第二話

ー/ー



帝国歴101年(大陸歴669年)、焦土月・八の月、上旬

──帝都リュクシオン、白嶺宮(はくれいきゅう)皇帝執務室。
 謁見の間でも評定の間でもなく、皇帝が昼の政務の間で、戦を控えた若き将が跪いていた。

「出征の御前に……陛下に拝顔を」

 乾燥地方である帝都では、真夏でも石造りの宮殿は比較的涼しい。
 しかし夏の盛りの湿地帯ように、じっとりした空気が支配する小広間程の空間は不気味なほどに静かだった。
 執務机を撤去して置かれた寝台、その枕元に侍るのは侍医と、第一皇子アウグスト。
 重苦しい空気の原因は左右に控える廷臣達、その表情、視線。
 病の床に伏せる鉄の帝国二代皇帝エーリヒ・ヴァイスホルンが、やつれた顔に微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと身を起こす。

「……ヴィルヘルム。来てくれたか」
「はっ。お言葉をいただきに上がりました」

帝国軍少将ヴィルヘルム・ヴァイスリッター

 少年の頃、戦災孤児として拾われ、今や帝国随一の智将として名を馳せる彼は、静かに頭を垂れた。

「この戦は……避けられぬことなのだな……」

 かすれた声が、空虚に広間を満たす。

「鉄はわが国の骨組み、燃える石はわが国の血潮、ままならぬものだな」

 「南とは争うな」という、義父上の遺詔に背くとになろうとは――皇帝の嘆きに建国の元勲達が眉を顰める。
 しかし、口は出さない、他ならぬ太祖の遺詔「俺が死んだら、お前らも隠居しろよ。孫たちとのんびり暮らせ。老兵は死なず。ただ静かに消え去るのみ。だ――」
 老害が口を出すとろくなことがないからな。そう笑って太祖は言い残したのだ。

「その為の我が策にございます」

 ヴィルヘルムの言葉に、皇帝は寂しげな目を向けた。
 避けれぬならば、速やかに、そして確実に。
 ただ帝国の一振りの剣たらんと己を律する男に、皇帝はなぜか義父にして師であり太祖の姿を重ねてしまう。

「ヴィル――」

そこまで言いかけて、皇帝は酷い目眩に襲われ、痩身が力を失い崩れ落ちる。

「陛下――」

ざわつく廷臣達、飛び出そうとするヴィルヘルム、しかし側に控えるアウグストが疾い、皇帝の体を支えると、侍医がすぐに脈を取り出し、水で飲ませ、彼の肩をそっと寝台へ戻す。

「陛下はお疲れです。皆、退出を」

 有無を言わせぬアウグストの言、廷臣達は一同皇帝に暇を告げると、順に広間を後にしてゆく――

「……ヴィルヘルム近くへ」
「はっ」
「帝国を……ルーゼを頼む……」

 その囁きは、もはや風の音にも等しかった。

「……身命を賭して」

 ヴィルヘルムの返答に安心したのか、薬が効いて来たのか皇帝の表情が和らぎ眠りに付く。
 これが今生の別れとなるやもしれぬ。
 父のように慕う皇帝の姿をその目に焼き付け、ヴィルヘルムも執務室を退出する。

「そうは、させぬ」

 背を向けたその瞬間、胸の奥にひとつの覚悟が根を下ろした。  



◇ ◇ ◇



──白嶺宮 回廊。

 石造りの廊下を進みながら、廷臣たちはヴィルヘルムに“それぞれの忠告”を投げかけてきた。
まるで命じるように、あるいは媚びるように。

「将軍は分を弁えておられるのは重々承知ですが、老婆心から申し上げる……此度の遠征の総大将はレオン殿下であること、努々お忘れなきよう」

 第三皇子レオンハルトの舅――亡き先代の腰巾着、新興貴族の大臣の言葉にヴィルヘルムは「承知しております」と返す。
 その殊勝な態度に満足したのだろう、呵々大笑しながら取り巻き達の元へ向かう大臣。

