店を出たとき、夜の空気は思っていたより冷たかった。
店の中にいたあいだは、木の匂いと低い照明とジャズの音に包まれていたせいか、外へ出た瞬間、肌に触れる風が少しだけ鋭く感じられた。
さっきまでカウンターに置いていた指先のぬくもりが、まだ残っている。
それなのに、頬に触れた空気だけが先に現実へ戻っていくみたいだった。
橘はもう数歩先を歩いていた。
「先、会計しとく」と言って立ち上がったときと同じ、少しだけ急いだ足取りのまま、振り返りもせずに裏通りを抜けていく。
私はバッグの持ち手を握り直し、その後ろをゆっくり歩いた。
恵比寿の夜は、駅前から少し離れるだけで、急にやわらかくなる。
表通りの明るさや、誰かに見せるための賑わいが少し薄くなって、建物の隙間や街路樹の影に、ちゃんと人の夜が残っている。
ななしから出たあとの私は、いつもそのやわらかさに少しだけ助けられていた。
その夜もそうだった。
でも、いつもと少し違っていたのは、頭の中にまだ店の音が残っていたことだった。
ジャズのピアノ。
グラスの底が木に触れる小さな音。
橘のハイボールに立った炭酸の気配。
そして、ジャックダニエルのグラスの中で鳴った、あの氷の音。
カラン。
聞こえたはずのないその音を、私は歩きながらもう一度思い出していた。
「寒いな」
前を歩いていた橘が、コートの襟を押さえながら言った。
「うん」
私が短く返すと、橘はそれ以上何も言わなかった。
それが、いまの私たちらしかった。
昔の橘なら、たぶんもっと喋っていたと思う。
この店の雰囲気がどうとか、さっき少し話題にした店名のこととか、あるいは自分が昔関わった誰かのエピソードとか。
沈黙を悪いものだと思っていたわけではないけれど、何も話さない時間を、そのままにしておけない人だった。
今の橘は違う。
話すときは話す。
でも、話さないときは、本当に何も言わない。
それは落ち着きなのかもしれない。
大人になったということなのかもしれない。
あるいは、昔ほどもう、自分の外側に興味がないということなのかもしれなかった。
私はそんなことを考えて、すぐにやめた。
歩きながら考えるには、少し疲れすぎていた。
仕事の疲れ。
店で笑っていたぶんの疲れ。
そして、自分の中に生まれた小さな違和感を、見ないふりしている疲れ。
駅前の明かりが近づいてくる。
人の流れも少しだけ増えた。
会社帰りらしいスーツ姿の人たち、コンビニの袋を提げた人、誰かと電話しながら歩く人。
その中に紛れ込めば、私たちもただの一組に見えるのだろう。
同じ方向へ歩いて、同じ家へ帰る二人。
それはたぶん、間違っていない。
少なくとも外から見れば。
でも私は、その並びの中で、さっきまでカウンターの右隣にあったもうひとつの気配を、どうしても忘れられなかった。
店を出る前の、あの声。
「お疲れさまでした」
たったそれだけ。
本当に、それだけだった。
会社の人にも言われる。
駅のホームで同僚と別れるときにも聞く。
仕事相手とのメールにもよくある。
ありふれた言葉だ。
それなのに、園田のそれは、少しだけ違って聞こえた。
労いというより、
同じ場所にいた時間そのものに、静かに触れてくるみたいな言い方だった。
私は自分でも説明のできないまま、そのひと言を胸のどこかに置いて歩いていた。
「今日さ」
橘が急に言った。
「うん?」
「珍しく、少し飲んでたよね」
私は顔を上げた。
「そう?」
「うん。疲れてる日は、ああいう店でゆっくり飲みたくなるのかもな」
その言い方に、特に棘はなかった。
探るような感じも、責めるような感じもない。
ただ感想として、目に入ったことを口にしただけ。
「今日はちょっと長かったから」
「会議?」
「会議もあったし、確認待ちも長くて」
「へえ」
それだけで会話は終わった。
昔の私なら、その「へえ」に少しだけ寂しさを感じたかもしれない。
もう少し聞いてほしいとか、せめて「大変だったね」くらい言ってほしいとか。
でも今は、そこに期待すること自体が少なくなっていた。
期待しなくなることは、楽だ。
傷つかなくて済むから。
けれど同時に、少しずつ自分の中の何かが乾いていく感じもある。
