2(終)

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 勢いよく角を曲がろうとしたところで、花瓶を持った侍女と衝突する。花瓶の中には当然美しく咲いた花と水が入っていて、マーガレットとぶつかった衝撃で飛び出してくるのが見えた。自身がびしょ濡れになるのを瞬時に覚悟したマーガレットはぎゅっと目をつむった。が、来るはずの感覚はどれだけ待っても一向に来ない。

 まさかと思って顔を上げると、バーナードが目の前に立ちはだかっていた。半身で花瓶の中身を受けたせいか、左肩と顔の半分に思いきり水を被ってしまっている。

「あ……」
「やだっ、ごめんなさいバーナードさん!」

 マーガレットが言うより先に花瓶を持ったまま青ざめた侍女が叫んだ。

「いえ、たいしたことでは…… それより――」

 バーナードはくるりと体勢を変えてマーガレットを見た。マーガレットははっとして、咄嗟に身をひるがえした。後ろから制止の声が飛んでくるが、かまわず突き進んだ。今のはもう、完全に周りを見ずに全速力で走っていたマーガレットが悪い。誰が見ても明白だ。そう思ったら、つい逃げ出してしまっていた。

 なんなのだろう、これは。
 べつにバーナードに怒られるのが嫌なわけではない。ただ、バーナードがほかの、自分以外の人間の味方をするのを見たくないだけ。
 ―― これじゃ本当に子どもみたいだ。
 さっき侍女たちが話していたことは本当なのだろうか? もうすぐ、近いうちにこの屋敷を出て、マーガレットの知らない誰かと結婚してしまうのだろうか?

 そんな話は聞いていない。もしその話が本当なら、一番初めに主人であるマーガレットに報告するのが道理のはずだ。なにも言わずに行ってしまうなんて、そんなことあるわけがない。と、自分を納得させかけて、でも、とひとつの予感が走る。

 真面目で堅物なバーナードのことである。まだたったの十四歳の、バーナードから見ればずっと子どもの自分に、バーナードがいないとなにもできない子どもにそんなことを言うのは気が引けているという可能性もある。
 だって自分でもそう思う。
 もしかすると、いつまで経っても子どもの自分に呆れてすらいるのかもしれない。そんな主人にほとほと愛想が尽きて、だから、あんなことを……。

「お嬢様」

 いつの間にか戻ってきていた部屋の前に立ち止まって考え込んでいると、突然扉に大きな影ができた。聞き慣れた声に振り返れば、やはりそこには幼い頃からそばにいる従者の姿がある。

「執務室までお戻りください。処理していただかなければならない書類がまだ――」
「バーナード」

 ついさっき濡れてしまったためか上着を脱いで、短い髪はかきあげた名残りがあるがほぼ乾いてしまっている。

「おまえ、わたくしに言わなければいけないことがあるのではないの」
「え?」
「わたくしにまだ、言っていないことがあるのではないの?」

 睨みつけるようにしながら言うと、たちまちバーナードは蒼褪めた。その反応で、もうすっかりわかってしまった。侍女たちの話の真偽も、バーナード自身の気持ちも。

「―― ちょっ…… と…… 待ってください。お嬢様。申し上げていないことというのは、つまり、その」
「おまえは!」

 わかったとて、それは到底大人しく理解して頷けるようなものではなかった。理屈ではわかっても、たった今、バーナードの反応を見た瞬間熱を持ってしまった心は、マーガレットにはどうしようもなかった。

「おまえはわたくしのものでしょう? お父様がいた頃ならいざ知らず―― おまえはわたくしのものになったのよ! それなのに――」
「お待ちください。お嬢様、私の話を……」
「そのお嬢様というのはやめて!」

 バーナードの反論するような声にマーガレットは金切り声で叫んだ。

「もうお嬢様じゃないわ、わたくしは領主なのよ! おまえのたったひとりの主人なのよ! お父様が亡くなってからおまえはわたくしのものになったのよ! そうでしょう?」

 主人に詰め寄られて、バーナードは怯み、そしてなにか言いたげに口を開き、諦めたように閉じ、そしてまた開く。それを何度か繰り返したあと、

「…… お嬢様、それは違います」

と、小さな声で口にした。

「私は――」

 それ以上は聞きたくなかった。バーナードの返答を聞いた瞬間、マーガレットは部屋に飛び込んだ。中から鍵をかけてしまえば、バーナードが入りたくとも入れない。

「おじょうさ……」
「もう聞きたくないわ」
「聞いてください」
「聞きたくないって言っているのよ! もう、どこかへ行って!」

 マーガレットがもう一度叫ぶと、扉の向こうから呆れたようなため息が聞こえてくる。足音がどんどん遠ざかっていっていなくなったのがわかると、マーガレットは寝台の上にどさりと腰を下ろした。
 勢いあまって言ってしまった。あんなこと、聞かなければよかった。知らなければ、いずれ彼がいなくなるその時まで幸せでいられたのに。

