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三話:少女の翳り

ー/ー



 放課後の教室には、まだ生徒たちの熱が残っていた。

 慌ただしく机を引きずる音、弾けるような笑い声——それらが入り混じって、ひとつの騒がしい午後をつくっている。黒板には授業の終わりに書かれた数式が消し忘れたまま残り、西日を浴びてチョークの粉ごとぼんやり白く光っていた。

「なぁなぁ……! 今日本当に行くんだってよ……!」

 隣の席から、潜めているつもりらしいのに妙な熱を帯びた声が飛んでくる。

「え? どこに行くって?」

「ほら、奏多が言ってただろ? あそこだよ、あ・そ・こ!」

「ん~……?」

「——桜織旧病院。夜中に配信するんだってさ」

「あー!! まじか!? あそこ、ガチでヤバいって噂じゃん……!」

「まじまじ! 今日の深夜、リアルタイムでやるって言ってたぜ!」

「うわぁ……アイツら正気かよ。あそこ、入った奴が二度と出てこなかったとか、夜な夜な女の泣き声が聞こえるとか……そういう話しか聞かねぇぞ……!」

「だよな……俺なら絶対行きたくねぇよ……!」

 ——配信?

 教室の隅で交わされるやりとりが、断片的に耳へ届く。悠斗は横目でちらりとそちらを見やったが、特に興味を引かれることもなく、静かにバッグのチャックを閉じた。

「おっす、悠斗! 放課後、暇だったりしないか?」

 不意に、屈託のない声が降ってくる。顔を上げると、隣のクラスの幼馴染——不動翔太が、人懐っこい笑顔でこちらを覗き込んでいた。

 空手部の次期主将と目される実力者であり、困った人間を放っておけないお人好し。そして、悠斗の秘密を知る数少ない友人でもある。

「ごめん。今日は母さんの見舞いに行く日なんだ」

「あ、そうか……」

 翔太の表情がわずかに曇る。

「おふくろさん……早く目が覚めるといいな」

「うん。ありがとう。——ところで、翔太は何か用事があったの?」

 翔太はふっと視線を逸らした。口ごもるような間があり、それだけで悠斗には嫌な予感が走る。

「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ——俺、今夜、桜織旧病院に行くことになったんだ」

「……えっ?」

 胃の底が、すとんと冷えた。

「あの、旧病院に……?」

 桜織旧病院。戦後間もない頃に建てられた、かつてこの一帯で最大の総合病院だった建物だ。五十年以上前に閉鎖されて以来、桜織市内でも有数の——そして最も質の悪い心霊スポットとして、その名を知らぬ者はいない。

 鬱蒼とした林の奥に打ち捨てられた白い骸。興味本位で足を踏み入れた者の多くが、青白い顔で同じ言葉を口にするという。あそこは異界そのものだった、二度と近づきたくない——と。

「翔太、そこは遊びで行っちゃダメなところだよ。まさか僕を誘おうとしてるの?」

「いや、そうじゃなくてさ。肝試し企画のボディガードみたいなの頼まれちまって。今月ちょっと欲しいモンがあって、金になるならって、つい引き受けちまったんだよ」

 さっきの配信云々の話は、これか——悠斗は漏れそうになった溜息を、喉の奥で押し殺した。

「ボディガードって……翔太なら不審者には勝てるだろうけど、一体何から守るつもりなのさ。ああいう場所にいるのは大抵、人じゃないよ?」

「うっ……鋭い指摘だな……」

 翔太が気まずそうに後頭部を掻く。けれどその目には、もう引き下がれないという意地のような光が宿っていた。

「はぁ……」

 悠斗は観念したように息を吐いた。

「もし行くなら、念のために塩を持っていって。何かあっても一時的には凌げるはずだから。——でも、少しでもおかしいと感じたら、絶対に長居しないで。すぐにその場を離れるんだよ」

