第2話 流浪の剣士 その名はヴィル
ー/ー
卓上には、灯を吸った木の盃がひとつあった。水で割った葡萄酒は夜より深く沈んで見え、甘い酸味が鼻先をかすめる。舌に触れるのは一滴でいい。酔いに沈むために来たわけではない。
そのとき、重い扉が溜息みたいに軋んだ。
戸口の鈴が、ちり、と鳴る。
刹那、店の灯がひと息ぶん陰った。囁きは床へ沈み、乾いた土を踏む足音だけが残る。店主の手が止まり、布巾が宙で固まった。
盃の縁に添えた指へ、じわりと力が寄る。木卓の冷たさが戻り、張りつめた空気がこちらへにじんでくる。
視線だけを斜めに走らせる。埃を吸った厚手の外套。整えられていない髭。ふらついて見えるのに、歩みにはひとつの無駄もない。亡霊みたいに足を踏み入れた男だった。死にかけた灯の下で、金髪だけが鈍く光る。荒野の乾きが刻まれた顔の奥に、夜陰より深い澱みが沈んでいた。
「見慣れない顔ね……」
吐息に紛らせるように、言葉の端だけを落とす。
男は周囲の怯えなど意に介さず、無言でカウンターへ進む。音もなく差し出された酒器を掴む指には、無数の古傷が走っていた。指先の癖にまで、硝煙と鉄錆の記憶がこびりついている。
ひとくち。喉が鳴る気配のあと、その視線が店内をひと回りした。値踏みというより、何かの痕跡を探す目だった。
男は酒器を置き、カウンター越しに店主へ身を寄せた。返事は聞こえない。ただ、店主の手だけが白くこわばって止まっていた。店主の視線が一度、わたしの卓へ滑り、それから逃げるように伏せられる。男の注意だけが、まっすぐこちらを向いた。
椅子が軽く鳴り、男が立ち上がる。一歩、また一歩。床が低く応え、灯の芯が細く震えた。
美鶴、あの人なんだかヤバい感じがする。どうしようか?
帯に添った純白の剣が、ひやりとした重みで現実を突きつけてくる。柄にそっと触れ、意識を沈めた。鞘の奥から、かすかな息が掌へ返る。
「わかっている。少し様子を見るから、あなたは静かにしてて……」
……うん、落ち着いてね
言葉が途切れると、鞘の奥の気配がすっと凪いだ。軽口の代わりに、冬の石を抱いたような微かな重みだけが腰骨の内側へ残る。
男はわたしの卓の前で止まった。鉄錆の匂いをまとい、言葉を選ぶように黙る。上から下へと確かめる視線が落ち、髪の色と帯に添った白い剣へ短く触れて戻った。
やがて、砂を噛むような低い声が落ちる。
「お前さん、ここで何をしている?」
盃を傾ける角度だけを変え、わたしは視線を動かさなかった。
「何って? 見ればわかるでしょう」
煤けた匂いがひとつ濃くなる。盃の縁を押さえる指に、木卓の硬さがそのまま返ってきた。半年、この小さな卓ひとつで夜ごとの視線をやり過ごしてきた。卓の縁は今夜も、余計な慰めひとつ寄越さず、硬さだけを返してくる。
彼の視線が一度だけ帯の白へ落ち、それから顔へ戻る。確かめるような沈黙のあと、言葉は叱る形を取った。
「子どもがこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」
周囲の意識がいっせいに集まり、空気がざわめく。唇の内側へ力を込めた。大人が投げてよこすその一語は、いつだってこちらの足場をじりじり削っていく。
値踏みする彼の視線を、わたしは静かに受け流した。
「軽く見ないでもらいたいものね。これでもわたし、『一人前』で通ってるんだけど?」
この卓で「子ども」と笑う声は、とっくに消えた。いま残っているのは、距離を測る目ばかりだ。
「へーっ、一人前ね。どう見ても十二、三の子供じゃないか」
男の冷笑が、喉へ張りつく乾いた息みたいに耳を打つ。周囲の客が、息を潜めたままこちらを窺っているのが気配でわかった。
わたしは唇をきつく噛んだが、笑顔も嘲りも見せず、まっすぐ男を見返した。
「残念だけどね、わたしは二十一なの。あなたに信じろと言っても無理かもしれないけれど」
嘘ではない。けれど、この男に説明したところで鼻で笑われるだけだ。知る必要もない。
