表示設定
表示設定
目次 目次




第1話 この人、誰だろう

ー/ー





恵比寿の夜には、六本木や銀座とは違う、少しだけやわらかい暗さがある。


派手なネオンも、騒がしい呼び込みも、一本裏へ入れば急に遠くなる。

仕事を終えた人たちの声も、タクシーのライトも、どこかひとつ膜を隔てたみたいに薄くなる。


私は、その夜も六本木から恵比寿へ戻ってきた。


東都クリエイティブのオフィスを出たのは、九時を少し過ぎた頃だった。

エレベーターを降りた時点でもう肩が重かった。

朝からクライアントとの打ち合わせが二本、その合間に制作会社との進行確認、来週の企画会議に出す資料の修正。

広告の仕事は華やかに見られることが多いけれど、実際は細かい修正と調整の連続だ。

感性だけでは回らないし、数字だけでも足りない。

人の機嫌と、締切と、予算と、ほんの少しの偶然で、なんとか形になっている。


私はもともとデザイナーになりたくて美大に入った。

けれど卒業する頃には、デザインそのものよりも、企画がどう通って、どう形になって、どう人に届くのか、そちらの方が気になるようになっていた。

それで今の会社に入った。


東都クリエイティブは、大手ではない。

でも中堅としては名前が通っている方で、社員は五百人ほど。制作は外部委託が多いから、社内は意外と少人数に見える。

CMもやるし、キャンペーンもやるし、ブランドの立ち上げも請ける。

六本木のオフィスは便利だけれど、仕事帰りの私は大抵、あの街の明るさに少しだけ疲れている。


だから、タクシーでまっすぐ家に帰る日と、途中で恵比寿に降りる日がある。


その違いに、はっきりした理由はない。

ただ、今日は帰って部屋の照明をつけて、橘の書斎のドアが半分閉まっていて、パソコンの画面の光だけが漏れていて、会話らしい会話もないままシャワーを浴びて寝る夜になるだろうな、と想像してしまった時に、私は家へ帰る前に少しだけ遠回りをしたくなる。


