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二話:桜翁の下で

ー/ー



 どれくらいそうしていたのか、分からない。

 ふと、少女が振り返った。

「……あの。私に、なにかご用でしょうか?」

 硝子の縁を指先で弾いたような声だった。澄んでいて、けれど芯がある。春風の隙間を縫うようにして、まっすぐに届いた。

 悠斗は我に返った。見つめていた、という自覚が一拍遅れてやってくる。

「——ごめん。用ってわけじゃないんだけど……」

 言ってから、自分の言葉の響きに気づいた。咄嗟に視線を逸らすと、風がちょうど頬を撫でていった。やけにあたたかい。自分の顔が熱を帯び始めていることに気づいてしまい、悠斗は話題を変えるように彼女の制服へ目を落とす。

 桜織高校のベージュのブレザー。胸元には、一年生を示すリボンが揺れていた。

「君、僕と同じ桜織高校の生徒だよね?」

「はい。今日から桜織高校の一年生になりました、月瀬美琴と申します」

 美琴はリボンに手を添え、折り目正しく頭を下げた。言葉の選び方にも、背筋の伸ばし方にも、どこか古い時代の行儀がそのまま息づいているような丁寧さがあった。悠斗はわずかに気圧される。

 ——随分、礼儀正しい一年生だな。

 けれど顔を上げた美琴の口元にはやわらかな微笑みが浮かんでいて、それだけで、境内に張り詰めていた空気がふっとほどけた。つられるように、悠斗も笑みを返す。

「僕は二年の櫻井悠斗。こちらこそよろしくね」

「ふふっ、先輩でいらっしゃいましたか」

 春の陽だまりが、そのまま声になったような笑い方だった。風が二人のあいだを吹き抜け、花びらが一枚、美琴の足元へゆっくりと降りていく。

「実は、こちらの桜がとても綺麗だと一年生のあいだで話題になっていまして。それで見に来たのですけれど……」

 美琴は桜翁を仰いだ。言葉がそこで途切れる。隣に立つ悠斗にも、彼女が息を呑んだのが分かった。

「本当に……息を呑むほど、美しいですね」

 声は夕風に溶けるようにして、枝の向こうへ消えていった。悠斗も同じ梢を見上げ、小さくうなずく。

「この桜翁は地元じゃ有名なんだ。——もしかして、この辺りは初めて?」

 半ば確信に近い問いかけだった。この土地で育った人間なら、桜翁を知らないはずがない。

「はい。遠い地方から先日引っ越してきたばかりで……まだ右も左も分からない状態なのです」

「どうりで見かけない顔だと思った」

 悠斗は桜翁の幹に目を向けた。夕日に照らされた樹皮が、長い歳月を刻んだ皺をいっそう深く浮かび上がらせている。

「この木は『桜翁』って呼ばれていて、樹齢はおよそ千年になるらしい。地元の人たちに、ずっと大切にされてきた桜なんだ」

「千年……ですか」

「うん。桜翁を見るためにわざわざ遠くから来る人もたくさんいるよ。——『桜祭り』の時期なんか、この世でもっとも美しい光景だって言われてる」

「そうなのですね」

 そう呟いた美琴の表情が、ふっと翳った。胸元に手を当て、小さく首を傾げる。

「写真に収めたいくらいですけれど……スマートフォンを忘れてきてしまったみたいで」

 名残惜しげに桜翁を見上げ直すその横顔に、悠斗は声をかけた。

「大丈夫。明日でも十分間に合うよ」

「……え?」

「この桜翁の花は、他の桜よりずっと花持ちがいいんだ。散るのも遅い。だから焦らなくていいよ」

「そうなのですか?」

 美琴の顔がぱっと明るくなった。安堵の息がひとつこぼれ、それだけで周りの空気までやわらいだように感じる。

「それなら……安心しました。明日こそ、この美しい桜の写真を撮りたいですね」

 桜翁は、他のソメイヨシノよりもずっと長く花を咲かせ続けることで知られている。過ぎゆく春との別れを惜しむように。あるいは——この地に眠る誰かの、永い永い想いを受け止め続けているかのように。

 二人は言葉を失くしたまま、同じ茜色の空を見上げていた。花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちる。風が頬をかすめるたびに、桜の匂いがほんの少し濃くなった。

 この出会いは、なにかの始まりなのかもしれない——そんな予感が胸の奥をかすめたことに、悠斗自身はまだ気づいていなかった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 やがて、美琴が静かに口を開いた。