(嘘でもわたくしのものだと言ってくれればよかったのに)

 でも、それができないのがバーナードだし、そういうバーナードだからそばにいてほしいと思うのだ。
 バーナードなしで、勉強も、領主としての役目も真面目にこなせる気がしない。突然目の前が真っ暗になったみたいに、先が見えない。わからない。バーナードのいない人生など考えられない。

 ずっと昔、屋敷の庭にある池で溺れた時のことを思い出した。苦しくて、なにもわからなくて必死に動かしていた手をバーナードが引いてくれたのだった。底の見えない、足もつかない、深い深い池から、いともあっさりと助けてくれた。

 バーナードはもう、そばにいてくれない。
 彼には彼の人生があって、たまたま、父に出会って、その娘の世話を命じられて、成り行きで仕えていただけなのだ。仕えていた当人が亡くなった今、彼はもう自由だ。父が亡くなってしばらく経つが、これまでいてくれただけでも感謝しないといけないのかもしれない。

 カーテンもなにもかも閉め切った暗い部屋のなかでそんなことをつらつらと考えていると、突然、部屋の窓ががたんと揺れた。鳥だろうかと腰を上げかけたその時、窓はゆっくりと向こう側から開いた。開いた窓から力強く吹きこんできた風が、カーテンを煽る。

「ば……」

 バーナード。
 外にある木を登ってきたのだろう。バーナードは窓の木枠を乗り越え、マーガレットの部屋の中に躊躇なく入った。

「―― ば、ばかじゃないの? いったいなにをして……」
「お嬢様、覚えていらっしゃいますか?」

 バーナードは、肩についた木の葉を払い落しながらこちらに歩み寄ってくる。妙に落ち着いた、ともすれば普段と変わらない態度にマーガレットは思わずあとずさった。それを見てか、バーナードはその足を止めた。

「十年前の話ですか。庭の池でお嬢様が溺れたのを、私が助けました。それはもう必死な思いで」
「…… 知らないわ。そんな昔の話」

 マーガレットは嘘をついた。バーナードは自分に嘘をついたことなど一度もないのに。彼は「そうだろうな」とでも言いたげな笑みと、同時にどこか寂しそうでもある笑みを浮かべて続けた。

「もう十四年も前のことになります。まだなにも知らない子どもだった私が、旦那様―― あなたのお父上のところへ奉公へ行くことになったのは。初めに命じられたのはまだほんの、母親の腕に抱かれているような小さな女の子の子守りでした」
「…… なんの話がしたいのよ、いったい」

 急な思い出話に、マーガレットは眉根を寄せた。そんな話をされると、明日にでも、いっそ今晩にでもバーナードがいなくなってしまいそうで不安になる。
 マーガレットの心境をわかっているのかいないのか、バーナードは真面目な顔に戻って告げた。

「私はあなたのものですよ。初めからずっと」

 欲しかった言葉のはずが、あまりにも唐突で、マーガレットはゆるゆると首を振った。

「…… うそよ。信じないわ」
「信じてくださらなくてけっこうです」

 帰ってきた言葉にマーガレットは顔を上げる。

「でも事実です。あなたが私に対して、ここから―― この屋敷から出ていけと言わない限りは、私はずっとここにいます」
「…… さっき言ったわ」
「もう一度、きちんと言ってください。おまえなどもう要らないと」

 目の前で片膝をついて言う男に、マーガレットは「ばか」とちいさく口にした。

「おまえがいなかったら、誰がわたくしの仕事の補佐や身の回りの世話をするのよ。―― ああ、もう、ばかばかしい。喉が渇いたわ、バーナード。執務室に戻るから、お茶を持ってきてちょうだい」
「―― は……」

 主人の変わり身の早さに困惑した様子の従者を、マーガレットはやや気まずげに振り返る。

「早くして」
「…… かしこまりました。すぐにお持ちいたします」

 返事をして立ち上がるバーナードを横目で見ながら、マーガレットは彼に見えないように密かに笑みを浮かべた。そして、この先も彼がそばにいてくれることに心から安堵したのだった。