橘浩一郎と同棲を始めて、もう二年になる。


出会った頃の橘は、今よりずっと言葉に勢いがあった。

企業のCM企画会議に、外部のコピーライターとして来ていた彼は、まだ「業界の人」の匂いをまとっていた。

若い頃に書いたコピーが何本かヒットしていて、その頃の名残みたいなものが残っていた。

私は、たぶんそこに惹かれたのだと思う。

言葉で空気を変える人。

会議室の沈んだ空気を、ほんの一行で明るくしたり、ざわつかせたりできる人。

そういう才能に憧れたことが、たぶん好きになるきっかけだった。


今の橘は、昔のように勢いよくは働いていない。

仕事がなくなったわけではないけれど、明らかに減っている。

家の書斎にこもって原稿を書いている時間の方が長く、話しかけても返事が遅い。

それが不満というほどではない。

喧嘩もほとんどないし、生活は静かに回っている。

ただ、恋人というより、同じ家に暮らす人、という感じが強くなっていた。


それが悪いことだとも思っていない。

三十九歳にもなれば、恋だけで生活は続かない。

ときめきだけで朝は来ない。

分かっている。

分かっているからこそ、自分の気持ちにあまり大きな期待をしなくなっていた。


恵比寿の駅を出て、私はいつものように裏通りへ入る。


目的地は、誰にも教えたことのない小さなバーだ。

常連たちはそれぞれ好きな呼び方をしているけれど、私は心の中で、ただ「ななし」と呼んでいる。


入口の扉に、小さな金色のプレートが打ち付けられている。

一万円札くらいの大きさの、その控えめなプレートには、


店名のないバー


とだけ刻まれている。


最初に見た時は、変な名前だと思った。

でも、何度か通ううちに、その不思議な距離感がこの店らしいと思うようになった。

「ようこそ」とも言わないし、「秘密の店です」とも言わない。

ただ、そこにあるだけ。


扉の横には、小さな赤い灯りがある。

それがついている夜だけ、店は営業している。

ついていない夜は、店の中に明かりが見えていても入れない。

マスターが掃除をしていることもあれば、レコードを聴いているだけのこともあるらしい。

でも、それを確かめたことはない。


その夜、赤い灯りは静かについていた。


私は扉を開けた。


低い照明、木の匂い、磨かれたグラスの艶。

小さな店なのに、息苦しさはない。

静かなジャズが流れていて、その音が店の空気を丸くしている。


カウンターはL字になっていて、入口側に二席、奥に六席。

そのさらに奥には、四人掛けのテーブル席がひとつだけあるけれど、ほとんど使われることはない。

椅子は背もたれのないハイチェア。

人が立てば胸くらいの高さのカウンターは、少し高すぎるようでいて、座ってしまうと妙に落ち着く。


マスターが私に軽く目を向ける。


「こんばんは」


「こんばんは」


私は奥の席に向かった。


六席あるカウンターの、奥から三番目。

そこが、なんとなく自分の席になっていた。

いちばん奥ではない。

でも入口に近い席でもない。

この店に対する自分の距離感が、そのまま座る位置になったような気がしていた。


「今日はどうします」


マスターが聞く。


「赤で。お任せします」


マスターは小さく頷いて、一本のボトルを手に取った。

私はこの店では、銘柄を指定しない。

その夜の自分を見て、マスターが選ぶワインを飲む。

それがもう、すっかり当たり前になっていた。


グラスに注がれたワインは、暗い照明の下で深い色をしていた。

私は脚の細いグラスを持ち上げ、ほんの少し香りを確かめ、一口だけ口をつけた。


それから、小さく息を吐くように言う。


「……おいしい」


それが私の癖だということを、たぶんマスターは知っている。

でも、それについて何か言われたことはない。


「今日は少しだけやわらかいものにしました」


「そうなんですね」


「仕事のあとでしょう」


私は少し笑った。


「分かります?」


「分かりますよ」


それ以上の言葉はいらない。

マスターはそういう人だ。


私はグラスを置いて、カウンターの木目をぼんやり見た。

仕事帰りの夜、ここへ来ると少しだけ呼吸が深くなる。

誰かに話を聞いてほしいわけではないし、慰めてほしいわけでもない。

ただ、静かな場所に座って、自分の時間を少し取り戻したいだけなのだと思う。


扉が開いたのは、その少しあとだった。


私は反射的に振り向いたわけではない。

でも、なんとなく意識がそちらへ向いた。


入ってきたのは、見たことのある男の人だった。


この店で、何度も見かけている。

六席のいちばん奥の席に座る人。


背は高めで、細身。

細い黒縁の丸い眼鏡をかけていて、ツルだけが鼈甲色をしている。

髪は自然なショートで、服はいつもシンプルなのにどこかきちんとして見える。

