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第2話 また同じ時間にいる

ー/ー





その店に通うようになってから、どれくらい経ったのだろう。


正確な日付は覚えていないけれど、気づけばその場所は、私の生活の中に静かに溶け込んでいた。


六本木の会社を出て、恵比寿へ戻る。

家に帰る前に、少しだけ立ち寄る。


それだけのこと。


でも、あの店の扉を開けると、昼間の自分が少しずつほどけていく。


店名のないバー。

常連たちはそれぞれ勝手な呼び方をしている。


「ななし」


誰が最初にそう言い出したのかは分からないけれど、今ではそれが一番しっくりくる。


ななしに入ると、いつも同じ音がする。


低く流れるジャズ。

グラスの触れ合う小さな音。

氷が鳴る音。


そして、マスターの落ち着いた声。


その夜も、私はいつもの席に座った。


六席カウンターの奥から三番目。


④番の席。


椅子は背もたれのない丸いハイチェア。

カウンターは胸の高さくらい。

姿勢を少しだけ正すような高さで、それがこの店の空気をつくっている気がする。


「こんばんは」


「こんばんは」


マスターは私の顔を見て、小さくうなずいた。


「赤でいいですか」


「はい」


グラスに注がれたワインを受け取る。


私はいつも、最初の一口をゆっくり飲む。


それから、息を吐くように言う。


「……おいしい」


この習慣は、いつの間にか身についていた。


マスターが少し笑う。


「今日は少し軽めです」


「そうなんですね」


ワインのことは、詳しくない。

でも、マスターが選ぶものはいつも外れない。


その日の私の疲れ具合や気分を、なんとなく見ているのかもしれない。


グラスをカウンターに置くと、入口の扉が静かに開いた。


私は視線を上げなかった。


でも、分かった。


あの人だ。


どうして分かるのか、自分でも説明できない。

足音かもしれないし、空気の動きかもしれない。

何度も同じ場所で顔を合わせているうちに、人の気配は少しずつ覚えてしまう。


その人はいつもの席に座った。


⑥番。


カウンターの一番奥。


私との間には、必ずひとつ席が空く。


⑤番。


この空席は、たぶん偶然だ。


でも、私はその距離が少し好きだった。


近すぎない。

遠すぎない。


同じ空間にいるのに、会話をしなくても不自然じゃない距離。


マスターがグラスを置く。


「いつものですか」


「はい」


低い声。


その人――園田は、いつも同じ酒を飲む。


ジャックダニエル。

ロック。


氷がグラスに落ちる。


カラン。


私は少しだけ微笑んだ。


前に、その音の話をしたことがある。


「氷の音、いいですよね」


たったそれだけの会話だったけれど、それ以来、私はその音を聞くたびに、少しだけ嬉しくなる。


グラスの氷が揺れる。


カラン。


私はワインを飲みながら、視線をカウンターの上に落としていた。


この店では、誰も無理に会話をしない。


隣の人と話す夜もあるし、

まったく話さない夜もある。


それが自然な場所だった。


数分ほど、静かな時間が流れた。


ジャズのピアノ。

氷の音。

ワインの香り。


ふと、園田が小さく言った。


「今日は、少し寒いですね」


私は少し驚いて顔を上げた。


話しかけられるとは思っていなかった。


「そうですね」


少し考えてから言う。


「昼間は暖かかったんですけど」


「帰り道で、急に冷えてきました」


園田はグラスを持ち上げながら言った。


私はその横顔を、ほんの少しだけ見た。


黒縁の丸い眼鏡。

落ち着いた表情。

声も、やっぱり静かだ。


押しつけるような話し方ではない。


でも、言葉が不自然に消えることもない。


ちょうどいい距離の会話。


私は少し笑った。


「季節の変わり目ですね」


「そうですね」


それだけで、会話は終わった。


でも、不思議と気まずさはなかった。


むしろ、少しだけ安心する。


私はグラスを持ち上げた。


そのとき、入口の扉が開いた。


聞き慣れた声。


「こんばんは」


橘だった。


私は振り向いて手を上げた。


「こんばんは」


橘はカウンターを見渡し、私の隣の席――⑤番に座った。


いつも園田との間に空いている席だ。


つまり、こうなる。








④ 美奈子

⑤ 橘

⑥ 園田


橘はハイチェアに腰をかけると、マスターに言った。


「ハイボール」


「はい」


グラスに氷が入る。


橘はそのまま、私のほうへ体を少し向けた。


「今日遅かったね」


「会議が長くて」


「そうなんだ」


橘はそれ以上深く聞かなかった。


それもいつものことだった。


私たちは付き合っているけれど、

仕事の細かい話をすることはあまりない。


マスターがハイボールを置く。


橘がグラスを持ち上げる。


「おつかれ」


「おつかれ」


グラスが軽く触れる。


その瞬間、私はふと、視線を横へ向けた。


園田は静かにジャックダニエルを飲んでいた。


特にこちらを気にする様子もなく、

ただ、自分の時間を過ごしている。


それが、この店では自然だった。


恋人が隣に座っているのに、

私はなぜか、もう一度氷の音を聞きたいと思った。


カラン。


まるで心を読んだみたいに、

園田のグラスの氷が揺れた。


その音は、やっぱり綺麗だった。


私はワインを飲みながら思った。


この店には、いろんな人が来る。


恋人同士。

仕事仲間。

一人で飲む人。


でも、同じ空間にいるだけで、

なぜか気持ちが落ち着く。


