第23話 眠れない夜
ー/ー数日後の夜、橘は一人でななしにいた。
カウンターの端の席。
いつも美奈子が座る場所から、少し離れた位置。
グラスの中の氷が、ゆっくり溶けている。
店の中は静かだった。
低いジャズ。
グラスの音。
マスターがボトルを棚に戻す小さな音。
橘はグラスを回しながら、その音を聞いていた。
「今日は一人ですね」
マスターが言う。
橘は少し笑う。
「そうですね」
「美奈子さんは?」
橘はグラスを見つめたまま答える。
「今日は来ないと思います」
マスターはそれ以上聞かなかった。
ななしでは、余計な質問はしない。
それがこの店のいいところだ。
橘は酒を一口飲む。
喉を通る冷たい感覚。
でも胸の奥は少し重かった。
ふと、カウンターの中央を見る。
美奈子がよく座る席。
そして、その隣。
園田。
あの二人が並んで座っている姿を、橘は何度か見たことがある。
特別なことはしていない。
ただ話しているだけ。
でも――
橘にはわかっていた。
長く人を見てきた。
仕事でも、店でも。
人の距離は、言葉より空気に出る。
あの二人の空気は、
少しだけ特別だった。
橘は小さく息を吐く。
怒っているわけじゃない。
裏切られたとも思っていない。
恋は、そういうものだ。
好きになろうと思って好きになるわけじゃない。
気づいたら、そうなっている。
橘は若い頃、それを何度も見てきた。
会社の中でも。
友人の恋でも。
そして、自分の恋でも。
橘はグラスを置く。
カラン。
氷が音を立てる。
美奈子と出会ったのは、もうずいぶん前だった。
最初はただの知り合いだった。
何度か会って、話して。
気づいたら一緒にいる時間が増えていた。
特別なきっかけはない。
でも、それが恋だった。
あの頃の美奈子は、よく笑っていた。
橘のくだらない話でも、楽しそうに笑った。
その顔を見るのが好きだった。
橘はその時間が、ずっと続くと思っていた。
でも。
人の関係は、少しずつ変わる。
それは悪いことじゃない。
ただ、時間が流れているだけだ。
橘はマスターに言う。
「もう一杯」
マスターは静かに頷く。
グラスに酒が注がれる。
氷が落ちる。
カラン。
橘はその音を聞きながら思う。
もし美奈子が園田を好きになったなら。
それは仕方ない。
止めることはできない。
止めたいとも思わない。
恋は、縛るものじゃない。
橘はそう思っている。
でも。
胸の奥が、少しだけ痛む。
それは怒りじゃない。
嫉妬でもない。
ただ、
寂しい。
橘はその感情を、静かに受け止めていた。
ななしの夜は静かだ。
この店では、誰も大きな声を出さない。
それぞれが、それぞれの夜を過ごしている。
橘はグラスを持つ。
一口飲む。
そのとき思った。
もし、美奈子が本当に幸せになるなら。
それでいい。
本当にそう思う。
でも。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけでいい。
橘は願っていた。
できれば、俺であってほしかった。
その言葉は、口には出なかった。
グラスの中の氷が、また小さく音を立てた。
カラン。
その音だけが、橘の夜を知っていた。
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