ジャケットの形やシャツの色に、いちいち主張はないのに、見ていると「ああ、この人はちゃんとしている人なんだな」と分かるような服の着方をする人だった。


その夜は、ネイビーのジャケットに薄いグレーのニットを合わせていた。


彼は店の奥へまっすぐ歩いていき、いつもの席に座った。

マスターが言う。


「いつものですか」


男の人は軽く頷く。


「はい」


声は低くて、思っていたよりやわらかかった。


グラスが置かれる。

琥珀色の液体。

ジャックダニエルのロック。


氷が、グラスの中で鳴った。


カラン。


その音が妙にきれいで、私はふとそちらを見てしまった。


ただの氷の音だ。

バーにいればいくらでも聞く。

それなのに、その人のグラスの音だけ、少しだけ心に残る気がした。


彼は酒をひと口飲んで、静かにカウンターを見ている。

店の空気を邪魔しない人だと思った。

大抵の男の人は、静かなバーにいても、どこかで自分の存在を目立たせたがる。

でもその人は違った。

本当にただそこにいるだけで、店に溶けていた。


私はもう一度ワインを飲んだ。


少ししてから、彼の方を見ずに言った。


「その音、いいですよね」


言ってから、少しだけ間があいた。

自分でも、なぜ話しかけたのか分からなかった。


男の人は軽く顔を上げた。


「え?」


「氷の音です」


私はグラスを持ったまま、小さく笑った。


「なんだか、バーに来たって感じがするので」


その人は自分のグラスを見て、それからほんの少しだけ笑った。


「……確かに」


それだけだった。


たった、それだけ。


なのに、その夜の私は、その短いやり取りを何度も思い返すことになる。


会話と呼ぶには短すぎる。

名前も知らない。

年齢も、仕事も知らない。


ただ、この店の奥の席に座る人。

それだけのことだった。


それなのに、なぜか気になった。


彼がもう一度グラスを傾けると、また氷が鳴る。


カラン。


その音を聞きながら、私は思った。


この人は、たぶんひとりでいることに慣れている人なんだろうな、と。


もちろん、それが合っているかどうかは分からない。

ただ、そう見えた。

そして、ひとりでいることに慣れている人の静けさは、ときどきとてもやさしく見える。


「お連れさんは、今日は?」


マスターが何気なく聞く。


私は首を振った。


「今日は仕事みたいです」


「そうですか」


それだけの会話だったけれど、その向こう側で、奥の席の人が少しだけこちらに意識を向けた気がした。


気のせいかもしれない。

でも、そんなふうに思うだけで、少しだけ頬が熱くなる自分がいた。


おかしい。

本当にただの常連だ。


そのときの私は、そう思っていた。

この店で何度も顔を合わせる、静かな常連のひとり。

それ以上でも、それ以下でもない。


なのに。


その夜、店を出てからも私は、路地を歩きながらふと思い出していた。


細い黒縁の眼鏡。

グラスの中の氷の音。

「確かに」と言ったときの、小さな笑い方。


自分でも変だと思う。


たったそれだけのことなのに。

でもたぶん、人の印象って、そういうほんの小さなものから残っていくのだ。


マンションに帰ると、エントランスの噴水が静かに水を落としていた。

夜の照明がその水に反射して、少しだけきれいだった。


部屋に入ると、リビングは明るかった。

書斎のドアは半分閉じていて、その隙間からパソコンの光が見えている。

橘はたぶん、まだ仕事をしていた。


「ただいま」


そう言うと、書斎の向こうから「おかえり」と声が返ってくる。


それだけ。


それだけなのに、私はなぜか、さっきの氷の音を思い出していた。


ベッドに入ってからも、

私はほんの少しだけ考えてしまった。


また、あの人に会うだろうか。


会うだろう。

たぶん、また同じ店で。

また同じ席で。

同じジャックダニエルを飲んで、同じように氷を鳴らすのだろう。


そのときの私は、まだ知らなかった。


同じ空間にいるだけで、

同じ音楽を聞いて、

同じ時間を過ごすだけで、

胸のどこかが少しずつ変わっていく恋が、この世には本当にあるのだということを。




スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第2話 また同じ時間にいる


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



恵比寿の夜には、六本木や銀座とは違う、少しだけやわらかい暗さがある。
派手なネオンも、騒がしい呼び込みも、一本裏へ入れば急に遠くなる。
仕事を終えた人たちの声も、タクシーのライトも、どこかひとつ膜を隔てたみたいに薄くなる。
私は、その夜も六本木から恵比寿へ戻ってきた。
東都クリエイティブのオフィスを出たのは、九時を少し過ぎた頃だった。
エレベーターを降りた時点でもう肩が重かった。