男は短く鼻を鳴らし、冷たく光る瞳で再び私を見据えた。
「ふーん……。その細い肩で、か」
冷笑の気配が口の奥に貼りつく。木卓の縁の擦り傷をなぞると、夜気のざらつきが袖に残った。
男はわずかに口の端を歪めた。わざと棘を立てるみたいに笑ってから、冷えた瞳でわたしを射抜く。その目に宿ったのは嘲りだけではない。試すような光が、わずかに深くなる。
「ま、見た目や歳なんざこの際どうでもいい話だな。では尋ねよう。店の主人に聞いたが、黒髪のグロンダイルっていうのはお前さんのことか?」
肩の髪をそっと払い、そっけなく応じる。
「ええ、そうだけど? それが何か?」
「ここらじゃちょっとした有名人らしいな。とんでもない魔術を使うとか、万の魔獣を一夜で狩り尽くしたなんて噂も耳にしたが……」
百が千になり、千が万になる。歩き出した尾ひれに、もう持ち主はいない。
舌の奥で渋みが転がり、不要な言い訳はすべて飲み下した。
「ま、そんなこともあったわね」
男の唇が嫌味な三日月を描き、鉄の匂いが一歩近づいた。わざと棘を立てているのがわかるぶん、なおさら癇に障る。
「ふーん。やはりその噂、大げさな作り話だったようだ。お前みたいな『ちんちくりん』な娘に、そんな芸当ができるとは到底信じ難い」
盃の縁が硬く当たり、返事が喉で一度止まった。次の瞬間には、もう落ちていた。
「それはどうかしら? 見た目で判断すると痛い目に遭う。なんてこともあるわよ」
指先で自分の影をなぞる。その暗がりへ、小さな〈場裏〉をひらいた。何かを起こすためじゃない。ただ、紫苑の灯を影の縁で一度だけ歪ませる、それだけの薄い脅し。
男の注意が、影をなぞる動きへ鋭く落ちた。表情は動かない。けれど、息の切れ目が短くなったのを、わたしは見逃さなかった。
「それで? あなたはわたしに喧嘩を売りに来たのかしら。随分と暇で酔狂なことで」
盃の底の甘みが舌先に鈍く残り、灯の紫が影の縁で揺れた。
男は身じろぎひとつで、皮肉な笑みをさらに深く刻む。
「俺はただ、真実を確かめたいだけだ。どんな力だか知らないが、その実力とやらを見せてもらう機会があったっていいだろう?」
「真実」という語が落ちた。空気がいっせいに固まる。
わたしは声の温度だけを冷やした。
「勝手にすればいいわ。わたしは別に自分の力を隠すつもりもないし、あなたに見せなければならない義理もないけれど」
「ほう、じゃあいつか確かめるチャンスもあるということだな」
わたしは盃を持ち上げ、ひと口だけ含んだ。甘酸っぱさが舌先に触れ、すぐに引いていく。
「好きにしなさい。ついてくるのはあなたの自由よ。ただし、わたしの邪魔さえしなければの話だけれど」
「――では、名乗っておこう。俺はヴィル・ブルフォード。流れの剣士だ。よろしくな」
言葉がこぼれないよう、唇を固く閉ざした。名乗りが落ちた瞬間、静止していた液面が震える。遠い日の雨音が意識の奥で鳴り、湿った土と冷えた鉄の匂いがふいに鼻腔の奥へ戻ってきた。凍えた記憶の欠片が、闇の底から浮かび上がる。
盃の縁を押さえ、卓の下で指先が脈を打っているのを隠した。表情だけは崩さない。
「ヴィル、ね。覚えておくわ。わたしは――ミツル・グロンダイルよ」
盃をそっと戻すと、薄氷が弾けるような音がした。男の瞳に鋭い光が差す。
「ミツル……か。ところで一つ尋ねてもいいか?」
「何かしら?」
「お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?」
喉の奥で小さな音が鳴り、熱がさっと引いていった。背後が静まり、灯心が震える。沈黙が鉛みたいに重く落ちてくる。
わたしは冷たい笑みだけを浮かべた。
「……騙っている、ですって? ふふ……もし本当にそう見えるというのなら、それはあなたの眼が、よほどの節穴だってことよ」
言葉が床板へ落ち、静かな夜陰に吸い込まれていく。店主の布巾は、まだ宙で止まったままだった。煤けた匂いが妙に濃くなり、灯がいっそう浅く見える。