「若様の手綱放すでないぞ」

 小声で老臣達がどこか諦めた様子で口々に愚痴と忠告を伝えて離れていく。

 そして最後に残ったのは非戦・反拡大政策派の廷臣達。
 無言だった、ヴィルヘルム自身軍人の身でありながらも、屋台骨のぐらつきつつある帝国は今外征などするべきではないと、いや軍人であるからこそ理解している。
 しかし彼はあくまで軍人の身を貫く。それが反戦派達には歯がゆく、また不満であった。
 
「将軍――」
 
その言葉を遮るように、第一皇子(アウグスト)が振り返る。

「ヴィルヘルム殿……帝国の剣である貴殿のご健闘、期待しております。なに、皆……貴殿の才を羨ましく思っているのです」

 その声音には、飄々とした響きがありつつも、核心を突く冷ややかさがあった。
 ヴィルヘルムは頭を下げ、言葉を返さなかった。
 返すことができなかった。

「おお、ヴィルヘルム!こっちだ来い!」

──回廊脇の庭園に経つ四阿からヴィルヘルムを呼ぶ大音声。
武骨な軍服姿の大男――第二皇子アドルフォ。
そしてその隣、四阿に静かに腰掛ける若き皇女、エルゼヴィア。銀灰の髪をきちんと結い上げた若き皇女が、四阿の下に静かに腰掛けている。

 艶やかな紫の瞳は、どこか遠くを見つめるように憂いを帯び、夏の日差しの下でもどこか涼やかな印象を与えていた。

「兄上もどうだ!エルゼが焼いた焼き菓子、悪くはないぞ!」
「遠慮しておくよアドルフォ、いささか忙しくてな、なぁ諸君?」

 病身の皇帝に代わり政務を取り仕切る皇子が肩を竦める。

「失礼いたします。殿下よりお声がかかりましたので」

 何事か言いたげな廷臣達に礼をしヴィルヘルムは四阿へと足を向ける。

 その足取りは心なしか軽く見えた。

 帝国随一の猛将と呼ばれる大男(だいにおうじ)が「ご苦労だったな」と廷臣達を一瞥した後、真っ直ぐな目で彼を見据えてきる。

「中央山脈を超えて敵の後背を突く。か――歴史に名が残るぞヴィル、できることなら俺自身が兵を率いてやりたかったわ」
「詭道でございます、王者に戦い方ではございません」
「ほざけ、お祖父様の戦はだいたい詭道(それ)だぞ」

 やってのけろ、こちらの事は俺に任せておけ。
 そう言いながらバンバンとヴィルヘルムに肩を叩く。

「ありがとうございます、殿下」
「すまんが弟のお守りも頼む、あれは馬鹿ではないが思慮が足らん……母上似だからな」
「……努力いたします」
「お兄様、そろそろお時間ですよ」