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 勢いよく角を曲がろうとしたところで、花瓶を持った侍女と衝突する。花瓶の中には当然美しく咲いた花と水が入っていて、マーガレットとぶつかった衝撃で飛び出してくるのが見えた。自身がびしょ濡れになるのを瞬時に覚悟したマーガレットはぎゅっと目をつむった。が、来るはずの感覚はどれだけ待っても一向に来ない。
 まさかと思って顔を上げると、バーナードが目の前に立ちはだかっていた。半身で花瓶の中身を受けたせいか、左肩と顔の半分に思いきり水を被ってしまっている。
「あ……」
「やだっ、ごめんなさいバーナードさん!」
 マーガレットが言うより先に花瓶を持ったまま青ざめた侍女が叫んだ。
「いえ、たいしたことでは…… それより――」
 バーナードはくるりと体勢を変えてマーガレットを見た。マーガレットははっとして、咄嗟に身をひるがえした。後ろから制止の声が飛んでくるが、かまわず突き進んだ。今のはもう、完全に周りを見ずに全速力で走っていたマーガレットが悪い。誰が見ても明白だ。そう思ったら、つい逃げ出してしまっていた。
 なんなのだろう、これは。
 べつにバーナードに怒られるのが嫌なわけではない。ただ、バーナードがほかの、自分以外の人間の味方をするのを見たくないだけ。
 ―― これじゃ本当に子どもみたいだ。
 さっき侍女たちが話していたことは本当なのだろうか? もうすぐ、近いうちにこの屋敷を出て、マーガレットの知らない誰かと結婚してしまうのだろうか?
 そんな話は聞いていない。もしその話が本当なら、一番初めに主人であるマーガレットに報告するのが道理のはずだ。なにも言わずに行ってしまうなんて、そんなことあるわけがない。と、自分を納得させかけて、でも、とひとつの予感が走る。
 真面目で堅物なバーナードのことである。まだたったの十四歳の、バーナードから見ればずっと子どもの自分に、バーナードがいないとなにもできない子どもにそんなことを言うのは気が引けているという可能性もある。
 だって自分でもそう思う。
 もしかすると、いつまで経っても子どもの自分に呆れてすらいるのかもしれない。そんな主人にほとほと愛想が尽きて、だから、あんなことを……。
「お嬢様」
 いつの間にか戻ってきていた部屋の前に立ち止まって考え込んでいると、突然扉に大きな影ができた。聞き慣れた声に振り返れば、やはりそこには幼い頃からそばにいる従者の姿がある。
「執務室までお戻りください。処理していただかなければならない書類がまだ――」
「バーナード」
 ついさっき濡れてしまったためか上着を脱いで、短い髪はかきあげた名残りがあるがほぼ乾いてしまっている。
「おまえ、わたくしに言わなければいけないことがあるのではないの」
「え?」
「わたくしにまだ、言っていないことがあるのではないの?」
 睨みつけるようにしながら言うと、たちまちバーナードは蒼褪めた。その反応で、もうすっかりわかってしまった。侍女たちの話の真偽も、バーナード自身の気持ちも。
「―― ちょっ…… と…… 待ってください。お嬢様。申し上げていないことというのは、つまり、その」
「おまえは!」
 わかったとて、それは到底大人しく理解して頷けるようなものではなかった。理屈ではわかっても、たった今、バーナードの反応を見た瞬間熱を持ってしまった心は、マーガレットにはどうしようもなかった。
「おまえはわたくしのものでしょう? お父様がいた頃ならいざ知らず―― おまえはわたくしのものになったのよ! それなのに――」
「お待ちください。お嬢様、私の話を……」
「そのお嬢様というのはやめて!」
 バーナードの反論するような声にマーガレットは金切り声で叫んだ。
「もうお嬢様じゃないわ、わたくしは領主なのよ! おまえのたったひとりの主人なのよ! お父様が亡くなってからおまえはわたくしのものになったのよ! そうでしょう?」
 主人に詰め寄られて、バーナードは怯み、そしてなにか言いたげに口を開き、諦めたように閉じ、そしてまた開く。それを何度か繰り返したあと、
「…… お嬢様、それは違います」
と、小さな声で口にした。
「私は――」
 それ以上は聞きたくなかった。バーナードの返答を聞いた瞬間、マーガレットは部屋に飛び込んだ。中から鍵をかけてしまえば、バーナードが入りたくとも入れない。
「おじょうさ……」
「もう聞きたくないわ」
「聞いてください」