ヴィルは黙し、わたしもまた言葉を重ねなかった。液面の震えだけが、いつまでも止まらなかった。+
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そのとき、重い扉が溜息みたいに軋んだ。
戸口の鈴が、ちり、と鳴る。
刹那、店の灯がひと息ぶん陰った。囁きは床へ沈み、乾いた土を踏む足音だけが残る。店主の手が止まり、布巾が宙で固まった。
盃の縁に添えた指へ、じわりと力が寄る。木卓の冷たさが戻り、張りつめた空気がこちらへにじんでくる。
視線だけを斜めに走らせる。埃を吸った厚手の外套。整えられていない髭。ふらついて見えるのに、歩みにはひとつの無駄もない。亡霊みたいに足を踏み入れた男だった。死にかけた灯の下で、金髪だけが鈍く光る。荒野の乾きが刻まれた顔の奥に、夜陰より深い澱みが沈んでいた。
「見慣れない顔ね……」
吐息に紛らせるように、言葉の端だけを落とす。
男は周囲の怯えなど意に介さず、無言でカウンターへ進む。音もなく差し出された酒器を掴む指には、無数の古傷が走っていた。指先の癖にまで、硝煙と鉄錆の記憶がこびりついている。
ひとくち。喉が鳴る気配のあと、その視線が店内をひと回りした。値踏みというより、何かの痕跡を探す目だった。
男は酒器を置き、カウンター越しに店主へ身を寄せた。返事は聞こえない。ただ、店主の手だけが白くこわばって止まっていた。店主の視線が一度、わたしの卓へ滑り、それから逃げるように伏せられる。男の注意だけが、まっすぐこちらを向いた。
椅子が軽く鳴り、男が立ち上がる。一歩、また一歩。床が低く応え、灯の芯が細く震えた。
《《美鶴、あの人なんだかヤバい感じがする。どうしようか?》》
帯に添った純白の剣が、ひやりとした重みで現実を突きつけてくる。柄にそっと触れ、意識を沈めた。鞘の奥から、かすかな息が掌へ返る。
「わかっている。少し様子を見るから、あなたは静かにしてて……」
《《……うん、落ち着いてね》》
言葉が途切れると、鞘の奥の気配がすっと凪いだ。軽口の代わりに、冬の石を抱いたような微かな重みだけが腰骨の内側へ残る。
男はわたしの卓の前で止まった。鉄錆の匂いをまとい、言葉を選ぶように黙る。上から下へと確かめる視線が落ち、髪の色と帯に添った白い剣へ短く触れて戻った。
やがて、砂を噛むような低い声が落ちる。
「お前さん、ここで何をしている?」
盃を傾ける角度だけを変え、わたしは視線を動かさなかった。
「何って? 見ればわかるでしょう」
煤けた匂いがひとつ濃くなる。盃の縁を押さえる指に、木卓の硬さがそのまま返ってきた。半年、この小さな卓ひとつで夜ごとの視線をやり過ごしてきた。卓の縁は今夜も、余計な慰めひとつ寄越さず、硬さだけを返してくる。
彼の視線が一度だけ帯の白へ落ち、それから顔へ戻る。確かめるような沈黙のあと、言葉は叱る形を取った。
「子どもがこんな時間に、一人で酒場にいるなんて感心しないな」
周囲の意識がいっせいに集まり、空気がざわめく。唇の内側へ力を込めた。大人が投げてよこすその一語は、いつだってこちらの足場をじりじり削っていく。
値踏みする彼の視線を、わたしは静かに受け流した。
「軽く見ないでもらいたいものね。これでもわたし、『一人前』で通ってるんだけど?」
この卓で「子ども」と笑う声は、とっくに消えた。いま残っているのは、距離を測る目ばかりだ。
「へーっ、一人前ね。どう見ても十二、三の子供じゃないか」
男の冷笑が、喉へ張りつく乾いた息みたいに耳を打つ。周囲の客が、息を潜めたままこちらを窺っているのが気配でわかった。
わたしは唇をきつく噛んだが、笑顔も嘲りも見せず、まっすぐ男を見返した。
「残念だけどね、わたしは二十一なの。あなたに信じろと言っても無理かもしれないけれど」
嘘ではない。けれど、この男に説明したところで鼻で笑われるだけだ。知る必要もない。
