第3話 グロンダイルの娘

ー/ー



 紫苑の灯が明滅し、油の匂いが空気の底に沈んでいた。盃の縁が一瞬だけ光って、すぐ消える。

「ほう……じゃあ何だ、お前は『あいつ』……いや、ユベル・グロンダイルの娘だとでも言いたいのか?」

 低い声が落ちた瞬間、盃の液面に細い皺が走った。

 指先が、無意識に縁の古い傷をなぞる。木肌のささくれだけが、いまの自分をこの場に繋ぎ止めていた。

 ――この男、父の名を知っている。

 ここで名を売った意味が、いま刃になって返ってきた。

 ならば。

 薄酒の酸味が口の奥に残る。息をひとつ吐き、胸の熱だけを静かに押し沈めた。

「そうよ……」

 一拍の遅れ。椅子の固さが背骨へ沈み、盃の底で紫の光が小さく跳ねた。床の冷たさは踵の裏で動かない。視線は逸らさなかった。

 ヴィルの瞳が一瞬だけ見開かれる。魔道ランプの光が刃先みたいに反射して、すぐ深い暗へ吸い込まれた。息が、わずかに浅くなる。

「今、『あいつ』って言ったわね。あなた、わたしの父さまのことを、どこまで知っているの?」

 店主の布巾が動く音さえ聞こえない。沈黙の密度ばかりが上がっていく。

「知っているもなにも、あいつは俺の旧い友人だ」

「友人……ね」

 返した声が、自分でも驚くほど冷えていた。盃から離したはずの指に、なお冷えが残っている。

「それで? あなたは、友人の名を騙る不届き者を懲らしめに来たというわけ?」

 口角をわずかに持ち上げ、声の温度を変えぬまま言葉を投げる。

 ヴィルの口元がわずかに歪んだ。笑みとも疲労ともつかない、ひどく不格好な弧だった。

「まあ、そんなところかもしれんな」

 濁した返事なのに、目だけは逃げない。怒りの底に、確かめたい執念が沈んでいた。灯の芯が小さく弾け、油の匂いがふっと遠のく。

「じゃあ、はっきり言っておくわ。わたしは正真正銘、『ユベル・グロンダイル』の娘よ」

 内頬を噛んだみたいな薄い金属の味が、口の中へ広がった。

「お前がユベルの娘だと……? どこがだ。少しも似てないじゃないか」

 低い響きが、容赦なく事実だけを返してくる。父へ似ていない。その残酷さだけが、まっすぐ胸を貫いた。

「そうね。確かにそれは自覚しているつもりよ」

 ヴィルは、わたしの呼吸の深さでも測るみたいに凝視した。品定めなんて軽いものじゃない。祈りにも似た執念が、瞳の底で黒く静かに渦巻いていた。

「ユベルの髪は青みがかった銀だったし、顔立ちだって……まるで似ていない。瞳も、あいつはもっと深い夜みたいな黒だったぞ」

 当たりだ。良きにつけ悪しきにつけ、ヴィルは父の細部まで焼き付けている。

 頭では整理できるはずなのに、灯の揺れだけが過去を引きずり出した。指先だけが木卓の節目を確かめ、逃げ場のない冷たさを覚えている。

「だからなに? これは母さまの特徴を受け継いだだけよ」

「なるほど、母親似か」

「……母さまからは、『鏡写しみたい』だなんて……言われていたけれどね」

 母の言葉を口にした瞬間、灯が一度だけ大きく揺れ、内側が詰まった。ヴィルの視線が、鼻先からわずかに下がり、組んだ指先へ滑る。

「……では、教えてもらおうか。あいつは今、どこにいるんだ?」

 どこかで触れた杯の音だけが、一度して消えた。盃の縁の光だけが、落ちきれずに迷っている。息を吐き出す場所が、針の穴みたいに狭くなる。

「それは……もう、答えようがないわ」

 喉が強張り、言葉がひび割れそうになる。ヴィルの呼吸が止まった。

「どういう意味だ?」

「父さまは……もう、この世にはいないから」

 盃の面に、音もなく細い皺が増えた。紫の灯がいっそう浅く、命の尽きかけた灯火みたいに見えた。

「は……? あいつが死んだだと……? ふざけるな。嘘もたいがいにしろ」

 木床が激しく軋み、隣の卓で誰かの酒器が触れ合って止まった。ヴィルの肩が怒りに震え、空気の密度が暴力みたいに増していく。

「嘘じゃないわ。本当のことよ……」

 言葉が、自分の鼓動から一拍遅れて床へ落ちた。薄酒の甘みさえ、もう舌の上から遠のいていく。

「じゃあ何があったっていうんだ。言ってみろ。あいつはどうして死んだ。事故か。それともたちの悪い流行り病か?」

 灯の芯が鋭く細り、どこかで金具が擦れる。空気が硬くなる。

「父さまは……魔獣との戦いで命を落とした。わたしを守ろうとして……」

 口にした途端、父の笑う横顔がふいに浮かび、視界の縁が滲んだ。紫の灯が遠くで揺れている。どこかで杯が触れ合い、すぐまた死んだみたいな静寂が戻る。

 盃を卓へ戻す音さえ出さないよう、指先だけを固めた。

「ばかな……。あいつは『閃光』の二つ名を持つ、大陸一の剣士と謳われた男だ。魔獣ごときに遅れを取るなどありえん……。そんな話、俺は信じないぞ。俺はあいつの強さを誰よりも知っている。あいつは……俺と並び立つ唯一の男なんだ」

