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灰色の海で

ー/ー



 灰色の海が、すべてを飲み込む前に一度だけ、優しくため息をついた。


僕は岸辺に立ち、砂に沈む靴を見下ろしていた。潮の匂いが鼻をつき、冬の空気が頬を冷やす。

振り返ると、妹の沙織が傘を差し出していた。小雨が、いつのまにか降り始めている。


葬儀の日、沙織は一滴も涙をこぼさなかった。親戚に囲まれ、気丈に頭を下げ、最後まで母の娘でいようとしていた。


僕も同じだった。喪主として立ち続け、泣くことを後回しにした。

その「後回し」が、三週間も続いている。

「覚えてる? 小さいころ、ここで、きれいな貝を拾ったよね」
沙織が言う。

波打ち際で、母が笑いながら僕らを呼んでいた光景がよみがえる。

「もっと白いのを探しなさい」
そう言って、母は僕らの手のひらを覗き込んだ。

波が寄せて、靴の先を濡らす。

沙織の肩が、小さく震えた。

「お母さん、寒いの嫌いだったよね」



答えようとして、声が出なかった。

次の瞬間、沙織が顔を伏せる。
傘の内側に、嗚咽がこもる。
それは堰を切ったような泣き方ではなかった。


声を押し殺しながら、静かに、長く、続く涙だった。
僕の視界も滲む。
気づけば、同じように肩が震えていた。



葬儀の場で凍らせたものが、ゆっくり溶け出していく。

灰色の海は、何も言わない。
ただ、一定のリズムで波を返す。
小雨と涙が混ざり、頬を伝う。



沙織は僕の袖を掴んだまま、泣き続ける。
僕も、その手を握る。


しばらくして、涙は自然に止まった。
悲しみが消えたわけではない。ただ、胸の奥に押し込めていた重さが、少しだけ形を変えた気がした。



灰色の海は、変わらず揺れている。
それでも、さっきより少しだけ、遠くまで見える。



僕らは並んで立ったまま、もう一度だけ波の音を聞いた。

母の声はどこにもない。

けれど、拾いきれなかったきれいな貝のように、思い出はまだ足元に残っている。


波はそれを、さらわなかった。









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 灰色の海が、すべてを飲み込む前に一度だけ、優しくため息をついた。
僕は岸辺に立ち、砂に沈む靴を見下ろしていた。潮の匂いが鼻をつき、冬の空気が頬を冷やす。
振り返ると、妹の沙織が傘を差し出していた。小雨が、いつのまにか降り始めている。
葬儀の日、沙織は一滴も涙をこぼさなかった。親戚に囲まれ、気丈に頭を下げ、最後まで母の娘でいようとしていた。
僕も同じだった。喪主として立ち続け、泣くことを後回しにした。
その「後回し」が、三週間も続いている。
「覚えてる? 小さいころ、ここで、きれいな貝を拾ったよね」
沙織が言う。
波打ち際で、母が笑いながら僕らを呼んでいた光景がよみがえる。
「もっと白いのを探しなさい」
そう言って、母は僕らの手のひらを覗き込んだ。
波が寄せて、靴の先を濡らす。
沙織の肩が、小さく震えた。
「お母さん、寒いの嫌いだったよね」
答えようとして、声が出なかった。
次の瞬間、沙織が顔を伏せる。
傘の内側に、嗚咽がこもる。
それは堰を切ったような泣き方ではなかった。
声を押し殺しながら、静かに、長く、続く涙だった。
僕の視界も滲む。
気づけば、同じように肩が震えていた。
葬儀の場で凍らせたものが、ゆっくり溶け出していく。
灰色の海は、何も言わない。
ただ、一定のリズムで波を返す。
小雨と涙が混ざり、頬を伝う。
沙織は僕の袖を掴んだまま、泣き続ける。
僕も、その手を握る。
しばらくして、涙は自然に止まった。
悲しみが消えたわけではない。ただ、胸の奥に押し込めていた重さが、少しだけ形を変えた気がした。
灰色の海は、変わらず揺れている。
それでも、さっきより少しだけ、遠くまで見える。
僕らは並んで立ったまま、もう一度だけ波の音を聞いた。
母の声はどこにもない。
けれど、拾いきれなかったきれいな貝のように、思い出はまだ足元に残っている。
波はそれを、さらわなかった。