駅の改札を通って、ホームへ向かう階段を下りる。
橘は電車の時刻を確認するようにスマートフォンを見て、そのまま先に歩いた。
私は少し遅れてついていく。
ホームに着くと、夜風がまた少しだけ強かった。
線路の向こう側に見えるホームにも人が並んでいて、電車が来るたびに風景が細かく入れ替わっていく。
橘は、私の左側に立った。
付き合い始めた頃、こういう場所では自然に手をつないでいた気がする。
別に人目を気にしないわけではなかったけれど、つないでいることが当たり前だった。
それがいつからか、横にいるだけになった。
嫌いになったわけじゃない。
触れたくないわけでもない。
ただ、その必要がなくなったみたいに。
必要がなくなった、という言い方は少し冷たい。
でも、たぶんそういうことだった。
電車が滑り込んでくる音がする。
橘は「乗ろう」とだけ言って、先に乗り込んだ。
車内はそこまで混んでいなかった。
座席も少し空いていて、私たちは並んで座ることができた。
私は窓側、橘が通路側。
ドアが閉まる。
車体がゆっくり動き出す。
窓に映った自分の顔は少し疲れていて、でも思っていたほど悪くは見えなかった。
橘は隣でスマートフォンを見ていた。
仕事の続きかもしれないし、ニュースかもしれない。
私は見ようとは思わなかった。
ふと、頭の中に園田の横顔が浮かんだ。
黒縁の丸い眼鏡。
落ち着いた表情。
グラスを持つ手の癖。
誰かが少し声を張っても、その空気を否定せずに、自分だけは同じ温度のままでいる感じ。
店の中で橘と園田を見比べたとき、私はたしかに違いを感じていた。
言葉の強さとか、目立ちやすさとか、そういう分かりやすいことではなくて、もっと静かな部分で。
橘は、昔の光をまだ少し引きずっている人だった。
かつて自分が立っていた場所の高さを忘れられずに、その輪郭をときどき口にしてしまう人。
悪い人ではない。
むしろ、優しい日もあるし、ちゃんと気遣ってくれる日もある。
でも、今の橘のそばにいると、ときどき私は「この人の時間の中に、自分はどのくらいいるんだろう」と思ってしまう。
園田には、その感じがなかった。
彼のことを何も知らない。
仕事も、年齢も、休日の過ごし方も知らない。
どんな部屋に住んでいて、どんな朝を迎えるのかも分からない。
それなのに、ななしにいる園田を見ていると、この人は誰かと一緒にいる時間を雑に扱わない人なんだろうな、と、そんなふうに思ってしまう。
思い込みかもしれない。
ただの幻想かもしれない。
静かな人を、勝手にやさしい人だと勘違いしているだけなのかもしれない。
でも、人を好きになる前って、たぶんだいたいそんなものだ。
まだ何も知らないのに、
知らない部分にまで勝手な温度を感じてしまう。
電車が揺れる。
私は膝の上で指を組み、目を伏せた。
「眠い?」
橘がスマートフォンから目を上げずに聞いた。
「ちょっと」
「今日は早く寝たほうがいいよ」
「うん」
また、それだけで会話は終わる。
責める理由なんて何もない。
会話が少ないからといって、すぐに関係が壊れているわけでもない。
世の中には、もっとひどい沈黙もあるだろう。
もっと傷つけ合う二人もいるはずだ。
それでも私は、隣に座っているこの人より、さっき隣ではなくひとつ席を空けて座っていた人のほうを思い出してしまっている。
そのことが、自分で思う以上にこたえた。
電車を降りて、マンションまでの道を歩く。
夜の空気は、行きよりもさらに冷えていた。
自動販売機の明かりが妙に白く見える。
道端に置かれた自転車のかごに、誰かが忘れたレシートが揺れている。
そんな細かいものばかりが目に入る夜だった。
部屋に着くと、橘は「先シャワー使っていい?」と聞いた。
「うん」
靴を脱ぎながら答えると、橘はコートを脱いで、そのまま洗面所の方へ向かった。
私はバッグをテーブルに置き、部屋の灯りを見回した。
いつもの部屋。
いつもの匂い。
いつもの静けさ。
安心するはずの場所。
ちゃんと帰ってきたと思える場所。
なのに、その安心が、その夜の私には少しだけ平たく感じられた。
私はキッチンへ行って、水をコップに注いだ。
