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第1話 夜更けの酒場 私と剣の中の彼女

ー/ー



 塔の小鈴が鳴った。

 その音を知らず、黒髪のわたしは、辺境都市エレダンの外れの酒場で盃を傾けていた。

 市場の喧騒はもう遠い。小さな酒場には魔道ランプの紫苑色が滲み、古びた木壁と卓の木目をやわらかな灯が静かに撫でている。笑い声の底で、戸の掛け金を確かめる硬い音が、ときどき混じった。

 手元には、光を吸った木製の盃。淡い液が甘い酸味を立ちのぼらせ、鼻先をかすめていく。

 水の濁る季節だから、ここでは葡萄酒を水で割った薄酒が常になる。慣れていないはずなのに、今夜は喉の通りが妙に軽かった。

 理由は、腰に下げた剣だった。鞘の奥の彼女が夜ごと「飲もう、飲もう」とわたしの意識を揺らしてくる。盃が空くたび、背後の気配が少しだけ緩み、手もとを急かす。木肌の丸みが爪の根へ触れ、冷えが一度だけ骨へ沁みた。今日の稼ぎは袋の底で冷えているのに、わたしのほうが先に軽くなっていく。

「いい? もうこの一杯だけだからね」

 盃の縁をそっとなぞり、冷たい木肌と液体の境目へ意識を落とす。

  

 鞘の留め金がちり、と鳴り、わがままな余韻が腰骨に響いた。

「に、二杯って……少しは節度を持ちなさい。あなたが気分良くても、気だるくなるのわたしの身体なのよ。明日はブーツをオーダーしに行くんだから、むくんだ脚で行きたくないでしょ」

 腰のあたりで金属がかすかに鳴り、剣の鞘が影の縁へ小さくずれた。

 

 息が口の奥でほどける。柄へ触れれば、冷たい金属の向こうに、ねだる熱が小さく灯っていた。

 香りも味も、喉を落ちていく温度も、彼女はわたしの五感をそのまま引き受け、勝手に自分の愉しみに変えてしまう。

 腰には白きマウザーグレイル。両親が遺した唯一の絆であり、いまのわたしの重さでもある。鞘の内側には、縁あって共に来てしまった少女がいる。

 名を呼べば返事はすぐだ。けれど、触れていないはずの掌に、まだ彼女の息が残っている気がした。

「ほんとにもう……。どうしてあなたは、そんなにお酒が好きになっちゃったのかしらね?」

 杯の中で液面が小さく揺れる。灯の紫が水面へ溶け、波紋といっしょに広がっていった。

 

 またそれ、と思い、首をわずかに振る。

 半年前、エレダンへ向かう旅路で、酒の匂いを吐く異様な木に呑まれかけたことがある。枝へ剣を寄せた途端、蔓に絡め取られ、濃い酒気に満ちた幹へ引きずり込まれた。茉凜は酔ったように笑い、わたしは異能の圧を炸裂させて抜け出した。

 あれ以来、酒の匂いが立つたび、鞘の奥が先にざわつく。

「その気持ち悪い笑い方で誤魔化さないで。元はと言えば、あなたのせいなんだから」

 柄を軽くコツンと叩くと、彼女の声が一段弾み、どこ吹く風とばかりにからかってくる。



 唇を結ぶしかない。懲りたふりをしても、落ち着きのない気配がすぐ戻る。指先の冷えだけが残り、笑いは口の奥でひとつ止まった。

「へえ、じゃあ、呑んだくれの剣さんには、ヘルハウンドの巣窟で一晩過ごしてもらいましょうか。そこでたっぷり可愛がられたらいいわ。五感を共有しているんだから、わたしの視覚を通してその様子があなたにもよく見えるはずよ」

 声だけ明るくしておくと、鞘の奥で息が詰まる。

    

 鞘の奥の動揺が伝わり、わたしは唇の端を吊り上げた。

「昔って。あなた、あのときのこと、まだ根に持ってるの?」

 

「仕方ないじゃない。試験勉強がんばるっていうから、家庭教師してあげたのに、あなたってすぐに寝ちゃうんだもの。目を覚ますのに刺激的な手段が必要だったのよ」

 

