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一話:春風が紡ぐもの

ー/ー




「私は…何のために生まれてきたんだろう」

「君にしか成し得なかったことがあるからだ」

「でもそこに、私の気持ちが入り込む隙間なんてなかったんだ」

「それでも、君が成し遂げたことは無駄ではない。払った代償は確かに大きかった。だが私は知っている。……私は、君がここにいた証明だ」


 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸


 ──ここは、風穂県の平野に佇む、古い都。桜織市。

 この街がいつから桜に覆われていたのか、正確に知る者はもういない。記録よりも古く、言い伝えよりもなお古く——桜はこの土地に在り続けてきたという。春が訪れるたび、街は淡い紅に沈む。人も、屋根も、空さえも——この季節だけは、桜の領分だった。

 街の北部、家々の屋根を見下ろす丘の上に、巨大な鳥居がそびえている。その奥で、一本の大きな桜の木が風に揺れていた。丘の上に鎮座する社は桜織神社。数百年の歴史を誇るこの社の境内に、その桜は立っている。

 桜翁(さくらおきな)——と、土地の者はそう呼ぶ。

 社が建てられるより遥か昔、この丘にはすでに一本の桜が立っていたという。名もなき神がその幹に触れ、己の命を花に移した。神は姿を失い、代わりに桜が目を覚ました——以来、千年。この古木はただの一度も、街を災いに明け渡したことがないと伝えられている。

 変わりゆく季節も、移ろう人々の営みも——この桜だけは黙って見届けてきた。千年という歳月の重みを、花弁の一枚一枚に滲ませながら。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 新学期の朝は、空気の手触りが違う。教室全体がほんの少し浮き足立ち、その落ち着かなさこそが春の正体なのかもしれなかった。

 担任の声が教壇から柔らかく広がり、自己紹介が順番に教室を流れていく。やがて悠斗の番が来た。

「櫻井悠斗です。趣味は読書と……植物を育てることです。よろしくお願いします」

 静かな声だった。主張するでもなく、縮こまるでもない。ただ過不足なく終わる。席に戻る背中を見送る者は、おそらく誰もいなかったのだろう。

 こうして、彼の二年目がまた静かに幕をあけた。

 ——放課後の校舎を出ると、傾きはじめた陽が校庭を金色に染めていた。構内の桜が枝を広げている。十分に美しい。けれど悠斗の足は止まらなかった。一度でも桜翁を目にしてしまった者には、ほかのどんな桜も物足りなくなる。あの古木には、美しさという言葉の器を軽々と溢れさせてしまう何かが宿っていた。

 足を速めたのは、自分の意思だったのか。それとも——呼ばれていたのか。幼い頃から時折感じる、あの引力。桜翁が何かを伝えようとしている気配が、今日はいつもより強く、肌の奥を引いていた。