朝からクライアントとの打ち合わせが二本、その合間に制作会社との進行確認、来週の企画会議に出す資料の修正。
広告の仕事は華やかに見られることが多いけれど、実際は細かい修正と調整の連続だ。
感性だけでは回らないし、数字だけでも足りない。
人の機嫌と、締切と、予算と、ほんの少しの偶然で、なんとか形になっている。
私はもともとデザイナーになりたくて美大に入った。
けれど卒業する頃には、デザインそのものよりも、企画がどう通って、どう形になって、どう人に届くのか、そちらの方が気になるようになっていた。
それで今の会社に入った。
東都クリエイティブは、大手ではない。
でも中堅としては名前が通っている方で、社員は五百人ほど。制作は外部委託が多いから、社内は意外と少人数に見える。
CMもやるし、キャンペーンもやるし、ブランドの立ち上げも請ける。
六本木のオフィスは便利だけれど、仕事帰りの私は大抵、あの街の明るさに少しだけ疲れている。
だから、タクシーでまっすぐ家に帰る日と、途中で恵比寿に降りる日がある。
その違いに、はっきりした理由はない。
ただ、今日は帰って部屋の照明をつけて、橘の書斎のドアが半分閉まっていて、パソコンの画面の光だけが漏れていて、会話らしい会話もないままシャワーを浴びて寝る夜になるだろうな、と想像してしまった時に、私は家へ帰る前に少しだけ遠回りをしたくなる。
橘浩一郎と同棲を始めて、もう二年になる。
出会った頃の橘は、今よりずっと言葉に勢いがあった。
企業のCM企画会議に、外部のコピーライターとして来ていた彼は、まだ「業界の人」の匂いをまとっていた。
若い頃に書いたコピーが何本かヒットしていて、その頃の名残みたいなものが残っていた。
私は、たぶんそこに惹かれたのだと思う。
言葉で空気を変える人。
会議室の沈んだ空気を、ほんの一行で明るくしたり、ざわつかせたりできる人。
そういう才能に憧れたことが、たぶん好きになるきっかけだった。
今の橘は、昔のように勢いよくは働いていない。
仕事がなくなったわけではないけれど、明らかに減っている。
家の書斎にこもって原稿を書いている時間の方が長く、話しかけても返事が遅い。
それが不満というほどではない。
喧嘩もほとんどないし、生活は静かに回っている。
ただ、恋人というより、同じ家に暮らす人、という感じが強くなっていた。
それが悪いことだとも思っていない。
三十九歳にもなれば、恋だけで生活は続かない。
ときめきだけで朝は来ない。
分かっている。
分かっているからこそ、自分の気持ちにあまり大きな期待をしなくなっていた。
恵比寿の駅を出て、私はいつものように裏通りへ入る。
目的地は、誰にも教えたことのない小さなバーだ。
常連たちはそれぞれ好きな呼び方をしているけれど、私は心の中で、ただ「ななし」と呼んでいる。
入口の扉に、小さな金色のプレートが打ち付けられている。
一万円札くらいの大きさの、その控えめなプレートには、
店名のないバー
とだけ刻まれている。
最初に見た時は、変な名前だと思った。
でも、何度か通ううちに、その不思議な距離感がこの店らしいと思うようになった。
「ようこそ」とも言わないし、「秘密の店です」とも言わない。
ただ、そこにあるだけ。
扉の横には、小さな赤い灯りがある。
それがついている夜だけ、店は営業している。
ついていない夜は、店の中に明かりが見えていても入れない。
マスターが掃除をしていることもあれば、レコードを聴いているだけのこともあるらしい。
でも、それを確かめたことはない。
その夜、赤い灯りは静かについていた。
私は扉を開けた。
低い照明、木の匂い、磨かれたグラスの艶。
小さな店なのに、息苦しさはない。
静かなジャズが流れていて、その音が店の空気を丸くしている。
カウンターはL字になっていて、入口側に二席、奥に六席。
そのさらに奥には、四人掛けのテーブル席がひとつだけあるけれど、ほとんど使われることはない。
椅子は背もたれのないハイチェア。
人が立てば胸くらいの高さのカウンターは、少し高すぎるようでいて、座ってしまうと妙に落ち着く。
マスターが私に軽く目を向ける。
「こんばんは」
「こんばんは」
私は奥の席に向かった。
六席あるカウンターの、奥から三番目。
そこが、なんとなく自分の席になっていた。
いちばん奥ではない。
でも入口に近い席でもない。
この店に対する自分の距離感が、そのまま座る位置になったような気がしていた。
「今日はどうします」
マスターが聞く。
「赤で。お任せします」
マスターは小さく頷いて、一本のボトルを手に取った。
私はこの店では、銘柄を指定しない。
その夜の自分を見て、マスターが選ぶワインを飲む。
それがもう、すっかり当たり前になっていた。
グラスに注がれたワインは、暗い照明の下で深い色をしていた。
私は脚の細いグラスを持ち上げ、ほんの少し香りを確かめ、一口だけ口をつけた。
それから、小さく息を吐くように言う。
「……おいしい」
それが私の癖だということを、たぶんマスターは知っている。