 おお、そうだった。溺愛している幼い娘と約束がある、と言い残し第二皇子が去ると、その場には沈黙は残った。
 給仕の侍女が手厳しい視線をヴィルヘルムに向けて来る。 

「閣下」
「なんだろう」
「言わねばわかりませぬか?」

 こういう場合、レディを讃えるのが男の務め。常々言われていることであった。

「マーサ」

 不器用者の軍人にずけずけと物を言う侍女をたしなめるように釘を刺す、エルゼヴィア。

 纏う衣は華やかさを抑えた実直な意匠。鉄灰を基調とし、袖口や裾にあしらわれた銀糸の刺繍が、気品と威厳を漂わせる。

 それは「皇女」というより、国政に関わるひとりの“統治者”の姿であった。

 主の命に不承不承といった表情の侍女(マーサ)は引き下がり、「お湯が冷めましたので」と、礼儀の仮面を被り直し、しかしわかりやすく不満げな足取りで下がっていく。

 二人きりになり、ヴィルヘルムが慣れぬ世辞を吐くより早く、エルゼヴィアが口を開いた。
「ヴィル……陛下は、貴方に何を?」
「……“頼む”と、仰せでした」

 そこにルーゼ、エルゼヴィアの幼い頃の愛称が含まれていた事は告げない。

「……そう」

彼女は、少しだけ寂しげに微笑んだ。

「貴方が、軍人として正しいこと理解しています」
「姫……」

 女は戦ごとに口を出してはならない。

 先代、太祖の娘が二代目女王として遺した傷跡。
 西方・黒い森のエルフ達や北嶺山脈のダークエルフ、北方海沿岸の海エルフとの軋轢。
 併呑した中原諸国の民や遺臣達の怨嗟。
 他ならぬヴィルヘルム自身が帝国により国を失った孤児であった。

 皇室外交――卓越した外交手腕も持って、帝国の内憂外患による瓦解を防ぐエルゼヴィアだが、こと軍事行動に口を挟めむことは良しとされない。
 それが歯がゆく、悔しい。

「行ってらっしゃい、ヴィル。山の上は凍るように寒いと聞くわ、風邪を引かないようにね」

 彼女の小さな手が、彼の手に重なり、きゅっと握る。
 その手は小さく震えていた―「無事に帰ってきて」―そんな口に出せぬ思いを乗せるように。
 ヴィルヘルムは静かに頷くと、彼女の手をそっと離し、白き回廊の奥へと歩み去った。
 
 去りゆく男の背をじっと見つめるエルゼヴィア――その姿が見えなくなった時、庭園にひやりとした風が吹いた。
 エルゼヴィアは小さく息をつき、空を仰ぐ。

「ドワーフの祖神(ドルグ)よ……彼に黒鉄の鎧の恩寵をお授けください」

 そして、ふと顔を伏せ、声にならぬ祈りが唇からこぼれる。

「……(セリウス)よ、その(まなこ)をお伏せください……彼を連れて、行かないで」

 遠く雷鳴が轟き、黒雲が近づいていた。
 夏の嵐が、不吉な未来を告げるかのように――


◇◇◇



原初この世界には海だけがあった。
そこに星の海を渡って創世神(ユリシア)が訪れた。
ユリシアは空を創り星と海を分かつと、星の海に浮かぶ月の一つを砕いて海へと降らし大地を…
ルナリア大陸を生み出すとそこに降り立った。

ユリシアの子ら〈天空の民〉は父を助け、
森を山を河を、そこに生きるものを創造し、導き、穏やかなる秩序を築いた。

だがやがて、ユリシアはふたたび「星の海」へと旅立つことを決め、天空の民もまた、父たるユリシアに従い、この世界を去った。


残された地上の民
エルフは森と海と地下に隠れ、
ドワーフは山を穿ち続け、
人間は平原に小国を築き、争い、滅ぼし、また築いた。

それは、幾千年も続く果てなき混沌の歴史――。

やがて、大陸南方では異界より降臨した女神の導きにより、
民が治める「共和国」が興り、長い平穏が訪れた。
しかし北方では、諸侯が乱立し、麻のごとく乱れ絡み合い、絶えぬ戦が続いていた。

今から百年前――
大陸北方の火山半島に、一人の男が生まれた。名は〈アイゼンハルト〉。

鉄を鍛え、火薬を生み、
知と力と鉄の意志をもって諸侯を屈服させた彼は、
北部を統一し、死後もその覇業は娘に受け継がれ、
ついに中原を併呑し、〈鉄の帝国〉を築き上げた。

人々はアイゼンハルトを太祖「鋼帝」と称え、
その偉業を讃えた。

しかし、統一から十年――
帝国の栄華に呑み込まれてなお消えずに燻り続けた熾火が今、燃え上がろうとしていた。

大陸歴669年 黄葉月/九の月
中央山脈により分断される大陸南部と中原を繋ぐ
唯一の山岳回廊を守護する「共和国の盾」スクトゥム王国に、〈鉄の帝国〉が宣戦を布告。
第三皇子レオンハルト率いる帝国軍が、国境の大河を渡ろうとしていた──