 桜織神社へ辿り着く。鳥居をくぐり、一礼。石段を踏みしめて境内の奥へ進むと——視界が、一気にひらけた。

 眼前には、無数の花弁をまとった桜翁が立っていた。

 風はないはずだ。それなのに、古木の枝がゆるやかに揺れている。何度この場所に立っても、言葉が追いつかない。根を張るように足が止まり、ただ立ち尽くす。

 ふと——視線が、根元へ引き寄せられた。

 茶色いポニーテールを揺らす少女が一人、桜翁の足元に静かに佇んでいる。制服姿からして、おそらく同じ学校の生徒だろうということは確かだ。

 けれど見覚えのない横顔だった。幼い頃から何度もこの神社に足を運んできた。季節ごとに訪れ、時には気まぐれに、理由もなくふらりと立ち寄ることもあった。

 それなのに、彼女の姿には一度も覚えがない。

 悠斗は気づかれぬよう慎重に距離を詰め、その横顔に目を凝らした。

 ——足が、止まっていた。意識して止めたわけではない。体が勝手に、その場に根を下ろしたかのように。

 桜翁を見上げる少女の横顔が、視界のすべてを奪った。周囲の音が遠ざかり、時間の流れが薄い膜を一枚隔てたように鈍くなる。

 花弁のように繊細な輪郭。けれどその瞳だけは、まるで別の世界を見つめているようだった。

 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸 。❀ 𓂃𓈒𓏸

 これは、一人の少年と一人の少女の邂逅の記録。

 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた——宿業の物語である。


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次のエピソードへ進む 二話:桜翁の下で


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「私は…何のために生まれてきたんだろう」
「君にしか成し得なかったことがあるからだ」
「でもそこに、私の気持ちが入り込む隙間なんてなかったんだ」
「それでも、君が成し遂げたことは無駄ではない。払った代償は確かに大きかった。だが私は知っている。……私は、君がここにいた証明だ」
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 ──ここは、風穂県の平野に佇む、古い都。桜織市。
 この街がいつから桜に覆われていたのか、正確に知る者はもういない。記録よりも古く、言い伝えよりもなお古く——桜はこの土地に在り続けてきたという。春が訪れるたび、街は淡い紅に沈む。人も、屋根も、空さえも——この季節だけは、桜の領分だった。
 街の北部、家々の屋根を見下ろす丘の上に、巨大な鳥居がそびえている。その奥で、一本の大きな桜の木が風に揺れていた。丘の上に鎮座する社は桜織神社。数百年の歴史を誇るこの社の境内に、その桜は立っている。
 |桜翁《さくらおきな》——と、土地の者はそう呼ぶ。
 社が建てられるより遥か昔、この丘にはすでに一本の桜が立っていたという。名もなき神がその幹に触れ、己の命を花に移した。神は姿を失い、代わりに桜が目を覚ました——以来、千年。この古木はただの一度も、街を災いに明け渡したことがないと伝えられている。
 変わりゆく季節も、移ろう人々の営みも——この桜だけは黙って見届けてきた。千年という歳月の重みを、花弁の一枚一枚に滲ませながら。
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 新学期の朝は、空気の手触りが違う。教室全体がほんの少し浮き足立ち、その落ち着かなさこそが春の正体なのかもしれなかった。
 担任の声が教壇から柔らかく広がり、自己紹介が順番に教室を流れていく。やがて悠斗の番が来た。
「櫻井悠斗です。趣味は読書と……植物を育てることです。よろしくお願いします」
 静かな声だった。主張するでもなく、縮こまるでもない。ただ過不足なく終わる。席に戻る背中を見送る者は、おそらく誰もいなかったのだろう。
 こうして、彼の二年目がまた静かに幕をあけた。
 ——放課後の校舎を出ると、傾きはじめた陽が校庭を金色に染めていた。構内の桜が枝を広げている。十分に美しい。けれど悠斗の足は止まらなかった。一度でも桜翁を目にしてしまった者には、ほかのどんな桜も物足りなくなる。あの古木には、美しさという言葉の器を軽々と溢れさせてしまう何かが宿っていた。
 足を速めたのは、自分の意思だったのか。それとも——呼ばれていたのか。幼い頃から時折感じる、あの引力。桜翁が何かを伝えようとしている気配が、今日はいつもより強く、肌の奥を引いていた。
 桜織神社へ辿り着く。鳥居をくぐり、一礼。石段を踏みしめて境内の奥へ進むと——視界が、一気にひらけた。
 眼前には、無数の花弁をまとった桜翁が立っていた。
 風はないはずだ。それなのに、古木の枝がゆるやかに揺れている。何度この場所に立っても、言葉が追いつかない。根を張るように足が止まり、ただ立ち尽くす。
 ふと——視線が、根元へ引き寄せられた。
 茶色いポニーテールを揺らす少女が一人、桜翁の足元に静かに佇んでいる。制服姿からして、おそらく同じ学校の生徒だろうということは確かだ。
 けれど見覚えのない横顔だった。幼い頃から何度もこの神社に足を運んできた。季節ごとに訪れ、時には気まぐれに、理由もなくふらりと立ち寄ることもあった。
 それなのに、彼女の姿には一度も覚えがない。
 悠斗は気づかれぬよう慎重に距離を詰め、その横顔に目を凝らした。
 ——足が、止まっていた。意識して止めたわけではない。体が勝手に、その場に根を下ろしたかのように。
 桜翁を見上げる少女の横顔が、視界のすべてを奪った。周囲の音が遠ざかり、時間の流れが薄い膜を一枚隔てたように鈍くなる。
 花弁のように繊細な輪郭。けれどその瞳だけは、まるで別の世界を見つめているようだった。
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 これは、一人の少年と一人の少女の邂逅の記録。
 そして、千年の呪いをその血に宿し、千年の祈りをその身に受けた——宿業の物語である。