「ははっ、ごめんごめん。でも、あのときのあなたの顔ったら……今思い出しても笑えるわ」

 氷の冷たさと当時の笑い声が、記憶の底でふっと重なった。



 文句を言いながら、声音の端はどこかやわらかい。冗談まじりの脅しも、意地悪なお仕置きも、いまはふたりのあいだで転がしているだけの石ころになっていた。

 扉の隙間から夜風がそっと流れ込み、灯の炎が一度だけ伸びる。

 わたしの名は柚羽美鶴。けれどこの世界では、

 ミツル・グロンダイルと名乗っている。

 その名を外へ置けば、父を知る誰かが、いつか振り向くかもしれない。人目は苦手だ。それでも、ほかに道を知らない。

 腰の白きマウザーグレイルの鞘の奥に宿る彼女の名は、加茂野茉凜。薄酒の香と灯りの揺らぎのなかで、彼女の息が掌に残っていれば、それでよかった。



「なに?」

 

 木肌の丸みが指の腹を押し、冷えが爪の根へすっと沁みた。焦げ砂と獣脂の匂いが、口の奥からふっと立ちのぼる。

◇◇◇

 数刻前。

 空は薔薇から菫へ沈み、谷底の街は息を潜めていた。吹き抜ける風は氷の粒を含み、外套の裾を内側から叩く。岩肌は白く粉をふき、足もとで砂がざり、と硬く鳴った。

 高台の影から四つの背を見下ろしていた。先頭は大柄な若い剣士。鈍色の甲冑には今日の傷が沈み、背の大剣だけが夕闇の残り火をわずかに拾う。金の髪を結んだ弓使い。掌の魔石を握る若い魔術師。大鞄を肩へずらした老人。風が岩間を抜け、金具を擦り、乾いた砂の匂いを運んできた。

 突然、黒紫の群れが地平で盛り上がり、砂塵の波が四人へ走る。靴底の石が小さく鳴り、口の奥に鉄の味が滲んだ。大柄な剣士が背を守るように立ち止まり、肩へ剣を引き上げる。その線だけが、夕闇の手前で固く結ばれた。

 親指で柄頭を撫でる。鞘口の金属がかちりと触れ、内側の微震が手首へ移った。

「だめだ、救けなきゃ……」

 鍔がほんのり温み、微細な振動が皮膚をかすめる。



「……でも、また噂が膨らむかもしれないわ。それも三倍盛りの尾ひれ付きで」

 

 息がひとつ緩み、冷えていた頬に血が戻る。

「なによそれ。噂なんか盛られたって美味しいわけないでしょ。もう……茉凜って、そういうとこが図太いのよね」

 柄がくすぐったそうに震えた。

 

「……わ、わたしは基本ボッチだから。あんまり人目を引くのは嫌だし」



 一拍、掌に静かな鼓動が返る。



「……それ、ずるい言い方よね」



「……まったく、あなたには敵わないわ」

 掌の内側へ返る微かな脈動。それは呼吸より深く、心音より軽く、それでも確かに、わたしを繋いでくれた。



「何が女王よ。意味わかんない。……行くわよ、茉凜」

 岩の縁を蹴る。風が頬を洗い、足裏で砂が弾けた。谷の匂いが近づき、獣脂と砂の乾きが肺に薄く刺さる。

 崖を滑り降り、砂塵の帯へ斜めに割り込む。空気の密度が変わり、獣の鼻先が一瞬すくむ。四人と群れの線を断つように、わたしは前へ。白い息がほどけ、爪先だけがかすかに震えた。

「我が器に集え、精霊子よ! 来いっ、黒鶴っ!!」

 背後で空気が黒く滲み、翼めいた影が一瞬だけひらいた。質量のない圧が肌を打ち、獣脂の匂いへ焦げついた電気が混ざる。

 意識が奔る。見えない力が黒い波をまとめて押し返し、つづけて群れの動きがその場でぎくりと止まった。牙と爪がぶつかる重い音だけが、砂煙の向こうで暴れる。

 つづけて熱が跳ねた。押し留められた黒紫の塊の内側だけが赤く爆ぜ、炎が巻き上がる。熱が舌の味を変え、輪郭を焼き舐めていく。やがて風が焦げ跡へ新しい砂を敷くころ、世界はふたたび音を取り戻した。