 言い切ったあとで、視線だけが一度、盃の底へ落ちた。次の息がうまく継げないみたいに、胸板がわずかに揺れる。灯がひとつ瞬き、張りつめていた空気に見えないひびが入った。

「そうね、あなたの言う通りよ。父さまは強い。どんな魔獣にだって負けやしない。わたしだって、そう信じていた……。――でも、あの時の魔獣はとても大きくて、見たこともない形で、倒しても倒しても尽きることなく湧き出てきて。いくら父さまでも、一人で捌き続けるのは……無理だった……」

 あの時の気配が、いまも舌の裏に残っている。灯の紫が壁で滲み、影がゆっくり揺れた。赤黒い光が視界の端で明滅し、鋭利な爪と牙が暗闇を裂く。頬に熱い飛沫が触れた気がして、喉の奥が乾いた。

「それでも……父さまは最後の最後まで諦めなかった。ただ、わたしを守るためだけに、戦い続けた……」

 声がかすれ、細い糸みたいになる。けれど、それだけは手放せない。盃の縁を掴む指の節が白く浮き、きしみそうな音を立てるのを、剥き出しの意志だけで耐えた。

 空気が変わる。卓の下から、乾いた砂の気配が這い出してくる。

 父の死を思い出した途端、胸の奥に封じていたものが裂けた。黒鶴の羽音だけが暗がりで擦れる。屠っても屠っても、足もとに積み上がるのは冷えた影ばかりだった。

 白い剣の気配が冷たく返り、茉凜は何も言わない。ただ、その沈黙だけが腰に残った。

「父さま……」

 熱いものが頬を伝い、あごの先で一度止まった。盃の縁に触れた滴が、魔道ランプの光を吸い込んで見えなくなる。

 ヴィルは、何も言わずにそれを見ていた。大きくひとつ、肺の奥まで吐き出すみたいな息をつく。その頑強な肩が、わずかに力なく下がった。古い金具が、かすかに鳴る。

「そうか……。あいつは、最後まで戦ったんだな。お前を守るために……」

 語尾が、ほんのわずかに落ちる。古い金具がひとつ鳴って、それきりヴィルは動かなかった。





スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 第4話 父が遺した絆の証


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 紫苑の灯が明滅し、油の匂いが空気の底に沈んでいた。盃の縁が一瞬だけ光って、すぐ消える。
「ほう……じゃあ何だ、お前は『あいつ』……いや、ユベル・グロンダイルの娘だとでも言いたいのか?」
 低い声が落ちた瞬間、盃の液面に細い皺が走った。
 指先が、無意識に縁の古い傷をなぞる。木肌のささくれだけが、いまの自分をこの場に繋ぎ止めていた。
 ――この男、父の名を知っている。
 ここで名を売った意味が、いま刃になって返ってきた。
 ならば。
 薄酒の酸味が口の奥に残る。息をひとつ吐き、胸の熱だけを静かに押し沈めた。
「そうよ……」
 一拍の遅れ。椅子の固さが背骨へ沈み、盃の底で紫の光が小さく跳ねた。床の冷たさは踵の裏で動かない。視線は逸らさなかった。
 ヴィルの瞳が一瞬だけ見開かれる。魔道ランプの光が刃先みたいに反射して、すぐ深い暗へ吸い込まれた。息が、わずかに浅くなる。
「今、『あいつ』って言ったわね。あなた、わたしの父さまのことを、どこまで知っているの?」
 店主の布巾が動く音さえ聞こえない。沈黙の密度ばかりが上がっていく。
「知っているもなにも、あいつは俺の旧い友人だ」
「友人……ね」
 返した声が、自分でも驚くほど冷えていた。盃から離したはずの指に、なお冷えが残っている。
「それで? あなたは、友人の名を騙る不届き者を懲らしめに来たというわけ?」
 口角をわずかに持ち上げ、声の温度を変えぬまま言葉を投げる。
 ヴィルの口元がわずかに歪んだ。笑みとも疲労ともつかない、ひどく不格好な弧だった。
「まあ、そんなところかもしれんな」
 濁した返事なのに、目だけは逃げない。怒りの底に、確かめたい執念が沈んでいた。灯の芯が小さく弾け、油の匂いがふっと遠のく。
「じゃあ、はっきり言っておくわ。わたしは正真正銘、『ユベル・グロンダイル』の娘よ」
 内頬を噛んだみたいな薄い金属の味が、口の中へ広がった。
「お前がユベルの娘だと……? どこがだ。少しも似てないじゃないか」
 低い響きが、容赦なく事実だけを返してくる。父へ似ていない。その残酷さだけが、まっすぐ胸を貫いた。
「そうね。確かにそれは自覚しているつもりよ」