男は短く鼻を鳴らし、冷たく光る瞳で再び私を見据えた。
「ふーん……。その細い肩で、か」
冷笑の気配が口の奥に貼りつく。木卓の縁の擦り傷をなぞると、夜気のざらつきが袖に残った。
男はわずかに口の端を歪めた。わざと棘を立てるみたいに笑ってから、冷えた瞳でわたしを射抜く。その目に宿ったのは嘲りだけではない。試すような光が、わずかに深くなる。
「ま、見た目や歳なんざこの際どうでもいい話だな。では尋ねよう。店の主人に聞いたが、黒髪のグロンダイルっていうのはお前さんのことか?」
肩の髪をそっと払い、そっけなく応じる。
「ええ、そうだけど? それが何か?」
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百が千になり、千が万になる。歩き出した尾ひれに、もう持ち主はいない。
舌の奥で渋みが転がり、不要な言い訳はすべて飲み下した。
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男の唇が嫌味な三日月を描き、鉄の匂いが一歩近づいた。わざと棘を立てているのがわかるぶん、なおさら癇に障る。
「ふーん。やはりその噂、大げさな作り話だったようだ。お前みたいな『ちんちくりん』な娘に、そんな芸当ができるとは到底信じ難い」
盃の縁が硬く当たり、返事が喉で一度止まった。次の瞬間には、もう落ちていた。
「それはどうかしら? 見た目で判断すると痛い目に遭う。なんてこともあるわよ」
指先で自分の影をなぞる。その暗がりへ、小さな〈場裏〉をひらいた。何かを起こすためじゃない。ただ、紫苑の灯を影の縁で一度だけ歪ませる、それだけの薄い脅し。
男の注意が、影をなぞる動きへ鋭く落ちた。表情は動かない。けれど、息の切れ目が短くなったのを、わたしは見逃さなかった。
「それで? あなたはわたしに喧嘩を売りに来たのかしら。随分と暇で酔狂なことで」
盃の底の甘みが舌先に鈍く残り、灯の紫が影の縁で揺れた。
男は身じろぎひとつで、皮肉な笑みをさらに深く刻む。
「俺はただ、真実を確かめたいだけだ。どんな力だか知らないが、その実力とやらを見せてもらう機会があったっていいだろう?」
「真実」という語が落ちた。空気がいっせいに固まる。
わたしは声の温度だけを冷やした。
「勝手にすればいいわ。わたしは別に自分の力を隠すつもりもないし、あなたに見せなければならない義理もないけれど」
「ほう、じゃあいつか確かめるチャンスもあるということだな」
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「――では、名乗っておこう。俺はヴィル・ブルフォード。流れの剣士だ。よろしくな」
言葉がこぼれないよう、唇を固く閉ざした。名乗りが落ちた瞬間、静止していた液面が震える。遠い日の雨音が意識の奥で鳴り、湿った土と冷えた鉄の匂いがふいに鼻腔の奥へ戻ってきた。凍えた記憶の欠片が、闇の底から浮かび上がる。
盃の縁を押さえ、卓の下で指先が脈を打っているのを隠した。表情だけは崩さない。
「ヴィル、ね。覚えておくわ。わたしは――ミツル・グロンダイルよ」
盃をそっと戻すと、薄氷が弾けるような音がした。男の瞳に鋭い光が差す。
「ミツル……か。ところで一つ尋ねてもいいか?」
「何かしら?」
「お前はなぜ、グロンダイルの名を騙っている?」
喉の奥で小さな音が鳴り、熱がさっと引いていった。背後が静まり、灯心が震える。沈黙が鉛みたいに重く落ちてくる。
わたしは冷たい笑みだけを浮かべた。
「……騙っている、ですって? ふふ……もし本当にそう見えるというのなら、それはあなたの眼が、よほどの節穴だってことよ」
言葉が床板へ落ち、静かな夜陰に吸い込まれていく。店主の布巾は、まだ宙で止まったままだった。煤けた匂いが妙に濃くなり、灯がいっそう浅く見える。
ヴィルは黙し、わたしもまた言葉を重ねなかった。液面の震えだけが、いつまでも止まらなかった。+