それでも、眠るには少し早すぎた。
シャワーの音が、浴室の向こうで一定のリズムを刻んでいる。
橘が先に風呂を使うと言ってから、もう十分くらい経っただろうか。
私はソファに座ったまま、スマートフォンを膝の上に置いていた。
画面は暗い。
さっき自分で送ったメッセージが、まだそこに残っている。
ありがとうございます。
園田さんもお疲れさまでした。
今日は少し冷えましたね。
園田さんも風邪ひかないようにしてください。
無難な文章だと思う。
丁寧で、余計な温度はない。
それなのに、送信ボタンを押したあとから、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
どうしてだろう。
たった一通のメッセージなのに。
画面を消す。
三秒くらいして、また点ける。
既読はついていない。
そりゃそうだ。
送ってから、まだ数分しか経っていない。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
その瞬間、また気になって手に取る。
自分でも呆れる。
こんなふうに誰かの返信を待つ夜なんて、いつ以来だろう。
昔は、もっと簡単だった気がする。
メッセージを送って、
すぐ返ってきて、
また返して、
そのまま会話が続く。
そんな軽さの中に恋があった時期もあった。
でも、今は違う。
返信が遅いことには、理由がある。
忙しいとか、寝てしまったとか、単純にスマートフォンを見ていないとか。
それくらいのこと、頭ではわかっている。
それでも、心は勝手に意味を探してしまう。
「忙しいのかな」
小さく呟いてみる。
誰もいない部屋の中で、声はすぐに消えた。
浴室のドアが開く音がする。
「終わったよ」
橘がタオルで髪を拭きながら出てくる。
「うん」
私はスマートフォンを裏返した。
橘は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出す。
プシュッという音が部屋に広がった。
「今日、珍しく飲んだよね」
「そう?」
「うん。あの店では、あんまり飲まないじゃん」
私は少し考えてから答える。
「今日は、ちょっと疲れてたから」
橘は「そっか」と言って、ビールを一口飲んだ。
それ以上、会話は続かなかった。
沈黙が嫌いなわけではない。
でも、さっきまでいた店の空気とは、少し違う沈黙だった。
テレビの音。
ビールの缶がテーブルに置かれる音。
スマートフォンをスクロールする指の音。
それらが部屋の中で、小さく散らばっている。
私は立ち上がった。
「シャワー使うね」
「どうぞ」
浴室に入り、ドアを閉める。
蛇口をひねると、水が一気に流れ出した。
鏡の前に立って、自分の顔を見る。
疲れている。
でも、それだけじゃない。
何かを考えている顔だ。
私は目を閉じて、さっきの店のことを思い出した。
カウンター。
低い照明。
木の匂い。
そして、隣に座っていた園田の横顔。
黒縁の丸い眼鏡。
グラスを持つ手。
ゆっくり話す声。
あまり多くは話さない人だった。
でも、不思議と沈黙が気にならない。
ああいう人は、たぶん珍しい。
世の中には、沈黙を怖がる人が多い。
沈黙があると、すぐに何か言おうとする。
面白い話をしようとする。
場を盛り上げようとする。
園田は、そういうことをしない。
沈黙をそのまま置いておける人だった。
そのことが、なぜか心に残っている。
シャワーを浴びながら、私はふと思う。
もし、あの人と二人で飲んだら、どんな夜になるんだろう。
少し笑ってしまった。
そんなこと、あるわけないのに。
シャワーを止める。
タオルで髪を拭きながら、ふとスマートフォンのことを思い出した。
返信は、来ているだろうか。
浴室のドアを開ける。
部屋はさっきと同じだった。
橘はソファでニュースを見ている。
テーブルの上には、半分くらい減ったビール。
私はスマートフォンを手に取る。
画面を点ける。
通知がひとつ。
胸が少しだけ速くなる。
画面を開く。
園田からだった。
ありがとうございます。
美奈子さんもゆっくり休んでください。
また、ななしで。
たった三行。
それだけ。
絵文字もない。
特別な言葉もない。
でも、その「また、ななしで」という一文が、妙に胸に残った。
また、ななしで。
それは約束ではない。
でも、偶然でもない。
同じ場所で、また会うかもしれない。
そんな距離の言葉だった。
私は少しだけ息を吐いた。
橘がテレビから目を離さずに言う。
「仕事?」
「ううん」
「誰?」
「店の人」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
私はスマートフォンをテーブルに置いた。
返信はしないことにした。
さっき返したばかりだし、これ以上続ける理由もない。
それなのに。
その夜、私は何度もスマートフォンを見てしまった。
通知は、もう来ない。
それでも、画面を点けてしまう。
また、ななしで。
その言葉が、静かに残っている。
恋というものが、大きな出来事から始まるとは限らないことを。
誰かに守られた瞬間でもなく、
抱きしめられた瞬間でもなく、
ただ、
帰ったあと、
部屋の中で、
静かな通知を何度も思い出してしまう。
そんな夜から始まることもあるのだと。
そのときの私は、まだ知らなかった。
その「また、ななしで」という言葉が、
これから何度も私の夜を塗り替えていくことを。