「短い時間でしたけれど……お会いできて、本当に良かったです」

 その声の端が、わずかに揺れていた。

「うん、こちらこそ。月瀬さん……だったよね」

 悠斗はふっと笑みを浮かべた。

「学校で見かけたら、また話しかけるよ」

「ふふ、ありがとうございます。櫻井先輩……私もお見かけしましたら、ぜひお声がけさせてくださいね」

 夕日を受けた美琴の瞳が、きらりと光を弾いた。

「それでは、私はそろそろ失礼いたします」

 丁寧に頭を下げてから顔を上げた美琴は、小さく手を振った。その仕草にどこか幼さが混じっている。先ほどまでの令嬢然とした佇まいとの落差に、悠斗の口元がゆるんだ。

「気をつけてね」

 手を振り返したその先で、美琴の背中が茜色の光のなかへゆっくりと遠ざかっていく。やがてその輪郭が夕暮れに溶け切ったあとも、悠斗はしばらくそこに立っていた。振った手を、下ろすのを忘れたまま。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 ——そのとき。

 背後から、肩を掴まれたような感覚が走った。

 声ではない。音でもない。それでも身体は抗えず、悠斗は桜翁のほうへ振り返っていた。

「……まただ」

 呟きが、唇からこぼれ落ちる。

「また——桜翁に、呼ばれたような」

 時折、この感覚が訪れる。桜翁が何かを伝えようとしている——そんな気配が、確かに肌を撫でるのだ。千年の時を刻んだ古木が、長い沈黙の果てにようやく口を開こうとするかのような。

 もちろん、誰にも話せるはずがなかった。桜に呼ばれている、などと口にすれば、笑い話で済めばまだいいほうだろう。

 けれど不思議と、嫌ではなかった。

 風が桜翁の枝を揺らし、花びらがいくつか宙に散った。悠斗の肩の力が、すっと抜けていく。この木の前に立つと、いつもそうだった。理由は分からない。ただ、身体のほうが覚えている。

「……さて、僕も母さんのところへ行かなくちゃ」

 悠斗は桜翁に背を向け、母が眠る病院へと歩きはじめた。茜色の夕日が背中を照らし、長い影がアスファルトの上をゆっくりと伸びていく。花びらがひとひら、彼の肩にそっと降りた——まるで、行ってらっしゃいとでも言うように。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 春の風に 名もなき縁は解けて

