第30話_白兎亭の日常
ー/ーあの日から、数日後――。
白兎亭は、相変わらず喧騒に包まれていた。
夕方とも夜ともつかない時間帯、店内は満席。
湯気、笑い声、グラスの触れ合う音が、混ざり合って空気を揺らしている。
燈は、その隙間を縫うように走り回っていた。
「お嬢ちゃん!ビール4つ追加で!!」
「こっちはラーメンおかわり!」
「えだまめ〜〜」
注文が、まるで雪崩のように続々と押し寄せる。
「は、はい!」
返事は出る。
けれど、声は少し裏返り、呼吸も浅い。
トレイを抱え、身体をひねり、ぶつからないように客の背後をすり抜ける。
(だ、大丈夫……落ち着け……)
自分に言い聞かせながら、厨房へ駆け込む。
「……あれ?」
皿を流し台に置いた瞬間――
頭の中が、すっと空白になった。
(え……っと……ビールは覚えてる……あと、ラーメン……)
視線が宙を彷徨う。
どの卓だったか。
何人前だったか。
「……えと……」
声が小さく、情けなく漏れる。
一瞬、周囲の音が遠のいたように感じた。
そのとき――
「あいよー!ラーメン1、ナマ中4、えだまめ1!」
イナバの声が厨房から飛んできた。
燈は、はっと顔を上げる。
「……あ、うん!」
どうやら客席側からイナバが注文を拾ってくれていたらしい。
すでに手は動いていて、麺を掴み、湯切りし、具材を整え始めている。
(助かった……)
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけほどける。
「ご、ごめんね……!」
「はいはい気にしない~~!」
明るい声が返ってくる。
燈は自分の頬をぱんぱんと軽く叩き、気合を入れ直す。
(何やってるの私……集中しなきゃ……)
そして、再びホールへと走り出した。
やがて、店じまいへ。
椅子が片付けられ、喧騒が嘘のように引いていく。
静けさの中に、まだ微かにスープの匂いが残っていた。
「いや~今日は助かったよ!!すっごい助かった~~!」
イナバの声は心底楽しそうだった。
燈はほっと息を吐き、壁に背中を預ける。
「うん……でも、まだまだだね……オーダーもちゃんと覚えられなかったし……」
視線が床に落ちる。
「ほら~~そうやってすぐマイナスに考えないの!!まだ二日目だろ~~!」
そう言いながら、イナバは燈の頬をむにっと揉みしだく。
「ふ……ふぁい」
間の抜けた声が出て、思わず二人で笑ってしまう。
「あんなに客が来たのも久々だし、楽しかったなぁ。また明日も頼むよ~~」
そう言い残し、イナバは鼻歌まじりに厨房の後片付けを始めた。
燈はその背を見つめながら、ふと視線を落とす。
(つきちゃん、まだ仕事してるのかな……)
管理人の姿が脳裏に浮かぶ。
自分が眠っている間も、静かな部屋に響いていたペンの走る音。
(今の私よりも、もっと……ずっと、大変なはずなのに、私は……)
あの日、逃げてしまった自分。
助けになりたいと言ったくせに、何もできなかった自分。
胸の奥が、じわりと重くなる。
(ちゃんと、謝らないと……)
そう決意すると、隅に置いてあった袋を手に取る。
中には、ピンク色のクッション。
少し派手すぎる気もするけれど――
選んだときの気持ちは、本物だった。
「ちょっと、外の空気吸ってくるね」
厨房から、気の抜けた返事が返ってくる。
「ほーい、あんま遠く行っちゃだめだぞ~~」
引き戸をガラッと開ける。
夜の冥府の空気が、頬を撫でた。
少し冷たくて、少しだけ優しい。
燈は一度、深く息を吸い――
再び、「つきのみや駅」へと足を向けるのだった。
白兎亭は、相変わらず喧騒に包まれていた。
夕方とも夜ともつかない時間帯、店内は満席。
湯気、笑い声、グラスの触れ合う音が、混ざり合って空気を揺らしている。
燈は、その隙間を縫うように走り回っていた。
「お嬢ちゃん!ビール4つ追加で!!」
「こっちはラーメンおかわり!」
「えだまめ〜〜」
注文が、まるで雪崩のように続々と押し寄せる。
「は、はい!」
返事は出る。
けれど、声は少し裏返り、呼吸も浅い。
トレイを抱え、身体をひねり、ぶつからないように客の背後をすり抜ける。
(だ、大丈夫……落ち着け……)
自分に言い聞かせながら、厨房へ駆け込む。
「……あれ?」
皿を流し台に置いた瞬間――
頭の中が、すっと空白になった。
(え……っと……ビールは覚えてる……あと、ラーメン……)
視線が宙を彷徨う。
どの卓だったか。
何人前だったか。
「……えと……」
声が小さく、情けなく漏れる。
一瞬、周囲の音が遠のいたように感じた。
そのとき――
「あいよー!ラーメン1、ナマ中4、えだまめ1!」
イナバの声が厨房から飛んできた。
燈は、はっと顔を上げる。
「……あ、うん!」
どうやら客席側からイナバが注文を拾ってくれていたらしい。
すでに手は動いていて、麺を掴み、湯切りし、具材を整え始めている。
(助かった……)
胸の奥に溜まっていた緊張が、少しだけほどける。
「ご、ごめんね……!」
「はいはい気にしない~~!」
明るい声が返ってくる。
燈は自分の頬をぱんぱんと軽く叩き、気合を入れ直す。
(何やってるの私……集中しなきゃ……)
そして、再びホールへと走り出した。
やがて、店じまいへ。
椅子が片付けられ、喧騒が嘘のように引いていく。
静けさの中に、まだ微かにスープの匂いが残っていた。
「いや~今日は助かったよ!!すっごい助かった~~!」
イナバの声は心底楽しそうだった。
燈はほっと息を吐き、壁に背中を預ける。
「うん……でも、まだまだだね……オーダーもちゃんと覚えられなかったし……」
視線が床に落ちる。
「ほら~~そうやってすぐマイナスに考えないの!!まだ二日目だろ~~!」
そう言いながら、イナバは燈の頬をむにっと揉みしだく。
「ふ……ふぁい」
間の抜けた声が出て、思わず二人で笑ってしまう。
「あんなに客が来たのも久々だし、楽しかったなぁ。また明日も頼むよ~~」
そう言い残し、イナバは鼻歌まじりに厨房の後片付けを始めた。
燈はその背を見つめながら、ふと視線を落とす。
(つきちゃん、まだ仕事してるのかな……)
管理人の姿が脳裏に浮かぶ。
自分が眠っている間も、静かな部屋に響いていたペンの走る音。
(今の私よりも、もっと……ずっと、大変なはずなのに、私は……)
あの日、逃げてしまった自分。
助けになりたいと言ったくせに、何もできなかった自分。
胸の奥が、じわりと重くなる。
(ちゃんと、謝らないと……)
そう決意すると、隅に置いてあった袋を手に取る。
中には、ピンク色のクッション。
少し派手すぎる気もするけれど――
選んだときの気持ちは、本物だった。
「ちょっと、外の空気吸ってくるね」
厨房から、気の抜けた返事が返ってくる。
「ほーい、あんま遠く行っちゃだめだぞ~~」
引き戸をガラッと開ける。
夜の冥府の空気が、頬を撫でた。
少し冷たくて、少しだけ優しい。
燈は一度、深く息を吸い――
再び、「つきのみや駅」へと足を向けるのだった。
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