冷蔵庫の光が妙に白い。
一口飲んで、息をつく。
そのとき、バッグの中でスマートフォンが震えた。
心臓が、ほんの少しだけ速くなった。
こんな時間に来る連絡なんて、大したものじゃない。
会社のチャットかもしれないし、明日の確認かもしれない。
それなのに、私はなぜか、誰からのものかを確認する前から、自分の中に小さな期待が生まれているのを感じていた。
バッグからスマートフォンを取り出す。
画面には、メッセージアプリの通知がひとつ。
差出人の名前を見て、私は一瞬だけ息を止めた。
園田博美
どうして。
いや、どうしても何もない。
ななしで何度か顔を合わせて、前に橘が一緒にいた夜に、たしか連絡先を交換する流れになったことがあった。
あのときは、常連同士だからという、ごく曖昧な理由だった気がする。
それ以来、一度も個人的なやりとりなんてしていなかったのに。
私はその場で少しだけ立ち尽くした。
シャワーの音が奥から聞こえる。
部屋は静かで、画面の明かりだけが手の中で小さく光っている。
通知を開く。
今日はお疲れさまでした。
遅くまで大変そうでしたね。
帰り、少し寒かったので、風邪ひかないようにしてください。
短い文だった。
絵文字もない。
馴れ馴れしさもない。
探ればいくらでも事務的に受け取れるくらい、丁寧で、静かな文章。
でも私は、その短さの中に、店を出るときの声と同じ温度を感じてしまった。
今日はお疲れさまでした。
店で聞いたのと、同じ言葉。
でも今度は、私に向けてちゃんと届いている。
帰りが寒かったことまで覚えていて、それを言葉にしている。
たったそれだけのことで、胸のどこかが静かにほどけた。
大げさなことじゃない。
嬉しい、というのとも少し違う。
もっと小さくて、でも確かに体の内側に残る感じ。
私はスマートフォンを持ったまま、しばらく返信を打てずにいた。
すぐ返したら、待っていたみたいで嫌かもしれない。
少し置いたほうが自然かもしれない。
でも、わざと間を空けるのも変だ。
そんなことを考える自分に、少しだけ可笑しくなる。
こんなふうに、たった一通のメッセージで迷うなんて、いつ以来だろう。
私はソファに座って、もう一度文章を読み返した。
やっぱり、何度読んでも静かな文だと思う。
でもその静けさの中に、ちゃんと私を見ていた気配がある。
ななしでの園田は、必要以上に話さない。
だからこそ、こういうひと言は軽くならない。
私はようやく指を動かした。
ありがとうございます。
園田さんもお疲れさまでした。
今日は少し冷えましたね。
園田さんも風邪ひかないようにしてください。
打って、読み返して、少しだけ悩む。
無難すぎる気もする。
でも、いまの私にはこれ以上の言葉は足せなかった。
送信ボタンを押す。
画面の中の吹き出しが右側に並ぶ。
たったそれだけなのに、心臓がまた少しだけ速くなる。
私はスマートフォンを膝の上に置いた。
シャワーの音はまだ続いている。
部屋の空気は変わっていない。
キッチンのコップには、飲みかけの水が残っている。
何も起きていない。
本当に、何も起きていない。
誰かに抱きしめられたわけでもない。
秘密を打ち明けられたわけでもない。
約束をしたわけでもない。
人生が急に動き出すような出来事なんて、どこにもない。
それでも私は、確かに思っていた。
ああ、こういうことなのかもしれない、と。
恋というものが、
もっと分かりやすく始まるものだと思っていた頃があった。
目が合った瞬間とか、手が触れた瞬間とか、劇的な会話とか。
そういう、あとから誰かに説明しやすい出来事で。
でも本当は違うのかもしれない。
同じ夜を過ごしたこと。
帰り際のたったひと言。
そのあとに届いた、短いメッセージ。
そういう小さなことが、あとから静かに積もっていく。
その積もり方は遅い。
でも遅いぶん、深いところへ残る。
スマートフォンがもう一度震えた。
私は反射的に画面を見た。
ありがとうございます。
おやすみなさい。
私は、その短い返事を見て、少しだけ笑った。
本当に、それだけだった。
それだけなのに、
その夜の私は、眠る前まで何度も画面を見返してしまった。