同じ空気を吸って、

同じ音を聞いて、

同じ時間を過ごす。


それだけで、満たされる夜がある。


そのときの私は、まだ知らなかった。


この静かな時間が、

これから少しずつ、

私の心を変えていくことを。


そして――


あの人が、

いつの間にか、

ただの常連ではなくなっていくことを。




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その店に通うようになってから、どれくらい経ったのだろう。
正確な日付は覚えていないけれど、気づけばその場所は、私の生活の中に静かに溶け込んでいた。
六本木の会社を出て、恵比寿へ戻る。
家に帰る前に、少しだけ立ち寄る。
それだけのこと。
でも、あの店の扉を開けると、昼間の自分が少しずつほどけていく。
店名のないバー。
常連たちはそれぞれ勝手な呼び方をしている。
「ななし」
誰が最初にそう言い出したのかは分からないけれど、今ではそれが一番しっくりくる。
ななしに入ると、いつも同じ音がする。
低く流れるジャズ。
グラスの触れ合う小さな音。
氷が鳴る音。
そして、マスターの落ち着いた声。
その夜も、私はいつもの席に座った。
六席カウンターの奥から三番目。
④番の席。
椅子は背もたれのない丸いハイチェア。
カウンターは胸の高さくらい。
姿勢を少しだけ正すような高さで、それがこの店の空気をつくっている気がする。
「こんばんは」
「こんばんは」
マスターは私の顔を見て、小さくうなずいた。
「赤でいいですか」
「はい」
グラスに注がれたワインを受け取る。
私はいつも、最初の一口をゆっくり飲む。
それから、息を吐くように言う。
「……おいしい」
この習慣は、いつの間にか身についていた。
マスターが少し笑う。
「今日は少し軽めです」
「そうなんですね」
ワインのことは、詳しくない。
でも、マスターが選ぶものはいつも外れない。
その日の私の疲れ具合や気分を、なんとなく見ているのかもしれない。
グラスをカウンターに置くと、入口の扉が静かに開いた。
私は視線を上げなかった。
でも、分かった。
あの人だ。
どうして分かるのか、自分でも説明できない。
足音かもしれないし、空気の動きかもしれない。
何度も同じ場所で顔を合わせているうちに、人の気配は少しずつ覚えてしまう。
その人はいつもの席に座った。
⑥番。
カウンターの一番奥。
私との間には、必ずひとつ席が空く。
⑤番。
この空席は、たぶん偶然だ。
でも、私はその距離が少し好きだった。
近すぎない。
遠すぎない。
同じ空間にいるのに、会話をしなくても不自然じゃない距離。
マスターがグラスを置く。
「いつものですか」
「はい」
低い声。
その人――園田は、いつも同じ酒を飲む。
ジャックダニエル。
ロック。
氷がグラスに落ちる。
カラン。
私は少しだけ微笑んだ。
前に、その音の話をしたことがある。
「氷の音、いいですよね」
たったそれだけの会話だったけれど、それ以来、私はその音を聞くたびに、少しだけ嬉しくなる。
グラスの氷が揺れる。
カラン。
私はワインを飲みながら、視線をカウンターの上に落としていた。
この店では、誰も無理に会話をしない。
隣の人と話す夜もあるし、
まったく話さない夜もある。
それが自然な場所だった。
数分ほど、静かな時間が流れた。
ジャズのピアノ。
氷の音。
ワインの香り。
ふと、園田が小さく言った。
「今日は、少し寒いですね」
私は少し驚いて顔を上げた。
話しかけられるとは思っていなかった。
「そうですね」
少し考えてから言う。
「昼間は暖かかったんですけど」
「帰り道で、急に冷えてきました」
園田はグラスを持ち上げながら言った。
私はその横顔を、ほんの少しだけ見た。
黒縁の丸い眼鏡。
落ち着いた表情。
声も、やっぱり静かだ。
押しつけるような話し方ではない。
でも、言葉が不自然に消えることもない。
ちょうどいい距離の会話。
私は少し笑った。
「季節の変わり目ですね」
「そうですね」
それだけで、会話は終わった。
でも、不思議と気まずさはなかった。
むしろ、少しだけ安心する。
私はグラスを持ち上げた。
そのとき、入口の扉が開いた。
聞き慣れた声。
「こんばんは」
橘だった。
私は振り向いて手を上げた。
「こんばんは」
橘はカウンターを見渡し、私の隣の席――⑤番に座った。
いつも園田との間に空いている席だ。
つまり、こうなる。
④ 美奈子
⑤ 橘
⑥ 園田
橘はハイチェアに腰をかけると、マスターに言った。
「ハイボール」
「はい」
グラスに氷が入る。
橘はそのまま、私のほうへ体を少し向けた。
「今日遅かったね」
「会議が長くて」
「そうなんだ」
橘はそれ以上深く聞かなかった。
それもいつものことだった。
私たちは付き合っているけれど、
仕事の細かい話をすることはあまりない。
マスターがハイボールを置く。
橘がグラスを持ち上げる。
「おつかれ」
「おつかれ」
グラスが軽く触れる。
その瞬間、私はふと、視線を横へ向けた。
園田は静かにジャックダニエルを飲んでいた。
特にこちらを気にする様子もなく、
ただ、自分の時間を過ごしている。
それが、この店では自然だった。
恋人が隣に座っているのに、
私はなぜか、もう一度氷の音を聞きたいと思った。
カラン。
まるで心を読んだみたいに、
園田のグラスの氷が揺れた。
その音は、やっぱり綺麗だった。
私はワインを飲みながら思った。
この店には、いろんな人が来る。
恋人同士。
仕事仲間。
一人で飲む人。
でも、同じ空間にいるだけで、
なぜか気持ちが落ち着く。
同じ空気を吸って、
同じ音を聞いて、
同じ時間を過ごす。
それだけで、満たされる夜がある。
そのときの私は、まだ知らなかった。
この静かな時間が、
これから少しずつ、
私の心を変えていくことを。
そして――
あの人が、
いつの間にか、
ただの常連ではなくなっていくことを。