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──帝都リュクシオン、白嶺宮《はくれいきゅう》皇帝執務室。
 謁見の間でも評定の間でもなく、皇帝が昼の政務の間で、戦を控えた若き将が跪いていた。
「出征の御前に……陛下に拝顔を」
 乾燥地方である帝都では、真夏でも石造りの宮殿は比較的涼しい。
 しかし夏の盛りの湿地帯ように、じっとりした空気が支配する小広間程の空間は不気味なほどに静かだった。
 執務机を撤去して置かれた寝台、その枕元に侍るのは侍医と、第一皇子アウグスト。
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 病の床に伏せる鉄の帝国二代皇帝エーリヒ・ヴァイスホルンが、やつれた顔に微かな笑みを浮かべ、ゆっくりと身を起こす。
「……ヴィルヘルム。来てくれたか」
「はっ。お言葉をいただきに上がりました」
帝国軍少将ヴィルヘルム・ヴァイスリッター
 少年の頃、戦災孤児として拾われ、今や帝国随一の智将として名を馳せる彼は、静かに頭を垂れた。
「この戦は……避けられぬことなのだな……」
 かすれた声が、空虚に広間を満たす。
「鉄はわが国の骨組み、燃える石はわが国の血潮、ままならぬものだな」
 「南とは争うな」という、義父上の遺詔に背くとになろうとは――皇帝の嘆きに建国の元勲達が眉を顰める。
 しかし、口は出さない、他ならぬ太祖の遺詔「俺が死んだら、お前らも隠居しろよ。孫たちとのんびり暮らせ。老兵は死なず。ただ静かに消え去るのみ。だ――」
 老害が口を出すとろくなことがないからな。そう笑って太祖は言い残したのだ。
「その為の我が策にございます」
 ヴィルヘルムの言葉に、皇帝は寂しげな目を向けた。
 避けれぬならば、速やかに、そして確実に。
 ただ帝国の一振りの剣たらんと己を律する男に、皇帝はなぜか義父にして師であり太祖の姿を重ねてしまう。
「ヴィル――」
そこまで言いかけて、皇帝は酷い目眩に襲われ、痩身が力を失い崩れ落ちる。
「陛下――」
ざわつく廷臣達、飛び出そうとするヴィルヘルム、しかし側に控えるアウグストが疾い、皇帝の体を支えると、侍医がすぐに脈を取り出し、水で飲ませ、彼の肩をそっと寝台へ戻す。
「陛下はお疲れです。皆、退出を」
 有無を言わせぬアウグストの言、廷臣達は一同皇帝に暇を告げると、順に広間を後にしてゆく――
「……ヴィルヘルム近くへ」
「はっ」
「帝国を……ルーゼを頼む……」
 その囁きは、もはや風の音にも等しかった。
「……身命を賭して」
 ヴィルヘルムの返答に安心したのか、薬が効いて来たのか皇帝の表情が和らぎ眠りに付く。
 これが今生の別れとなるやもしれぬ。
 父のように慕う皇帝の姿をその目に焼き付け、ヴィルヘルムも執務室を退出する。
「そうは、させぬ」
 背を向けたその瞬間、胸の奥にひとつの覚悟が根を下ろした。  
◇ ◇ ◇
──白嶺宮 回廊。
 石造りの廊下を進みながら、廷臣たちはヴィルヘルムに“それぞれの忠告”を投げかけてきた。
まるで命じるように、あるいは媚びるように。
「将軍は分を弁えておられるのは重々承知ですが、老婆心から申し上げる……此度の遠征の総大将はレオン殿下であること、努々お忘れなきよう」
 第三皇子レオンハルトの舅――亡き先代《《女王》》の腰巾着、新興貴族の大臣の言葉にヴィルヘルムは「承知しております」と返す。