「聞きたくないって言っているのよ! もう、どこかへ行って!」
 マーガレットがもう一度叫ぶと、扉の向こうから呆れたようなため息が聞こえてくる。足音がどんどん遠ざかっていっていなくなったのがわかると、マーガレットは寝台の上にどさりと腰を下ろした。
 勢いあまって言ってしまった。あんなこと、聞かなければよかった。知らなければ、いずれ彼がいなくなるその時まで幸せでいられたのに。
(嘘でもわたくしのものだと言ってくれればよかったのに)
 でも、それができないのがバーナードだし、そういうバーナードだからそばにいてほしいと思うのだ。
 バーナードなしで、勉強も、領主としての役目も真面目にこなせる気がしない。突然目の前が真っ暗になったみたいに、先が見えない。わからない。バーナードのいない人生など考えられない。
 ずっと昔、屋敷の庭にある池で溺れた時のことを思い出した。苦しくて、なにもわからなくて必死に動かしていた手をバーナードが引いてくれたのだった。底の見えない、足もつかない、深い深い池から、いともあっさりと助けてくれた。
 バーナードはもう、そばにいてくれない。
 彼には彼の人生があって、たまたま、父に出会って、その娘の世話を命じられて、成り行きで仕えていただけなのだ。仕えていた当人が亡くなった今、彼はもう自由だ。父が亡くなってしばらく経つが、これまでいてくれただけでも感謝しないといけないのかもしれない。
 カーテンもなにもかも閉め切った暗い部屋のなかでそんなことをつらつらと考えていると、突然、部屋の窓ががたんと揺れた。鳥だろうかと腰を上げかけたその時、窓はゆっくりと向こう側から開いた。開いた窓から力強く吹きこんできた風が、カーテンを煽る。
「ば……」
 バーナード。
 外にある木を登ってきたのだろう。バーナードは窓の木枠を乗り越え、マーガレットの部屋の中に躊躇なく入った。
「―― ば、ばかじゃないの? いったいなにをして……」
「お嬢様、覚えていらっしゃいますか?」
 バーナードは、肩についた木の葉を払い落しながらこちらに歩み寄ってくる。妙に落ち着いた、ともすれば普段と変わらない態度にマーガレットは思わずあとずさった。それを見てか、バーナードはその足を止めた。
「十年前の話ですか。庭の池でお嬢様が溺れたのを、私が助けました。それはもう必死な思いで」
「…… 知らないわ。そんな昔の話」
 マーガレットは嘘をついた。バーナードは自分に嘘をついたことなど一度もないのに。彼は「そうだろうな」とでも言いたげな笑みと、同時にどこか寂しそうでもある笑みを浮かべて続けた。
「もう十四年も前のことになります。まだなにも知らない子どもだった私が、旦那様―― あなたのお父上のところへ奉公へ行くことになったのは。初めに命じられたのはまだほんの、母親の腕に抱かれているような小さな女の子の子守りでした」
「…… なんの話がしたいのよ、いったい」
 急な思い出話に、マーガレットは眉根を寄せた。そんな話をされると、明日にでも、いっそ今晩にでもバーナードがいなくなってしまいそうで不安になる。
 マーガレットの心境をわかっているのかいないのか、バーナードは真面目な顔に戻って告げた。
「私はあなたのものですよ。初めからずっと」
 欲しかった言葉のはずが、あまりにも唐突で、マーガレットはゆるゆると首を振った。
「…… うそよ。信じないわ」
「信じてくださらなくてけっこうです」
 帰ってきた言葉にマーガレットは顔を上げる。
「でも事実です。あなたが私に対して、ここから―― この屋敷から出ていけと言わない限りは、私はずっとここにいます」
「…… さっき言ったわ」
「もう一度、きちんと言ってください。おまえなどもう要らないと」
 目の前で片膝をついて言う男に、マーガレットは「ばか」とちいさく口にした。
「おまえがいなかったら、誰がわたくしの仕事の補佐や身の回りの世話をするのよ。―― ああ、もう、ばかばかしい。喉が渇いたわ、バーナード。執務室に戻るから、お茶を持ってきてちょうだい」
「―― は……」
 主人の変わり身の早さに困惑した様子の従者を、マーガレットはやや気まずげに振り返る。
「早くして」
「…… かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
 返事をして立ち上がるバーナードを横目で見ながら、マーガレットは彼に見えないように密かに笑みを浮かべた。そして、この先も彼がそばにいてくれることに心から安堵したのだった。