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第5話 どうして思い出すんだろう

ー/ー





それでも、眠るには少し早すぎた。


シャワーの音が、浴室の向こうで一定のリズムを刻んでいる。


橘が先に風呂を使うと言ってから、もう十分くらい経っただろうか。


私はソファに座ったまま、スマートフォンを膝の上に置いていた。


画面は暗い。

さっき自分で送ったメッセージが、まだそこに残っている。


ありがとうございます。

園田さんもお疲れさまでした。

今日は少し冷えましたね。

園田さんも風邪ひかないようにしてください。


無難な文章だと思う。

丁寧で、余計な温度はない。


それなのに、送信ボタンを押したあとから、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。


どうしてだろう。


たった一通のメッセージなのに。


画面を消す。

三秒くらいして、また点ける。


既読はついていない。


そりゃそうだ。

送ってから、まだ数分しか経っていない。


私はスマートフォンをテーブルに置いた。


その瞬間、また気になって手に取る。


自分でも呆れる。


こんなふうに誰かの返信を待つ夜なんて、いつ以来だろう。


昔は、もっと簡単だった気がする。


メッセージを送って、

すぐ返ってきて、

また返して、

そのまま会話が続く。


そんな軽さの中に恋があった時期もあった。


でも、今は違う。


返信が遅いことには、理由がある。

忙しいとか、寝てしまったとか、単純にスマートフォンを見ていないとか。


それくらいのこと、頭ではわかっている。


それでも、心は勝手に意味を探してしまう。


「忙しいのかな」


小さく呟いてみる。


誰もいない部屋の中で、声はすぐに消えた。


浴室のドアが開く音がする。


「終わったよ」


橘がタオルで髪を拭きながら出てくる。


「うん」


私はスマートフォンを裏返した。


橘は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。

プシュッという音が部屋に広がった。


「今日、珍しく飲んだよね」


「そう?」


「うん。あの店では、あんまり飲まないじゃん」


私は少し考えてから答える。


「今日は、ちょっと疲れてたから」


橘は「そっか」と言って、ビールを一口飲んだ。


それ以上、会話は続かなかった。


沈黙が嫌いなわけではない。


でも、さっきまでいた店の空気とは、少し違う沈黙だった。


テレビの音。

ビールの缶がテーブルに置かれる音。

スマートフォンをスクロールする指の音。


それらが部屋の中で、小さく散らばっている。


私は立ち上がった。


「シャワー使うね」


「どうぞ」


浴室に入り、ドアを閉める。


蛇口をひねると、水が一気に流れ出した。


鏡の前に立って、自分の顔を見る。


疲れている。

でも、それだけじゃない。


何かを考えている顔だ。


私は目を閉じて、さっきの店のことを思い出した。


カウンター。

低い照明。

木の匂い。


そして、隣に座っていた園田の横顔。


黒縁の丸い眼鏡。

グラスを持つ手。

ゆっくり話す声。


あまり多くは話さない人だった。


でも、不思議と沈黙が気にならない。


ああいう人は、たぶん珍しい。


世の中には、沈黙を怖がる人が多い。


沈黙があると、すぐに何か言おうとする。

面白い話をしようとする。

場を盛り上げようとする。


園田は、そういうことをしない。


沈黙をそのまま置いておける人だった。


そのことが、なぜか心に残っている。


シャワーを浴びながら、私はふと思う。


もし、あの人と二人で飲んだら、どんな夜になるんだろう。


少し笑ってしまった。


そんなこと、あるわけないのに。


シャワーを止める。


タオルで髪を拭きながら、ふとスマートフォンのことを思い出した。


返信は、来ているだろうか。


浴室のドアを開ける。


部屋はさっきと同じだった。


橘はソファでニュースを見ている。

テーブルの上には、半分くらい減ったビール。


私はスマートフォンを手に取る。


画面を点ける。


通知がひとつ。


胸が少しだけ速くなる。


画面を開く。


園田からだった。


ありがとうございます。

美奈子さんもゆっくり休んでください。

また、ななしで。


たった三行。


それだけ。


絵文字もない。

特別な言葉もない。


でも、その「また、ななしで」という一文が、妙に胸に残った。


また、ななしで。


それは約束ではない。

でも、偶然でもない。


同じ場所で、また会うかもしれない。

そんな距離の言葉だった。


私は少しだけ息を吐いた。


橘がテレビから目を離さずに言う。


「仕事?」


「ううん」


「誰?」


「店の人」


嘘ではない。

でも、本当でもない。


私はスマートフォンをテーブルに置いた。


返信はしないことにした。


さっき返したばかりだし、これ以上続ける理由もない。


それなのに。


その夜、私は何度もスマートフォンを見てしまった。


通知は、もう来ない。


それでも、画面を点けてしまう。


また、ななしで。


その言葉が、静かに残っている。


恋というものが、大きな出来事から始まるとは限らないことを。


誰かに守られた瞬間でもなく、

抱きしめられた瞬間でもなく、


ただ、


帰ったあと、