 翼は影へ戻る。頬を撫でる風は冷たく、匂いだけが薄く残った。

「……みんな、大丈夫そうでよかった」

 口の奥で固まっていた息がゆるみ、手の内には黒鶴の余熱がごく薄く残る。

「あ、ああ……。おかげで助かった。本当に、ありがとう」

「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」

 剣士の背から老人が進み出る。衣擦れがひとつ、乾いた。

「お嬢さん……いや、お主もしや巷で噂の『黒髪のグロンダイル』ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠ると噂の──」

「ま、まぁ……そうだけど」

 狙い通りだ。名は確実に広まっている。

 そう思うたび、胃の奥にだけ薄い冷えが落ちる。けれど、他人の口でそれを聞くたび、自分の輪郭まで借り物みたいになる。

「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」

 唇を開きかけて閉じる。名を置く場所が見つからないまま、風が黒髪の端を持ち上げ、耳朶で小さな音が鳴った。焦げ跡で砂粒がさらさら転がり、焼けた熱が靴底へ戻ってくる。

 戦利品の魔石袋を若い剣士へ差し出すと、彼は頑なに首を振った。引っ込めれば、今度は両手で押し返される。砂の擦れる気配が掌に残り、結局、半分だけを押しつけて踵を返した。

 背へ、弓使いの女の声が飛ぶ。

「ありがとう。また会おうね!」

 耳の縁へ熱が差し、頬の内側に砂の細かなざらつきがまだ残っていた。

◇◇◇

「べつに食うに困らないだけの稼ぎがあれば、それでいいのよ」

 袋の結び目を締め直す感触で、記憶はゆっくり手放される。魔道ランプの灯が壁に揺れ、木床がかすかに軋む。袋の底で魔石が触れ合い、その冷えが掌へ移った。風は塩と鉄を運び、看板の鎖が一度だけ鳴る。門の外を、砂を曳く低い気配が時折通り過ぎ、匂いだけが残った。

「だいたい、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちが死ぬような思いをして得たものなんだから。半分にしたって多いくらいよ」

