第22話 ひとりで来た夜
ー/ーその夜、美奈子は一人でななしへ向かった。
恵比寿の街は、いつも通りの夜だった。
仕事帰りの人。
店の灯り。
遠くから聞こえる笑い声。
何も変わらない。
でも、美奈子の胸の奥だけが、少し違っていた。
橘の言葉。
「幸せになれる?」
その声が、まだ残っている。
駅から店までの道を歩く。
この道は何度も通っている。
でも今日は、少し長く感じた。
ななしの引き戸の前で立ち止まる。
ほんの一瞬だけ、深呼吸をした。
それから扉を開ける。
「いらっしゃい」
マスターの声。
いつもの静かな店。
低い照明。
木のカウンター。
グラスの音。
そして――
園田がいた。
カウンターの中央寄りの席。
いつもは奥に座る園田が、今日はそこにいた。
グラスを持っている。
美奈子に気づくと、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「こんばんは」
その声を聞いた瞬間、美奈子の胸の奥が少しだけ温かくなる。
「こんばんは」
美奈子は席に座る。
今日は隣だった。
自然な距離。
でも、少しだけ近い。
マスターが聞く。
「いつもの?」
美奈子は頷く。
氷がグラスに落ちる。
カラン。
その音が、静かな店に溶ける。
園田が言う。
「今日は偶然ですね」
美奈子は少し笑った。
「そうですね」
でも、それは本当ではない。
今日は偶然じゃない。
美奈子はこの店に来ると決めていた。
そして園田が来ている気がしていた。
恋というものは、不思議だ。
理由はないのに、
なぜか同じ場所へ向かう夜がある。
グラスが置かれる。
美奈子は一口飲む。
冷たい酒が喉を通る。
それでも胸の奥は温かい。
しばらく二人は黙っていた。
でも、その沈黙は重くない。
ななしでは、言葉より空気の方が大事なことがある。
園田が言う。
「今日は少し元気ないですね」
美奈子はグラスを見つめた。
園田の声は優しい。
無理に聞こうとしない。
でも、ちゃんと気づいている。
「そうですか?」
美奈子は小さく笑う。
園田は頷く。
「少しだけ」
美奈子はグラスの氷を回す。
カラン。
小さな音。
その音を聞きながら言った。
「園田さん」
「はい」
「もし」
美奈子は少し迷う。
それでも言葉を続けた。
「誰かを好きになったとして」
園田は黙って聞いている。
「でも、そのことで誰かを傷つけるかもしれないとしたら」
言葉が少しだけ震える。
「どうします?」
園田はすぐには答えなかった。
グラスを見つめる。
氷がゆっくり溶けている。
それから言った。
「難しいですね」
美奈子は小さく笑う。
「そうですよね」
園田は続ける。
「でも」
その声は静かだった。
「好きになること自体は、悪いことじゃないと思います」
美奈子は顔を上げる。
園田はグラスを見ながら言う。
「人の気持ちは、止められないから」
その言葉が、胸に落ちる。
美奈子はふと橘の顔を思い出した。
優しい声。
静かな目。
「幸せになれる?」
園田が言う。
「ただ」
美奈子が顔を上げる。
園田は少しだけ笑った。
「誰かを泣かせる恋は、少し悲しいですね」
その言葉を聞いた瞬間、美奈子の胸が強く締めつけられる。
園田は何も知らない。
橘との会話も。
あの質問も。
それでも、なぜか核心に触れている。
ななしの夜は静かだった。
グラスの音。
低い音楽。
そして二人の沈黙。
恋というものは、
好きという言葉だけでは進まない。
誰かを思うこと。
誰かを守ること。
その全部が重なったとき、
初めて、
本当の答え
が見えてくる。
その夜、美奈子はまだ何も言わなかった。
でも、胸の奥では
少しずつ、
何かが決まり始めていた。
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