部屋の中で、

静かな通知を何度も思い出してしまう。


そんな夜から始まることもあるのだと。


そのときの私は、まだ知らなかった。


その「また、ななしで」という言葉が、

これから何度も私の夜を塗り替えていくことを。




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それでも、眠るには少し早すぎた。
シャワーの音が、浴室の向こうで一定のリズムを刻んでいる。
橘が先に風呂を使うと言ってから、もう十分くらい経っただろうか。
私はソファに座ったまま、スマートフォンを膝の上に置いていた。
画面は暗い。
さっき自分で送ったメッセージが、まだそこに残っている。
ありがとうございます。
園田さんもお疲れさまでした。
今日は少し冷えましたね。
園田さんも風邪ひかないようにしてください。
無難な文章だと思う。
丁寧で、余計な温度はない。
それなのに、送信ボタンを押したあとから、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
どうしてだろう。
たった一通のメッセージなのに。
画面を消す。
三秒くらいして、また点ける。
既読はついていない。
そりゃそうだ。
送ってから、まだ数分しか経っていない。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
その瞬間、また気になって手に取る。
自分でも呆れる。
こんなふうに誰かの返信を待つ夜なんて、いつ以来だろう。
昔は、もっと簡単だった気がする。
メッセージを送って、
すぐ返ってきて、
また返して、
そのまま会話が続く。
そんな軽さの中に恋があった時期もあった。
でも、今は違う。
返信が遅いことには、理由がある。
忙しいとか、寝てしまったとか、単純にスマートフォンを見ていないとか。
それくらいのこと、頭ではわかっている。
それでも、心は勝手に意味を探してしまう。
「忙しいのかな」
小さく呟いてみる。
誰もいない部屋の中で、声はすぐに消えた。
浴室のドアが開く音がする。
「終わったよ」
橘がタオルで髪を拭きながら出てくる。
「うん」
私はスマートフォンを裏返した。
橘は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。
プシュッという音が部屋に広がった。
「今日、珍しく飲んだよね」
「そう?」
「うん。あの店では、あんまり飲まないじゃん」
私は少し考えてから答える。
「今日は、ちょっと疲れてたから」
橘は「そっか」と言って、ビールを一口飲んだ。
それ以上、会話は続かなかった。
沈黙が嫌いなわけではない。
でも、さっきまでいた店の空気とは、少し違う沈黙だった。
テレビの音。
ビールの缶がテーブルに置かれる音。
スマートフォンをスクロールする指の音。
それらが部屋の中で、小さく散らばっている。
私は立ち上がった。
「シャワー使うね」
「どうぞ」
浴室に入り、ドアを閉める。
蛇口をひねると、水が一気に流れ出した。
鏡の前に立って、自分の顔を見る。
疲れている。
でも、それだけじゃない。
何かを考えている顔だ。
私は目を閉じて、さっきの店のことを思い出した。
カウンター。
低い照明。
木の匂い。
そして、隣に座っていた園田の横顔。
黒縁の丸い眼鏡。
グラスを持つ手。
ゆっくり話す声。
あまり多くは話さない人だった。
でも、不思議と沈黙が気にならない。
ああいう人は、たぶん珍しい。
世の中には、沈黙を怖がる人が多い。
沈黙があると、すぐに何か言おうとする。
面白い話をしようとする。
場を盛り上げようとする。
園田は、そういうことをしない。
沈黙をそのまま置いておける人だった。
そのことが、なぜか心に残っている。
シャワーを浴びながら、私はふと思う。
もし、あの人と二人で飲んだら、どんな夜になるんだろう。
少し笑ってしまった。
そんなこと、あるわけないのに。
シャワーを止める。
タオルで髪を拭きながら、ふとスマートフォンのことを思い出した。
返信は、来ているだろうか。
浴室のドアを開ける。
部屋はさっきと同じだった。
橘はソファでニュースを見ている。
テーブルの上には、半分くらい減ったビール。
私はスマートフォンを手に取る。
画面を点ける。
通知がひとつ。
胸が少しだけ速くなる。
画面を開く。
園田からだった。
ありがとうございます。
美奈子さんもゆっくり休んでください。
また、ななしで。
たった三行。
それだけ。
絵文字もない。
特別な言葉もない。
でも、その「また、ななしで」という一文が、妙に胸に残った。
また、ななしで。
それは約束ではない。
でも、偶然でもない。
同じ場所で、また会うかもしれない。
そんな距離の言葉だった。
私は少しだけ息を吐いた。
橘がテレビから目を離さずに言う。
「仕事?」
「ううん」
「誰?」
「店の人」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
返信はしないことにした。
さっき返したばかりだし、これ以上続ける理由もない。
それなのに。
その夜、私は何度もスマートフォンを見てしまった。
通知は、もう来ない。
それでも、画面を点けてしまう。
また、ななしで。
その言葉が、静かに残っている。
恋というものが、大きな出来事から始まるとは限らないことを。
誰かに守られた瞬間でもなく、
抱きしめられた瞬間でもなく、
ただ、
帰ったあと、
部屋の中で、
静かな通知を何度も思い出してしまう。
そんな夜から始まることもあるのだと。
そのときの私は、まだ知らなかった。
その「また、ななしで」という言葉が、
これから何度も私の夜を塗り替えていくことを。