 袋の紐を摘み、意図的に視線をそらす。鞘の奥で彼女の笑いが弾み、紐をつまむ力だけが少し強くなった。



「何、その含み笑いは?」



 その温度が胸のうちへ射し込み、唇の端がほどけそうになるのを、わずかに噛んで堪えた。

「わたしは、そんな優しくなんかないわよ……」

 袋の結び目が掌に食い、爪の白みが静かに戻る。嘘ではない。そう思うのに、「優しい」と言われると返し方がわからない。視線だけが盃へ落ちた。

 けれど、鞘の奥の声は逃げない。手の内に、ちゃんと残っている。

 小さく吐息がこぼれる。薄酒の酔いが、雲の上へ浮かぶみたいに身体を包んだ。

 そのとき。

 扉の隙間を抜けた風が頬を撫で、近づく気配が静かな夜気に混じった。沈みかけていた意識が、すっと引き戻される。

 戸口の鈴が、ちり、と鳴る。

 煤けた外套の匂いが風といっしょに入り込む。鞘の奥はまだ何も告げない。それでも、盃を持つ手が止まり、息の出口が細くなった。

 顔を上げる。灯が揺れ、夜の酒場の輪郭がふわりとほどける。

 石畳を渡る靴音が、戸口の向こうで止まった。

 つぎの拍、灯の揺れの先に、肩の広い男の影が立った。


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 塔の小鈴が鳴った。
 その音を知らず、黒髪のわたしは、辺境都市エレダンの外れの酒場で盃を傾けていた。
 市場の喧騒はもう遠い。小さな酒場には魔道ランプの紫苑色が滲み、古びた木壁と卓の木目をやわらかな灯が静かに撫でている。笑い声の底で、戸の掛け金を確かめる硬い音が、ときどき混じった。
 手元には、光を吸った木製の盃。淡い液が甘い酸味を立ちのぼらせ、鼻先をかすめていく。
 水の濁る季節だから、ここでは葡萄酒を水で割った薄酒が常になる。慣れていないはずなのに、今夜は喉の通りが妙に軽かった。
 理由は、腰に下げた剣だった。鞘の奥の彼女が夜ごと「飲もう、飲もう」とわたしの意識を揺らしてくる。盃が空くたび、背後の気配が少しだけ緩み、手もとを急かす。木肌の丸みが爪の根へ触れ、冷えが一度だけ骨へ沁みた。今日の稼ぎは袋の底で冷えているのに、わたしのほうが先に軽くなっていく。
「いい? もうこの一杯だけだからね」
 盃の縁をそっとなぞり、冷たい木肌と液体の境目へ意識を落とす。
《《えーっ!? だって明日は休むんでしょ? あと二杯くらい、いいじゃないの》》
 鞘の留め金がちり、と鳴り、わがままな余韻が腰骨に響いた。
「に、二杯って……少しは節度を持ちなさい。あなたが気分良くても、気だるくなるのわたしの身体なのよ。明日はブーツをオーダーしに行くんだから、むくんだ脚で行きたくないでしょ」
 腰のあたりで金属がかすかに鳴り、剣の鞘が影の縁へ小さくずれた。
《《わかるけどさ……。じゃあ、あと一杯だけ、ね? お願いっ》》
 息が口の奥でほどける。柄へ触れれば、冷たい金属の向こうに、ねだる熱が小さく灯っていた。
 香りも味も、喉を落ちていく温度も、彼女はわたしの五感をそのまま引き受け、勝手に自分の愉しみに変えてしまう。
 腰には白きマウザーグレイル。両親が遺した唯一の絆であり、いまのわたしの重さでもある。鞘の内側には、縁あって共に来てしまった少女がいる。
 名を呼べば返事はすぐだ。けれど、触れていないはずの掌に、まだ彼女の息が残っている気がした。
「ほんとにもう……。どうしてあなたは、そんなにお酒が好きになっちゃったのかしらね?」
 杯の中で液面が小さく揺れる。灯の紫が水面へ溶け、波紋といっしょに広がっていった。
《《どうしてって? うふへへ……まぁ、いろいろあるのよ》》
 またそれ、と思い、首をわずかに振る。
 半年前、エレダンへ向かう旅路で、酒の匂いを吐く異様な木に呑まれかけたことがある。枝へ剣を寄せた途端、蔓に絡め取られ、濃い酒気に満ちた幹へ引きずり込まれた。茉凜は酔ったように笑い、わたしは異能の圧を炸裂させて抜け出した。
 あれ以来、酒の匂いが立つたび、鞘の奥が先にざわつく。
「その気持ち悪い笑い方で誤魔化さないで。元はと言えば、あなたのせいなんだから」
 柄を軽くコツンと叩くと、彼女の声が一段弾み、どこ吹く風とばかりにからかってくる。
