第16話 もう隠せない
ー/ー日曜日の午後だった。
窓から入る光が、リビングの床をゆっくり移動している。
橘はソファに腰をかけて、ノートパソコンを膝に乗せていた。
仕事というほどのものではない。
来週の打ち合わせの資料を軽く見直しているだけだ。
画面の中には、見慣れたプレゼン資料。
修正するほどでもない内容。
それでも橘はページをスクロールしながら、なんとなく作業を続けていた。
キッチンから、包丁の音が聞こえる。
トントン。
一定のリズム。
美奈子が野菜を切っている音だ。
この家で聞き慣れた音。
橘はふと、画面から目を離した。
こういう日曜日は嫌いじゃない。
昔は、ほとんど家にいなかった。
休日でも打ち合わせがあったし、
誰かと会っていたし、
夜になればまた別の店へ行っていた。
あの頃は、それが当たり前だった。
忙しいことが価値だった。
人に必要とされていることが、自分の証明みたいに思えた。
でも今は違う。
今は、こういう静かな時間の方が落ち着く。
「コーヒー飲む?」
キッチンから美奈子が声をかける。
橘はソファにもたれたまま答えた。
「飲む」
少しして、美奈子がマグカップを二つ持ってきた。
テーブルの上に置く。
湯気がゆっくり上がっている。
「ありがとう」
橘はマグカップを持ち上げる。
一口飲む。
少し苦い。
でも、それがちょうどいい。
美奈子は向かいの椅子に座った。
スマートフォンをテーブルに置いたまま、コーヒーを飲んでいる。
日曜日の午後の、いつもの光景。
橘はその様子を、ぼんやり見ていた。
そのときだった。
スマートフォンが震えた。
短い振動。
テーブルの上で、小さく音が鳴る。
美奈子のスマートフォンだ。
画面が光る。
美奈子はすぐに手を伸ばした。
ほんの一瞬。
でも、その動きが、少しだけ早かった。
橘は無意識にその様子を見ていた。
美奈子が画面を見る。
一秒。
それから、スマートフォンを伏せた。
何もなかったようにコーヒーを飲む。
橘はパソコンに視線を戻す。
でも、頭の中にはさっきの動きが残っていた。
別に不自然ではない。
誰だってメッセージが来たら見る。
それだけのことだ。
それなのに。
ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ違う。
橘はパソコンを閉じた。
「誰?」
軽く聞く。
詮索するつもりはない。
ただ、自然に出た言葉。
美奈子は答える。
「仕事」
短い返事。
橘は頷く。
「そっか」
それ以上は聞かない。
聞く理由もない。
それなのに。
胸の奥に、小さな違和感が残る。
橘はコーヒーを飲みながら、窓の外を見る。
空は少し曇っている。
日曜日の午後の街は、どこかゆっくりしている。
そのとき、橘はふと思い出した。
ななし。
あの店。
そして――
園田。
あの男は静かだった。
何度か店で顔を合わせたことがある。
多くは話さない。
でも、どこか印象に残る男だった。
派手ではない。
でも、落ち着いている。
橘は昔から、そういうタイプを知っている。
広告の仕事をしていた頃、
会社の中にもいた。
目立たないのに、信頼される男。
大きな声は出さないのに、
周りが自然と話を聞く男。
そして、そういう男は――
不思議と女性に好かれる。
橘はマグカップを置く。
「最近さ」
橘が言う。
美奈子が顔を上げる。
「うん?」
「ななし、よく行ってるよな」
美奈子は少し考えてから言った。
「そう?」
「うん」
橘は肩をすくめる。
「まあ、いい店だけど」
それだけ言って、言葉は止まる。
美奈子は何も言わない。
橘もそれ以上は続けない。
沈黙。
でも、今までと少しだけ違う沈黙だった。
橘は自分でもうまく説明できない違和感を感じていた。
疑っているわけじゃない。
嫉妬でもない。
ただ――
何かが少し変わった。
そんな気がする。
美奈子が立ち上がる。
「洗い物してくる」
「うん」
キッチンへ行く背中を、橘は見ていた。
長い時間を一緒に過ごしてきた。
だからわかる。
ほんの小さな変化。
言葉じゃない。
空気。
距離。
そういうもの。
橘は小さく息を吐いた。
そして思う。
人の関係は、
突然壊れるわけじゃない。
少しずつ変わる。
気づかないくらいゆっくり。
でも、ある日ふと、
あれ?
と思う瞬間がある。
今日が、その日なのかもしれない。
橘はまだ答えを知らなかった。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
何かが動き始めている。
それだけは、わかった。
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