 その殊勝な態度に満足したのだろう、呵々大笑しながら取り巻き達の元へ向かう大臣。
「若様の手綱放すでないぞ」
 小声で老臣達がどこか諦めた様子で口々に愚痴と忠告を伝えて離れていく。
 そして最後に残ったのは非戦・反拡大政策派の廷臣達。
 無言だった、ヴィルヘルム自身軍人の身でありながらも、屋台骨のぐらつきつつある帝国は今外征などするべきではないと、いや軍人であるからこそ理解している。
 しかし彼はあくまで軍人の身を貫く。それが反戦派達には歯がゆく、また不満であった。
「将軍――」
その言葉を遮るように、|第一皇子《アウグスト》が振り返る。
「ヴィルヘルム殿……帝国の剣である貴殿のご健闘、期待しております。なに、皆……貴殿の才を羨ましく思っているのです」
 その声音には、飄々とした響きがありつつも、核心を突く冷ややかさがあった。
 ヴィルヘルムは頭を下げ、言葉を返さなかった。
 返すことができなかった。
「おお、ヴィルヘルム!こっちだ来い!」
──回廊脇の庭園に経つ四阿からヴィルヘルムを呼ぶ大音声。
武骨な軍服姿の大男――第二皇子アドルフォ。
そしてその隣、四阿に静かに腰掛ける若き皇女、エルゼヴィア。銀灰の髪をきちんと結い上げた若き皇女が、四阿の下に静かに腰掛けている。
 艶やかな紫の瞳は、どこか遠くを見つめるように憂いを帯び、夏の日差しの下でもどこか涼やかな印象を与えていた。
「兄上もどうだ!エルゼが焼いた焼き菓子、悪くはないぞ!」
「遠慮しておくよアドルフォ、いささか忙しくてな、なぁ諸君?」
 病身の皇帝に代わり政務を取り仕切る皇子が肩を竦める。
「失礼いたします。殿下よりお声がかかりましたので」
 何事か言いたげな廷臣達に礼をしヴィルヘルムは四阿へと足を向ける。
 その足取りは心なしか軽く見えた。
 帝国随一の猛将と呼ばれる|大男《だいにおうじ》が「ご苦労だったな」と廷臣達を一瞥した後、真っ直ぐな目で彼を見据えてきる。
「中央山脈を超えて敵の後背を突く。か――歴史に名が残るぞヴィル、できることなら俺自身が兵を率いてやりたかったわ」
「詭道でございます、王者に戦い方ではございません」
「ほざけ、お祖父様の戦はだいたい|詭道《それ》だぞ」
 やってのけろ、こちらの事は俺に任せておけ。
 そう言いながらバンバンとヴィルヘルムに肩を叩く。
「ありがとうございます、殿下」
「すまんが弟のお守りも頼む、あれは馬鹿ではないが思慮が足らん……母上似だからな」
「……努力いたします」
「お兄様、そろそろお時間ですよ」
 おお、そうだった。溺愛している幼い娘と約束がある、と言い残し第二皇子が去ると、その場には沈黙は残った。
 給仕の侍女が手厳しい視線をヴィルヘルムに向けて来る。 
「閣下」
「なんだろう」
「言わねばわかりませぬか?」
 こういう場合、レディを讃えるのが男の務め。常々言われていることであった。
「マーサ」
 不器用者の軍人にずけずけと物を言う侍女をたしなめるように釘を刺す、エルゼヴィア。
 纏う衣は華やかさを抑えた実直な意匠。鉄灰を基調とし、袖口や裾にあしらわれた銀糸の刺繍が、気品と威厳を漂わせる。
 それは「皇女」というより、国政に関わるひとりの“統治者”の姿であった。
 主の命に不承不承といった表情の|侍女《マーサ》は引き下がり、「お湯が冷めましたので」と、礼儀の仮面を被り直し、しかしわかりやすく不満げな足取りで下がっていく。
 二人きりになり、ヴィルヘルムが慣れぬ世辞を吐くより早く、エルゼヴィアが口を開いた。