《《ざんねんでしたー。今のわたしにはそんなの全然効きませーん》》
 唇を結ぶしかない。懲りたふりをしても、落ち着きのない気配がすぐ戻る。指先の冷えだけが残り、笑いは口の奥でひとつ止まった。
「へえ、じゃあ、呑んだくれの剣さんには、ヘルハウンドの巣窟で一晩過ごしてもらいましょうか。そこでたっぷり可愛がられたらいいわ。五感を共有しているんだから、わたしの視覚を通してその様子があなたにもよく見えるはずよ」
 声だけ明るくしておくと、鞘の奥で息が詰まる。
《《や、やめてよ! 今のわたしって剣の中だから何も感じないはずだけど……あんな毛むくじゃらの犬どもに囲まれて、一晩中とか? 想像しただけで無理っ! ああ、もろ悪夢よ! ていうか、あなた昔みたいにSっ気全開じゃない?》》
 鞘の奥の動揺が伝わり、わたしは唇の端を吊り上げた。
「昔って。あなた、あのときのこと、まだ根に持ってるの?」
《《あたりまえでしょ! わたし、あれ本当にびっくりしたんだから!》》
「仕方ないじゃない。試験勉強がんばるっていうから、家庭教師してあげたのに、あなたってすぐに寝ちゃうんだもの。目を覚ますのに刺激的な手段が必要だったのよ」
《《だからって、首に氷を当てたり机に剣山を仕込んだりする!? わたし、心臓が止まるかと思ったよ!》》
「ははっ、ごめんごめん。でも、あのときのあなたの顔ったら……今思い出しても笑えるわ」
 氷の冷たさと当時の笑い声が、記憶の底でふっと重なった。
《《ひ、ひどっ。そこがドSなんだってば!》》
 文句を言いながら、声音の端はどこかやわらかい。冗談まじりの脅しも、意地悪なお仕置きも、いまはふたりのあいだで転がしているだけの石ころになっていた。
 扉の隙間から夜風がそっと流れ込み、灯の炎が一度だけ伸びる。
 わたしの名は柚羽美鶴。けれどこの世界では、
 ミツル・グロンダイルと名乗っている。
 その名を外へ置けば、父を知る誰かが、いつか振り向くかもしれない。人目は苦手だ。それでも、ほかに道を知らない。
 腰の白きマウザーグレイルの鞘の奥に宿る彼女の名は、加茂野茉凜。薄酒の香と灯りの揺らぎのなかで、彼女の息が掌に残っていれば、それでよかった。
《《そうだ、美鶴》》
「なに?」
《《今日の取り分、あれでよかったの?? 全部貰っちゃってもよかったのに》》
 木肌の丸みが指の腹を押し、冷えが爪の根へすっと沁みた。焦げ砂と獣脂の匂いが、口の奥からふっと立ちのぼる。
◇◇◇
 数刻前。
 空は薔薇から菫へ沈み、谷底の街は息を潜めていた。吹き抜ける風は氷の粒を含み、外套の裾を内側から叩く。岩肌は白く粉をふき、足もとで砂がざり、と硬く鳴った。
 高台の影から四つの背を見下ろしていた。先頭は大柄な若い剣士。鈍色の甲冑には今日の傷が沈み、背の大剣だけが夕闇の残り火をわずかに拾う。金の髪を結んだ弓使い。掌の魔石を握る若い魔術師。大鞄を肩へずらした老人。風が岩間を抜け、金具を擦り、乾いた砂の匂いを運んできた。
 突然、黒紫の群れが地平で盛り上がり、砂塵の波が四人へ走る。靴底の石が小さく鳴り、口の奥に鉄の味が滲んだ。大柄な剣士が背を守るように立ち止まり、肩へ剣を引き上げる。その線だけが、夕闇の手前で固く結ばれた。
 親指で柄頭を撫でる。鞘口の金属がかちりと触れ、内側の微震が手首へ移った。
「だめだ、救けなきゃ……」
 鍔がほんのり温み、微細な振動が皮膚をかすめる。
《《うん。考える余地なんてないね》》
「……でも、また噂が膨らむかもしれないわ。それも三倍盛りの尾ひれ付きで」
《《それがどうしたの? 三倍盛りってお得感あるし》》
 息がひとつ緩み、冷えていた頬に血が戻る。
「なによそれ。噂なんか盛られたって美味しいわけないでしょ。もう……茉凜って、そういうとこが図太いのよね」
 柄がくすぐったそうに震えた。
《《『名前を売るのが目的』って言ってたの、誰だったっけ? 美鶴ってば矛盾してる〜》》
「……わ、わたしは基本ボッチだから。あんまり人目を引くのは嫌だし」
《《うん。でもさ――》》
 一拍、掌に静かな鼓動が返る。
《《わたしがいるじゃない?》》
「……それ、ずるい言い方よね」
《《ずるくていいの。うふへへへ》》
「……まったく、あなたには敵わないわ」
