夜の恵比寿には、少しだけやさしい静けさがある。
駅前の明るさを抜けて、
裏路地に入ると、人の声はすこし遠くなる。
古い建物の一階に、そのバーはある。
看板はほとんど目立たない。
入口の扉に、小さな金色のプレートが付いているだけだ。
一万円札くらいの大きさのそのプレートには、
こう刻まれている。
店名のないバー
けれど常連たちは、
もっと気軽な呼び方をしている。
「ななし」
扉を開けると、
ほんのりと暗い照明と、やわらかな琥珀色の光が迎えてくれる。
カウンターはL字。
入口に近いところに二席。
奥に六席。
さらに奥には、小さなテーブル席が一つあるけれど、
そこが使われているのを見た人はあまりいない。
椅子は背もたれのないハイチェア。
人が立つと、胸のあたりにくる高さのカウンターだ。
店の中には、静かなジャズが流れている。
音は大きくない。
けれど、空気の中に溶け込むように広がっている。
この店のマスターは、
音にとてもこだわる人だった。
六十代くらいだろうか。
若いころ、浅草の喫茶店で働いていたという話を、
常連の誰かがしていたことがある。
多くを語る人ではない。
けれど、カウンター越しに客を見つめる目はやさしい。
この店には、
いつの間にか決まった席に座る客が何人かいる。
六席あるカウンターの、
一番奥。
そこに座る男がいる。
園田博美。
四十三歳。
日本総合地所という不動産会社で、
経理課長をしている。
真面目で、落ち着いていて、
仕事はきちんとこなす人だ。
普通のことは、普通にできる。
ただ、恋愛だけは少し不器用だった。
グラスの中で氷が鳴る。
カラン。
園田は、いつも同じ酒を頼む。
ジャックダニエル。
ロック。
そして、その席から一つ空けた場所に、
よく座る女性がいる。
藤田美奈子。
三十九歳。
六本木にある広告代理店、
東都クリエイティブ株式会社に勤めている。
スレンダーで、
ショートヘアがよく似合う女性だ。
少しきりっとした目元をしているけれど、
笑うとやわらかい表情になる。
美奈子は、いつもワインを飲む。
銘柄は決めていない。
マスターがその日の空気を見て、
静かにグラスを差し出す。
美奈子は一口だけワインを口に含み、
小さく息を吐くように言う。
「……おいしい」
それが、彼女の癖だった。
園田と美奈子の間には、
いつも空席が一つある。
二人は、ときどき言葉を交わす。
挨拶をしたり、
何気ない会話をしたり。
常連同士として、
ごく自然なやり取りだ。
それ以上でも、
それ以下でもない。
ただ同じ空間にいるだけ。
同じ音楽を聞いて、
同じ空気を感じて、
同じ時間を過ごす。
それだけの関係。
けれど人は、ときどき気づいてしまう。
ある日ふと、
「この人がいないと、少し寂しい」
そう思ってしまう瞬間がある。
それが恋なのかどうか、
そのときはまだ分からない。
ただ、人生の中には
ほんの短い時間でも、
出会えたことを
心からよかったと思える人がいる。
この物語は、
そんな二人が出会った
小さな夜の記憶。
そしていつか、
二人は同じ言葉を
心の中でつぶやくことになる。
あなたに、会えてよかった。