「さっすが悠斗! そういう話を聞きたくてさ! アドバイスサンキュ!!」

 翔太はにかっと笑い、手をひらひらと振りながら足早に教室を出ていった。

 その背中を見送りながら、悠斗の胸の奥で黒い煤のような予感がじわりと広がっていく。振り払おうとしても、指の隙間からにじみ出るように消えてくれない。

 ——本当に、大丈夫だろうか。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 校門を抜けると、空はすっかり茜に染まっていた。

 西の空が燃えるように赤い。けれどその赤さの奥に、もう夜の気配がうっすらと滲んでいる。

 悠斗は翔太との会話が残した胸のざわつきを振り払うように、ふたたび桜翁のもとへと足を向けた。

 境内に踏み入ると、根元に見覚えのある後ろ姿があった。丁寧に結われた茶色のポニーテールが夕風にさらさらと揺れている。その輪郭だけで、誰かはすぐに分かった。

「やぁ、月瀬さん」

 美琴がゆっくりと振り返る。

「……先輩。またお会いしましたね」

 やわらかな微笑みを浮かべると、美琴は自然に悠斗の隣へ並んだ。二人で、夕空に映える桜翁を見上げる。

「もうすぐ、この桜翁も散ってしまうね」

「そうですね……寂しいです」

 美琴が慈しむように目を細めた。その横顔に、悠斗は言葉を継ぐ。

「でもまたきっと来年も、見事な桜を咲かせてくれると思う」

「そう……ですね。この別れがあるからこそ、桜はこんなにも美しいのだと思います」

 悠斗は思わず顔を上げ、彼女の横顔を見つめた。

 幾度もの出会いと別れを、すでに幾重にも重ねてきた者の声だった。少女の年齢にはそぐわない、静かな諦観のようなものがその瞳の奥に揺れている。

彼女の口から出た言葉は、十五、六の少女が選ぶにはあまりにも静かだった。悠斗は思わず目を見開く。

「……すごく、大人びたことを言うんだね」

「ふふっ、そうでしょうか?」

「うん。少しびっくりした」

 二人は、どちらからともなく笑い合った。桜翁の枝が風に揺れ、花びらがはらはらとその間を抜けていく。

「先輩は、この桜翁へよく足を運ばれるのですか? この間、初めてお会いしたときも、ここでしたから」

「……変かもしれないけど」

 一瞬、躊躇が喉元をかすめた。けれど不思議なことに、美琴の前では言葉が自然と口をついて出てしまう。

「なんだか、この桜翁に呼ばれてるような気がするんだ」

 言ってから、悠斗は内心で凍りついた。樹に呼ばれている——そんなことを口にすれば、誰だって引くに決まっている。

 なぜ美琴の前だと、こんなことまで——理解が追いつかないまま、気まずさだけが先に立った。意味もなく視線を逸らす。

「呼ばれている……ですか」

 美琴の声には、驚きの色がなかった。

「へ、変だよね! 忘れて!」

 慌てて取り繕おうとする悠斗を、美琴は少しいたずらっぽく瞳を輝かせて見つめ、静かに首を横に振った。

「ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ。きっと、この桜翁には誰かの強い想いが込められているのかもしれませんね」