でも、それについて何か言われたことはない。
「今日は少しだけやわらかいものにしました」
「そうなんですね」
「仕事のあとでしょう」
私は少し笑った。
「分かります?」
「分かりますよ」
それ以上の言葉はいらない。
マスターはそういう人だ。
私はグラスを置いて、カウンターの木目をぼんやり見た。
仕事帰りの夜、ここへ来ると少しだけ呼吸が深くなる。
誰かに話を聞いてほしいわけではないし、慰めてほしいわけでもない。
ただ、静かな場所に座って、自分の時間を少し取り戻したいだけなのだと思う。
扉が開いたのは、その少しあとだった。
私は反射的に振り向いたわけではない。
でも、なんとなく意識がそちらへ向いた。
入ってきたのは、見たことのある男の人だった。
この店で、何度も見かけている。
六席のいちばん奥の席に座る人。
背は高めで、細身。
細い黒縁の丸い眼鏡をかけていて、ツルだけが鼈甲色をしている。
髪は自然なショートで、服はいつもシンプルなのにどこかきちんとして見える。
ジャケットの形やシャツの色に、いちいち主張はないのに、見ていると「ああ、この人はちゃんとしている人なんだな」と分かるような服の着方をする人だった。
その夜は、ネイビーのジャケットに薄いグレーのニットを合わせていた。
彼は店の奥へまっすぐ歩いていき、いつもの席に座った。
マスターが言う。
「いつものですか」
男の人は軽く頷く。
「はい」
声は低くて、思っていたよりやわらかかった。
グラスが置かれる。
琥珀色の液体。
ジャックダニエルのロック。
氷が、グラスの中で鳴った。
カラン。
その音が妙にきれいで、私はふとそちらを見てしまった。
ただの氷の音だ。
バーにいればいくらでも聞く。
それなのに、その人のグラスの音だけ、少しだけ心に残る気がした。
彼は酒をひと口飲んで、静かにカウンターを見ている。
店の空気を邪魔しない人だと思った。
大抵の男の人は、静かなバーにいても、どこかで自分の存在を目立たせたがる。
でもその人は違った。
本当にただそこにいるだけで、店に溶けていた。
私はもう一度ワインを飲んだ。
少ししてから、彼の方を見ずに言った。
「その音、いいですよね」
言ってから、少しだけ間があいた。
自分でも、なぜ話しかけたのか分からなかった。
男の人は軽く顔を上げた。
「え?」
「氷の音です」
私はグラスを持ったまま、小さく笑った。
「なんだか、バーに来たって感じがするので」
その人は自分のグラスを見て、それからほんの少しだけ笑った。
「……確かに」
それだけだった。
たった、それだけ。
なのに、その夜の私は、その短いやり取りを何度も思い返すことになる。
会話と呼ぶには短すぎる。
名前も知らない。
年齢も、仕事も知らない。
ただ、この店の奥の席に座る人。
それだけのことだった。
それなのに、なぜか気になった。
彼がもう一度グラスを傾けると、また氷が鳴る。
カラン。
その音を聞きながら、私は思った。
この人は、たぶんひとりでいることに慣れている人なんだろうな、と。
もちろん、それが合っているかどうかは分からない。
ただ、そう見えた。
そして、ひとりでいることに慣れている人の静けさは、ときどきとてもやさしく見える。
「お連れさんは、今日は?」
マスターが何気なく聞く。
私は首を振った。
「今日は仕事みたいです」
「そうですか」
それだけの会話だったけれど、その向こう側で、奥の席の人が少しだけこちらに意識を向けた気がした。
気のせいかもしれない。
でも、そんなふうに思うだけで、少しだけ頬が熱くなる自分がいた。
おかしい。
本当にただの常連だ。
そのときの私は、そう思っていた。
この店で何度も顔を合わせる、静かな常連のひとり。
それ以上でも、それ以下でもない。
なのに。
その夜、店を出てからも私は、路地を歩きながらふと思い出していた。
細い黒縁の眼鏡。
グラスの中の氷の音。
「確かに」と言ったときの、小さな笑い方。
自分でも変だと思う。
たったそれだけのことなのに。
でもたぶん、人の印象って、そういうほんの小さなものから残っていくのだ。
マンションに帰ると、エントランスの噴水が静かに水を落としていた。
夜の照明がその水に反射して、少しだけきれいだった。
部屋に入ると、リビングは明るかった。
書斎のドアは半分閉じていて、その隙間からパソコンの光が見えている。
橘はたぶん、まだ仕事をしていた。
「ただいま」
そう言うと、書斎の向こうから「おかえり」と声が返ってくる。
それだけ。
それだけなのに、私はなぜか、さっきの氷の音を思い出していた。
ベッドに入ってからも、
私はほんの少しだけ考えてしまった。
また、あの人に会うだろうか。
会うだろう。
たぶん、また同じ店で。
また同じ席で。
同じジャックダニエルを飲んで、同じように氷を鳴らすのだろう。
そのときの私は、まだ知らなかった。
同じ空間にいるだけで、
同じ音楽を聞いて、
同じ時間を過ごすだけで、
胸のどこかが少しずつ変わっていく恋が、この世には本当にあるのだということを。