「ヴィル……陛下は、貴方に何を?」
「……“頼む”と、仰せでした」
 そこにルーゼ、エルゼヴィアの幼い頃の愛称が含まれていた事は告げない。
「……そう」
彼女は、少しだけ寂しげに微笑んだ。
「貴方が、軍人として正しいこと理解しています」
「姫……」
 女は戦ごとに口を出してはならない。
 先代、太祖の娘が二代目女王として遺した傷跡。
 西方・黒い森のエルフ達や北嶺山脈のダークエルフ、北方海沿岸の海エルフとの軋轢。
 併呑した中原諸国の民や遺臣達の怨嗟。
 他ならぬヴィルヘルム自身が帝国により国を失った孤児であった。
 皇室外交――卓越した外交手腕も持って、帝国の内憂外患による瓦解を防ぐエルゼヴィアだが、こと軍事行動に口を挟めむことは良しとされない。
 それが歯がゆく、悔しい。
「行ってらっしゃい、ヴィル。山の上は凍るように寒いと聞くわ、風邪を引かないようにね」
 彼女の小さな手が、彼の手に重なり、きゅっと握る。
 その手は小さく震えていた―「無事に帰ってきて」―そんな口に出せぬ思いを乗せるように。
 ヴィルヘルムは静かに頷くと、彼女の手をそっと離し、白き回廊の奥へと歩み去った。
 去りゆく男の背をじっと見つめるエルゼヴィア――その姿が見えなくなった時、庭園にひやりとした風が吹いた。
 エルゼヴィアは小さく息をつき、空を仰ぐ。
「ドワーフの|祖神《ドルグ》よ……彼に黒鉄の鎧の恩寵をお授けください」
 そして、ふと顔を伏せ、声にならぬ祈りが唇からこぼれる。
「……|月《セリウス》よ、その|眼《まなこ》をお伏せください……彼を連れて、行かないで」
 遠く雷鳴が轟き、黒雲が近づいていた。
 夏の嵐が、不吉な未来を告げるかのように――
◇◇◇
原初この世界には海だけがあった。
そこに星の海を渡って|創世神《ユリシア》が訪れた。
ユリシアは空を創り星と海を分かつと、星の海に浮かぶ月の一つを砕いて海へと降らし大地を…
ルナリア大陸を生み出すとそこに降り立った。
ユリシアの子ら〈天空の民〉は父を助け、
森を山を河を、そこに生きるものを創造し、導き、穏やかなる秩序を築いた。
だがやがて、ユリシアはふたたび「星の海」へと旅立つことを決め、天空の民もまた、父たるユリシアに従い、この世界を去った。
残された地上の民
エルフは森と海と地下に隠れ、
ドワーフは山を穿ち続け、
人間は平原に小国を築き、争い、滅ぼし、また築いた。
それは、幾千年も続く果てなき混沌の歴史――。
やがて、大陸南方では異界より降臨した女神の導きにより、
民が治める「共和国」が興り、長い平穏が訪れた。
しかし北方では、諸侯が乱立し、麻のごとく乱れ絡み合い、絶えぬ戦が続いていた。
今から百年前――
大陸北方の火山半島に、一人の男が生まれた。名は〈アイゼンハルト〉。
鉄を鍛え、火薬を生み、
知と力と鉄の意志をもって諸侯を屈服させた彼は、
北部を統一し、死後もその覇業は娘に受け継がれ、
ついに中原を併呑し、〈鉄の帝国〉を築き上げた。
人々はアイゼンハルトを太祖「鋼帝」と称え、
その偉業を讃えた。
しかし、統一から十年――
帝国の栄華に呑み込まれてなお消えずに燻り続けた熾火が今、燃え上がろうとしていた。
大陸歴669年 黄葉月/九の月
中央山脈により分断される大陸南部と中原を繋ぐ
唯一の山岳回廊を守護する「共和国の盾」スクトゥム王国に、〈鉄の帝国〉が宣戦を布告。
第三皇子レオンハルト率いる帝国軍が、国境の大河を渡ろうとしていた──