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雨宿りのミント

ー/ー



 軒先のトタンは、雨のたびに少しだけ低い声を出す。ぽつ、ぽつ、と律儀に数えていた雫は、やがて数えきれなくなり、縁側の板に小さな湖をつくった。


私はその古い家の、雨漏りする軒下に腰を下ろしている。


 ここは借り物の時間のような場所だ。引っ越してきて三ヶ月、部屋の中はまだよそよそしく、段ボールの匂いが抜けきらない。

けれど軒下だけは、前の住人の気配を残したまま、黙って私を受け入れてくれる。


 向かいに住む老婦人が、朝、束ねたミントを差し出した。「増えすぎちゃってね」と笑う。


お裾分けという言葉は、なぜだか体温を持っている。私はそれをグラスに沈め、湯を注いだ。青い香りが立ちのぼり、雨の匂いと混ざる。


 天井の染みからまた一滴落ちる。置きっぱなしの琺瑯のボウルが、それを受け止める。

かん、と小さな音。規則正しい不規則。壊れているのに、どこか整っている。


 湯気の向こうで、町はぼやけている。私は仕事を辞めたばかりだ。理由は説明できるが、納得はできていない。

人と交わす言葉が、うすく、軽く、どこにも沈まなかった。沈まない言葉は、いつか自分を浮かせてしまう。足が地面に触れていないような日々だった。


 ミントをひとくち含む。舌の奥に、ほのかな苦み。すぐに涼しさが追いかけてくる。

誰かの庭で伸びすぎた葉が、いま私の中を静かに通り過ぎていく。与えられたものは、思いのほか、深く届く。


 老婦人は、私の事情を知らない。ただ雨の話をし、畑の話をし、明日の天気を心配する。その無関心が、やさしい。私を特別扱いしないことが、救いになる。



 雨脚は強くなり、軒の端から細い滝が落ちる。家は古く、いくつも欠けている。それでも、欠け目から差し込む光や、染みを伝う水の線が、この家を今日の形にしている。


 ボウルの水がいっぱいになり、私は立ち上がる。溜まった分を庭に返す。


土は素直に吸い込み、匂いをふくらませる。孤独は、どこかに捨てるものではなく、こうして薄めていくものかもしれない。


 湯気はすでに消えかけている。最後の一口を飲み干すと、雨音は少しだけ遠くなった。


軒下の世界は、まだ頼りない。けれど、頼りなさごと抱えたまま、私はここにいる。ミントの香りが、胸の内側でひそやかに息をしていた。






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 軒先のトタンは、雨のたびに少しだけ低い声を出す。ぽつ、ぽつ、と律儀に数えていた雫は、やがて数えきれなくなり、縁側の板に小さな湖をつくった。
私はその古い家の、雨漏りする軒下に腰を下ろしている。
 ここは借り物の時間のような場所だ。引っ越してきて三ヶ月、部屋の中はまだよそよそしく、段ボールの匂いが抜けきらない。
けれど軒下だけは、前の住人の気配を残したまま、黙って私を受け入れてくれる。
 向かいに住む老婦人が、朝、束ねたミントを差し出した。「増えすぎちゃってね」と笑う。
お裾分けという言葉は、なぜだか体温を持っている。私はそれをグラスに沈め、湯を注いだ。青い香りが立ちのぼり、雨の匂いと混ざる。
 天井の染みからまた一滴落ちる。置きっぱなしの琺瑯のボウルが、それを受け止める。
かん、と小さな音。規則正しい不規則。壊れているのに、どこか整っている。
 湯気の向こうで、町はぼやけている。私は仕事を辞めたばかりだ。理由は説明できるが、納得はできていない。
人と交わす言葉が、うすく、軽く、どこにも沈まなかった。沈まない言葉は、いつか自分を浮かせてしまう。足が地面に触れていないような日々だった。
 ミントをひとくち含む。舌の奥に、ほのかな苦み。すぐに涼しさが追いかけてくる。
誰かの庭で伸びすぎた葉が、いま私の中を静かに通り過ぎていく。与えられたものは、思いのほか、深く届く。
 老婦人は、私の事情を知らない。ただ雨の話をし、畑の話をし、明日の天気を心配する。その無関心が、やさしい。私を特別扱いしないことが、救いになる。
 雨脚は強くなり、軒の端から細い滝が落ちる。家は古く、いくつも欠けている。それでも、欠け目から差し込む光や、染みを伝う水の線が、この家を今日の形にしている。
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土は素直に吸い込み、匂いをふくらませる。孤独は、どこかに捨てるものではなく、こうして薄めていくものかもしれない。
 湯気はすでに消えかけている。最後の一口を飲み干すと、雨音は少しだけ遠くなった。
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