 二つの影 まだ知らぬまま 交わりぬ

 大いなる災いは 静かに目を覚まし

 記されし因果、誰が断ちきるものぞ

 されど 祈りは結ばれん


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次のエピソードへ進む 三話:少女の翳り


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 どれくらいそうしていたのか、分からない。
 ふと、少女が振り返った。
「……あの。私に、なにかご用でしょうか?」
 硝子の縁を指先で弾いたような声だった。澄んでいて、けれど芯がある。春風の隙間を縫うようにして、まっすぐに届いた。
 悠斗は我に返った。見つめていた、という自覚が一拍遅れてやってくる。
「——ごめん。用ってわけじゃないんだけど……」
 言ってから、自分の言葉の響きに気づいた。咄嗟に視線を逸らすと、風がちょうど頬を撫でていった。やけにあたたかい。自分の顔が熱を帯び始めていることに気づいてしまい、悠斗は話題を変えるように彼女の制服へ目を落とす。
 桜織高校のベージュのブレザー。胸元には、一年生を示すリボンが揺れていた。
「君、僕と同じ桜織高校の生徒だよね?」
「はい。今日から桜織高校の一年生になりました、月瀬美琴と申します」
 美琴はリボンに手を添え、折り目正しく頭を下げた。言葉の選び方にも、背筋の伸ばし方にも、どこか古い時代の行儀がそのまま息づいているような丁寧さがあった。悠斗はわずかに気圧される。
 ——随分、礼儀正しい一年生だな。
 けれど顔を上げた美琴の口元にはやわらかな微笑みが浮かんでいて、それだけで、境内に張り詰めていた空気がふっとほどけた。つられるように、悠斗も笑みを返す。
「僕は二年の櫻井悠斗。こちらこそよろしくね」
「ふふっ、先輩でいらっしゃいましたか」
 春の陽だまりが、そのまま声になったような笑い方だった。風が二人のあいだを吹き抜け、花びらが一枚、美琴の足元へゆっくりと降りていく。
「実は、こちらの桜がとても綺麗だと一年生のあいだで話題になっていまして。それで見に来たのですけれど……」
 美琴は桜翁を仰いだ。言葉がそこで途切れる。隣に立つ悠斗にも、彼女が息を呑んだのが分かった。
「本当に……息を呑むほど、美しいですね」
 声は夕風に溶けるようにして、枝の向こうへ消えていった。悠斗も同じ梢を見上げ、小さくうなずく。
「この桜翁は地元じゃ有名なんだ。——もしかして、この辺りは初めて?」
 半ば確信に近い問いかけだった。この土地で育った人間なら、桜翁を知らないはずがない。
「はい。遠い地方から先日引っ越してきたばかりで……まだ右も左も分からない状態なのです」
「どうりで見かけない顔だと思った」
 悠斗は桜翁の幹に目を向けた。夕日に照らされた樹皮が、長い歳月を刻んだ皺をいっそう深く浮かび上がらせている。
「この木は『桜翁』って呼ばれていて、樹齢はおよそ千年になるらしい。地元の人たちに、ずっと大切にされてきた桜なんだ」
「千年……ですか」
「うん。桜翁を見るためにわざわざ遠くから来る人もたくさんいるよ。——『桜祭り』の時期なんか、この世でもっとも美しい光景だって言われてる」
「そうなのですね」
 そう呟いた美琴の表情が、ふっと翳った。胸元に手を当て、小さく首を傾げる。
「写真に収めたいくらいですけれど……スマートフォンを忘れてきてしまったみたいで」
 名残惜しげに桜翁を見上げ直すその横顔に、悠斗は声をかけた。
「大丈夫。明日でも十分間に合うよ」
「……え?」
「この桜翁の花は、他の桜よりずっと花持ちがいいんだ。散るのも遅い。だから焦らなくていいよ」
「そうなのですか?」
 美琴の顔がぱっと明るくなった。安堵の息がひとつこぼれ、それだけで周りの空気までやわらいだように感じる。
「それなら……安心しました。明日こそ、この美しい桜の写真を撮りたいですね」
 桜翁は、他のソメイヨシノよりもずっと長く花を咲かせ続けることで知られている。過ぎゆく春との別れを惜しむように。あるいは——この地に眠る誰かの、永い永い想いを受け止め続けているかのように。
 二人は言葉を失くしたまま、同じ茜色の空を見上げていた。花びらがひとひら、またひとひらと舞い落ちる。風が頬をかすめるたびに、桜の匂いがほんの少し濃くなった。
 この出会いは、なにかの始まりなのかもしれない——そんな予感が胸の奥をかすめたことに、悠斗自身はまだ気づいていなかった。
 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸
 やがて、美琴が静かに口を開いた。
「短い時間でしたけれど……お会いできて、本当に良かったです」
 その声の端が、わずかに揺れていた。
「うん、こちらこそ。月瀬さん……だったよね」
 悠斗はふっと笑みを浮かべた。
「学校で見かけたら、また話しかけるよ」
「ふふ、ありがとうございます。櫻井先輩……私もお見かけしましたら、ぜひお声がけさせてくださいね」
 夕日を受けた美琴の瞳が、きらりと光を弾いた。
「それでは、私はそろそろ失礼いたします」
 丁寧に頭を下げてから顔を上げた美琴は、小さく手を振った。その仕草にどこか幼さが混じっている。先ほどまでの令嬢然とした佇まいとの落差に、悠斗の口元がゆるんだ。
「気をつけてね」
 手を振り返したその先で、美琴の背中が茜色の光のなかへゆっくりと遠ざかっていく。やがてその輪郭が夕暮れに溶け切ったあとも、悠斗はしばらくそこに立っていた。振った手を、下ろすのを忘れたまま。
 。❀ 𓂃𓈒𓏸
 ——そのとき。
 背後から、肩を掴まれたような感覚が走った。
 声ではない。音でもない。それでも身体は抗えず、悠斗は桜翁のほうへ振り返っていた。
「……まただ」
 呟きが、唇からこぼれ落ちる。
「また——桜翁に、呼ばれたような」
 時折、この感覚が訪れる。桜翁が何かを伝えようとしている——そんな気配が、確かに肌を撫でるのだ。千年の時を刻んだ古木が、長い沈黙の果てにようやく口を開こうとするかのような。
 もちろん、誰にも話せるはずがなかった。桜に呼ばれている、などと口にすれば、笑い話で済めばまだいいほうだろう。
 けれど不思議と、嫌ではなかった。
 風が桜翁の枝を揺らし、花びらがいくつか宙に散った。悠斗の肩の力が、すっと抜けていく。この木の前に立つと、いつもそうだった。理由は分からない。ただ、身体のほうが覚えている。
「……さて、僕も母さんのところへ行かなくちゃ」
 悠斗は桜翁に背を向け、母が眠る病院へと歩きはじめた。茜色の夕日が背中を照らし、長い影がアスファルトの上をゆっくりと伸びていく。花びらがひとひら、彼の肩にそっと降りた——まるで、行ってらっしゃいとでも言うように。
 。❀ 𓂃𓈒𓏸
 春の風に 名もなき縁は解けて
 二つの影 まだ知らぬまま 交わりぬ
 大いなる災いは 静かに目を覚まし
 記されし因果、誰が断ちきるものぞ
 されど 祈りは結ばれん