第15話 帰り道が変わった夜
ー/ーその夜、ななしを出たのは、いつもより少し遅い時間だった。
店の中には最後までいた常連が一人だけ残っていて、マスターがグラスを静かに磨いていた。
「おやすみなさい」
私が言うと、マスターはいつもの穏やかな笑顔で頷いた。
「気をつけて」
その声を背中に受けながら、私は引き戸を開けた。
外の空気は、少しだけ冷たい。
昼間よりも風が強くなっている。
私はコートの襟を軽く押さえた。
隣で園田が言う。
「寒いですね」
「少し」
恵比寿の夜はまだ明るい。
飲み帰りの人たちが歩いている。
タクシーのライト。
遠くの笑い声。
でも、その中で私たちは少しだけ静かだった。
並んで歩く。
昨日と同じ帰り道。
でも、今日は少し違う。
距離が、昨日より近い。
腕一本分より、少しだけ近い。
触れそうで触れない。
その距離が、妙に意識される。
「今日は」
園田が言う。
私は顔を上げる。
「楽しかったです」
私は少し笑う。
「私も」
その言葉は自然に出た。
無理に言ったわけじゃない。
本当に、そう思ったから。
園田は少しだけ安心したような顔をした。
「よかった」
その言い方が、少し優しい。
私たちはしばらく黙って歩く。
沈黙。
でも重くない。
むしろ、その沈黙が心地いい。
園田が言う。
「美奈子さん」
「はい?」
「最近、ななし好きになりました」
私は少し笑う。
「前から好きでしたよ」
園田は首を振る。
「前は店が好きでした」
「今は?」
園田は少しだけ考える。
それから言った。
「今は夜が好きです」
その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失う。
夜。
それは、この時間のこと。
この帰り道のこと。
私はグラスを持っていない手をコートのポケットに入れる。
胸の奥が少しだけ速くなる。
信号が赤になる。
横断歩道の前で止まる。
人の流れが一瞬止まる。
そのときだった。
風が強く吹く。
私は思わずバランスを崩す。
その瞬間。
手が触れた。
園田の手。
ほんの一瞬。
反射的に触れた。
支えるための手。
でも。
触れた。
私はすぐに手を引こうとする。
でも園田は慌てなかった。
「大丈夫ですか」
その声は落ち着いている。
「大丈夫です」
私は答える。
でも。
手はまだ近い。
ほんの少しだけ。
触れそうな距離。
信号が青になる。
人が動き出す。
私たちも歩き出す。
でも、さっきより少しだけ距離が変わっていた。
ほんの少しだけ近い。
触れない。
でも、離れない。
その距離。
恵比寿駅の灯りが見える。
もうすぐ改札。
私はふと気づく。
さっき触れた感触が、まだ残っている。
ほんの一瞬だったのに。
それなのに。
どうしてこんなに残るのだろう。
園田が言う。
「さっき」
私は顔を上げる。
「はい?」
園田は少し笑った。
「びっくりしました」
私は思わず笑う。
「私も」
二人とも少し笑う。
それだけ。
それだけなのに。
胸の奥が、少しだけ温かい。
恋というものは、
キスから始まるわけじゃない。
告白から始まるわけでもない。
ただ、
夜の帰り道で、
ほんの一瞬、
手が触れた。
それだけのこと。
でも、その一瞬が、
そのあと何度も思い出される。
私は改札の前で立ち止まる。
「今日はありがとうございました」
園田が言う。
「こちらこそ」
私は軽く頭を下げる。
そして改札を通る。
ICカードの音。
振り返る。
園田がまだそこにいる。
私を見ている。
私は小さく手を振る。
園田も同じように手を振る。
その夜、電車の中で私は思っていた。
たった一瞬のことなのに。
どうしてこんなに心に残るのだろう。
触れただけ。
それだけなのに。
その温度が、まだ指先に残っていた。
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