 その穏やかな微笑みに、張り詰めていたものがすっとほどけた。悠斗は小さく息をつく。

 それきり、二人は言葉を交わさなかった。散りゆく花びらが薄紅のしずくとなって降り注ぐなか、ただ同じ空を見上げている。静かで、穏やかで——どこか懐かしい時間だった。

「では、先輩。私はそろそろこれで失礼しますね」

 美琴が軽く手を振る。悠斗も自然にそれへ応えた。

「うん、またね」

 もう一度丁寧に頭を下げると、彼女は夕焼けに染まった小道を静かに歩き去っていく。その背中が茜の光に溶けるように薄れ、やがて見えなくなった。

「……本当に、不思議な子だな」

 呟きが、誰にも届かないまま風にさらわれていく。美琴といると心が安らぐのに、同時にどこか切ない。その感覚は——桜翁に呼ばれるあの感覚に、少しだけ似ている気がした。


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 放課後の教室には、まだ生徒たちの熱が残っていた。
 慌ただしく机を引きずる音、弾けるような笑い声——それらが入り混じって、ひとつの騒がしい午後をつくっている。黒板には授業の終わりに書かれた数式が消し忘れたまま残り、西日を浴びてチョークの粉ごとぼんやり白く光っていた。
「なぁなぁ……! 今日本当に行くんだってよ……!」
 隣の席から、潜めているつもりらしいのに妙な熱を帯びた声が飛んでくる。
「え? どこに行くって?」
「ほら、奏多が言ってただろ? あそこだよ、あ・そ・こ!」
「ん~……?」
「——桜織旧病院。夜中に配信するんだってさ」
「あー!! まじか!? あそこ、ガチでヤバいって噂じゃん……!」
「まじまじ! 今日の深夜、リアルタイムでやるって言ってたぜ!」
「うわぁ……アイツら正気かよ。あそこ、入った奴が二度と出てこなかったとか、夜な夜な女の泣き声が聞こえるとか……そういう話しか聞かねぇぞ……!」
「だよな……俺なら絶対行きたくねぇよ……!」
 ——配信?
 教室の隅で交わされるやりとりが、断片的に耳へ届く。悠斗は横目でちらりとそちらを見やったが、特に興味を引かれることもなく、静かにバッグのチャックを閉じた。
「おっす、悠斗! 放課後、暇だったりしないか?」
 不意に、屈託のない声が降ってくる。顔を上げると、隣のクラスの幼馴染——不動翔太が、人懐っこい笑顔でこちらを覗き込んでいた。
 空手部の次期主将と目される実力者であり、困った人間を放っておけないお人好し。そして、悠斗の秘密を知る数少ない友人でもある。
「ごめん。今日は母さんの見舞いに行く日なんだ」
「あ、そうか……」
 翔太の表情がわずかに曇る。
「おふくろさん……早く目が覚めるといいな」
「うん。ありがとう。——ところで、翔太は何か用事があったの?」
 翔太はふっと視線を逸らした。口ごもるような間があり、それだけで悠斗には嫌な予感が走る。
「それがさ、ちょっと言いづらいんだけどよ——俺、今夜、桜織旧病院に行くことになったんだ」
「……えっ?」
 胃の底が、すとんと冷えた。
「あの、旧病院に……?」
 桜織旧病院。戦後間もない頃に建てられた、かつてこの一帯で最大の総合病院だった建物だ。五十年以上前に閉鎖されて以来、桜織市内でも有数の——そして最も質の悪い心霊スポットとして、その名を知らぬ者はいない。
 鬱蒼とした林の奥に打ち捨てられた白い骸。興味本位で足を踏み入れた者の多くが、青白い顔で同じ言葉を口にするという。あそこは異界そのものだった、二度と近づきたくない——と。
「翔太、そこは遊びで行っちゃダメなところだよ。まさか僕を誘おうとしてるの?」
「いや、そうじゃなくてさ。肝試し企画のボディガードみたいなの頼まれちまって。今月ちょっと欲しいモンがあって、金になるならって、つい引き受けちまったんだよ」
 さっきの配信云々の話は、これか——悠斗は漏れそうになった溜息を、喉の奥で押し殺した。
「ボディガードって……翔太なら不審者には勝てるだろうけど、一体何から守るつもりなのさ。ああいう場所にいるのは大抵、人じゃないよ?」
「うっ……鋭い指摘だな……」
 翔太が気まずそうに後頭部を掻く。けれどその目には、もう引き下がれないという意地のような光が宿っていた。