 掌の内側へ返る微かな脈動。それは呼吸より深く、心音より軽く、それでも確かに、わたしを繋いでくれた。
《《じゃあ、行こっか――うちの女王さま》》
「何が女王よ。意味わかんない。……行くわよ、茉凜」
 岩の縁を蹴る。風が頬を洗い、足裏で砂が弾けた。谷の匂いが近づき、獣脂と砂の乾きが肺に薄く刺さる。
 崖を滑り降り、砂塵の帯へ斜めに割り込む。空気の密度が変わり、獣の鼻先が一瞬すくむ。四人と群れの線を断つように、わたしは前へ。白い息がほどけ、爪先だけがかすかに震えた。
「我が器に集え、精霊子よ! 来いっ、黒鶴っ!!」
 背後で空気が黒く滲み、翼めいた影が一瞬だけひらいた。質量のない圧が肌を打ち、獣脂の匂いへ焦げついた電気が混ざる。
 意識が奔る。見えない力が黒い波をまとめて押し返し、つづけて群れの動きがその場でぎくりと止まった。牙と爪がぶつかる重い音だけが、砂煙の向こうで暴れる。
 つづけて熱が跳ねた。押し留められた黒紫の塊の内側だけが赤く爆ぜ、炎が巻き上がる。熱が舌の味を変え、輪郭を焼き舐めていく。やがて風が焦げ跡へ新しい砂を敷くころ、世界はふたたび音を取り戻した。
 翼は影へ戻る。頬を撫でる風は冷たく、匂いだけが薄く残った。
「……みんな、大丈夫そうでよかった」
 口の奥で固まっていた息がゆるみ、手の内には黒鶴の余熱がごく薄く残る。
「あ、ああ……。おかげで助かった。本当に、ありがとう」
「ううん、気にしないで。当然のことをしただけよ」
 剣士の背から老人が進み出る。衣擦れがひとつ、乾いた。
「お嬢さん……いや、お主もしや巷で噂の『黒髪のグロンダイル』ではないかな? 単独で、いかなる魔獣の大群をも屠ると噂の──」
「ま、まぁ……そうだけど」
 狙い通りだ。名は確実に広まっている。
 そう思うたび、胃の奥にだけ薄い冷えが落ちる。けれど、他人の口でそれを聞くたび、自分の輪郭まで借り物みたいになる。
「……やれやれ、年寄りの肝には毒じゃな」
 唇を開きかけて閉じる。名を置く場所が見つからないまま、風が黒髪の端を持ち上げ、耳朶で小さな音が鳴った。焦げ跡で砂粒がさらさら転がり、焼けた熱が靴底へ戻ってくる。
 戦利品の魔石袋を若い剣士へ差し出すと、彼は頑なに首を振った。引っ込めれば、今度は両手で押し返される。砂の擦れる気配が掌に残り、結局、半分だけを押しつけて踵を返した。
 背へ、弓使いの女の声が飛ぶ。
「ありがとう。また会おうね!」
 耳の縁へ熱が差し、頬の内側に砂の細かなざらつきがまだ残っていた。
◇◇◇
「べつに食うに困らないだけの稼ぎがあれば、それでいいのよ」
 袋の結び目を締め直す感触で、記憶はゆっくり手放される。魔道ランプの灯が壁に揺れ、木床がかすかに軋む。袋の底で魔石が触れ合い、その冷えが掌へ移った。風は塩と鉄を運び、看板の鎖が一度だけ鳴る。門の外を、砂を曳く低い気配が時折通り過ぎ、匂いだけが残った。
「だいたい、横から獲物を掠め取ったようなものじゃない。あの人たちが死ぬような思いをして得たものなんだから。半分にしたって多いくらいよ」
 袋の紐を摘み、意図的に視線をそらす。鞘の奥で彼女の笑いが弾み、紐をつまむ力だけが少し強くなった。
《《ふふ……》》
「何、その含み笑いは?」
《《いつものことだけどさ、美鶴は本当に優しいね》》
 その温度が胸のうちへ射し込み、唇の端がほどけそうになるのを、わずかに噛んで堪えた。
「わたしは、そんな優しくなんかないわよ……」
 袋の結び目が掌に食い、爪の白みが静かに戻る。嘘ではない。そう思うのに、「優しい」と言われると返し方がわからない。視線だけが盃へ落ちた。
 けれど、鞘の奥の声は逃げない。手の内に、ちゃんと残っている。
 小さく吐息がこぼれる。薄酒の酔いが、雲の上へ浮かぶみたいに身体を包んだ。
 そのとき。
 扉の隙間を抜けた風が頬を撫で、近づく気配が静かな夜気に混じった。沈みかけていた意識が、すっと引き戻される。
 戸口の鈴が、ちり、と鳴る。
 煤けた外套の匂いが風といっしょに入り込む。鞘の奥はまだ何も告げない。それでも、盃を持つ手が止まり、息の出口が細くなった。
 顔を上げる。灯が揺れ、夜の酒場の輪郭がふわりとほどける。
 石畳を渡る靴音が、戸口の向こうで止まった。
 つぎの拍、灯の揺れの先に、肩の広い男の影が立った。