女の心拍が止まったのだ。
 システムが、彼女という巨大な有機物を検知し、水とガスに還元するための処理を始めた音だった。
 海からの風が、少しだけ生温かくなった気がした。急激な分解反応による熱が、風に混じっているのかもしれない。
 完璧に無菌だった青い海面が、彼女の血液や体液でほんの一瞬だけ濁り、それに無数のナノマシンが群がって猛烈な勢いで透明に戻していく。
 発泡音は、五分ほど続いた。
 やがて、それも少しずつ小さくなり、最後には完全に聞こえなくなった。
 風の生温かさも消え、元の無臭の空気に戻った。
 海は再び、何事もなかったかのように完璧な青を取り戻している。
 僕はパレットナイフで、作ったばかりの黒に近い絵の具をすくい、キャンバスの中央に厚く塗りつけた。
 油絵の具の匂いが、鼻を突いた。
 筆を洗い、パレットを拭き、イーゼルのネジを緩めて畳んだ。道具をすべて専用の鞄にしまい込む。
 海は、僕がここに来たときと同じように、恐ろしいほど透明で、静かだった。波ひとつない青い水面が、どこまでも広がっていた。
 砂浜には、僕の足跡と、イーゼルを立てていた跡。
 そして少し離れたところに、行儀よく揃えられた白いスニーカーと、半分水が残ったペットボトルが入ったレジ袋だけが残されていた。
 僕は鞄を肩に掛け、来た道を戻り始めた。
 砂を踏む自分の足音だけが、やけに大きく聞こえていた。