 ヴィルは、わたしの呼吸の深さでも測るみたいに凝視した。品定めなんて軽いものじゃない。祈りにも似た執念が、瞳の底で黒く静かに渦巻いていた。
「ユベルの髪は青みがかった銀だったし、顔立ちだって……まるで似ていない。瞳も、あいつはもっと深い夜みたいな黒だったぞ」
 当たりだ。良きにつけ悪しきにつけ、ヴィルは父の細部まで焼き付けている。
 頭では整理できるはずなのに、灯の揺れだけが過去を引きずり出した。指先だけが木卓の節目を確かめ、逃げ場のない冷たさを覚えている。
「だからなに? これは母さまの特徴を受け継いだだけよ」
「なるほど、母親似か」
「……母さまからは、『鏡写しみたい』だなんて……言われていたけれどね」
 母の言葉を口にした瞬間、灯が一度だけ大きく揺れ、内側が詰まった。ヴィルの視線が、鼻先からわずかに下がり、組んだ指先へ滑る。
「……では、教えてもらおうか。あいつは今、どこにいるんだ?」
 どこかで触れた杯の音だけが、一度して消えた。盃の縁の光だけが、落ちきれずに迷っている。息を吐き出す場所が、針の穴みたいに狭くなる。
「それは……もう、答えようがないわ」
 喉が強張り、言葉がひび割れそうになる。ヴィルの呼吸が止まった。
「どういう意味だ?」
「父さまは……もう、この世にはいないから」
 盃の面に、音もなく細い皺が増えた。紫の灯がいっそう浅く、命の尽きかけた灯火みたいに見えた。
「は……? あいつが死んだだと……? ふざけるな。嘘もたいがいにしろ」
 木床が激しく軋み、隣の卓で誰かの酒器が触れ合って止まった。ヴィルの肩が怒りに震え、空気の密度が暴力みたいに増していく。
「嘘じゃないわ。本当のことよ……」
 言葉が、自分の鼓動から一拍遅れて床へ落ちた。薄酒の甘みさえ、もう舌の上から遠のいていく。
「じゃあ何があったっていうんだ。言ってみろ。あいつはどうして死んだ。事故か。それともたちの悪い流行り病か?」
 灯の芯が鋭く細り、どこかで金具が擦れる。空気が硬くなる。
「父さまは……魔獣との戦いで命を落とした。わたしを守ろうとして……」
 口にした途端、父の笑う横顔がふいに浮かび、視界の縁が滲んだ。紫の灯が遠くで揺れている。どこかで杯が触れ合い、すぐまた死んだみたいな静寂が戻る。
 盃を卓へ戻す音さえ出さないよう、指先だけを固めた。
「ばかな……。あいつは『閃光』の二つ名を持つ、大陸一の剣士と謳われた男だ。魔獣ごときに遅れを取るなどありえん……。そんな話、俺は信じないぞ。俺はあいつの強さを誰よりも知っている。あいつは……俺と並び立つ唯一の男なんだ」
 言い切ったあとで、視線だけが一度、盃の底へ落ちた。次の息がうまく継げないみたいに、胸板がわずかに揺れる。灯がひとつ瞬き、張りつめていた空気に見えないひびが入った。
「そうね、あなたの言う通りよ。父さまは強い。どんな魔獣にだって負けやしない。わたしだって、そう信じていた……。――でも、あの時の魔獣はとても大きくて、見たこともない形で、倒しても倒しても尽きることなく湧き出てきて。いくら父さまでも、一人で捌き続けるのは……無理だった……」
 あの時の気配が、いまも舌の裏に残っている。灯の紫が壁で滲み、影がゆっくり揺れた。赤黒い光が視界の端で明滅し、鋭利な爪と牙が暗闇を裂く。頬に熱い飛沫が触れた気がして、喉の奥が乾いた。
「それでも……父さまは最後の最後まで諦めなかった。ただ、わたしを守るためだけに、戦い続けた……」
 声がかすれ、細い糸みたいになる。けれど、それだけは手放せない。盃の縁を掴む指の節が白く浮き、きしみそうな音を立てるのを、剥き出しの意志だけで耐えた。
 空気が変わる。卓の下から、乾いた砂の気配が這い出してくる。
 父の死を思い出した途端、胸の奥に封じていたものが裂けた。黒鶴の羽音だけが暗がりで擦れる。屠っても屠っても、足もとに積み上がるのは冷えた影ばかりだった。
 白い剣の気配が冷たく返り、茉凜は何も言わない。ただ、その沈黙だけが腰に残った。
「父さま……」
 熱いものが頬を伝い、あごの先で一度止まった。盃の縁に触れた滴が、魔道ランプの光を吸い込んで見えなくなる。
 ヴィルは、何も言わずにそれを見ていた。大きくひとつ、肺の奥まで吐き出すみたいな息をつく。その頑強な肩が、わずかに力なく下がった。古い金具が、かすかに鳴る。
「そうか……。あいつは、最後まで戦ったんだな。お前を守るために……」
 語尾が、ほんのわずかに落ちる。古い金具がひとつ鳴って、それきりヴィルは動かなかった。