「はぁ……」
 悠斗は観念したように息を吐いた。
「もし行くなら、念のために塩を持っていって。何かあっても一時的には凌げるはずだから。——でも、少しでもおかしいと感じたら、絶対に長居しないで。すぐにその場を離れるんだよ」
「さっすが悠斗! そういう話を聞きたくてさ! アドバイスサンキュ!!」
 翔太はにかっと笑い、手をひらひらと振りながら足早に教室を出ていった。
 その背中を見送りながら、悠斗の胸の奥で黒い煤のような予感がじわりと広がっていく。振り払おうとしても、指の隙間からにじみ出るように消えてくれない。
 ——本当に、大丈夫だろうか。
 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸
 校門を抜けると、空はすっかり茜に染まっていた。
 西の空が燃えるように赤い。けれどその赤さの奥に、もう夜の気配がうっすらと滲んでいる。
 悠斗は翔太との会話が残した胸のざわつきを振り払うように、ふたたび桜翁のもとへと足を向けた。
 境内に踏み入ると、根元に見覚えのある後ろ姿があった。丁寧に結われた茶色のポニーテールが夕風にさらさらと揺れている。その輪郭だけで、誰かはすぐに分かった。
「やぁ、月瀬さん」
 美琴がゆっくりと振り返る。
「……先輩。またお会いしましたね」
 やわらかな微笑みを浮かべると、美琴は自然に悠斗の隣へ並んだ。二人で、夕空に映える桜翁を見上げる。
「もうすぐ、この桜翁も散ってしまうね」
「そうですね……寂しいです」
 美琴が慈しむように目を細めた。その横顔に、悠斗は言葉を継ぐ。
「でもまたきっと来年も、見事な桜を咲かせてくれると思う」
「そう……ですね。この別れがあるからこそ、桜はこんなにも美しいのだと思います」
 悠斗は思わず顔を上げ、彼女の横顔を見つめた。
 幾度もの出会いと別れを、すでに幾重にも重ねてきた者の声だった。少女の年齢にはそぐわない、静かな諦観のようなものがその瞳の奥に揺れている。
彼女の口から出た言葉は、十五、六の少女が選ぶにはあまりにも静かだった。悠斗は思わず目を見開く。
「……すごく、大人びたことを言うんだね」
「ふふっ、そうでしょうか?」
「うん。少しびっくりした」
 二人は、どちらからともなく笑い合った。桜翁の枝が風に揺れ、花びらがはらはらとその間を抜けていく。
「先輩は、この桜翁へよく足を運ばれるのですか? この間、初めてお会いしたときも、ここでしたから」
「……変かもしれないけど」
 一瞬、躊躇が喉元をかすめた。けれど不思議なことに、美琴の前では言葉が自然と口をついて出てしまう。
「なんだか、この桜翁に呼ばれてるような気がするんだ」
 言ってから、悠斗は内心で凍りついた。樹に呼ばれている——そんなことを口にすれば、誰だって引くに決まっている。
 なぜ美琴の前だと、こんなことまで——理解が追いつかないまま、気まずさだけが先に立った。意味もなく視線を逸らす。
「呼ばれている……ですか」
 美琴の声には、驚きの色がなかった。
「へ、変だよね! 忘れて!」
 慌てて取り繕おうとする悠斗を、美琴は少しいたずらっぽく瞳を輝かせて見つめ、静かに首を横に振った。
「ふふっ。いえ、変だなんて思いませんよ。きっと、この桜翁には誰かの強い想いが込められているのかもしれませんね」
 その穏やかな微笑みに、張り詰めていたものがすっとほどけた。悠斗は小さく息をつく。
 それきり、二人は言葉を交わさなかった。散りゆく花びらが薄紅のしずくとなって降り注ぐなか、ただ同じ空を見上げている。静かで、穏やかで——どこか懐かしい時間だった。
「では、先輩。私はそろそろこれで失礼しますね」
 美琴が軽く手を振る。悠斗も自然にそれへ応えた。
「うん、またね」
 もう一度丁寧に頭を下げると、彼女は夕焼けに染まった小道を静かに歩き去っていく。その背中が茜の光に溶けるように薄れ、やがて見えなくなった。
「……本当に、不思議な子だな」
 呟きが、誰にも届かないまま風にさらわれていく。美琴といると心が安らぐのに、同時にどこか切ない。その感覚は——桜翁に呼ばれるあの感覚に、少しだけ似ている気がした。