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それでも行く理由

ー/ー



 暗い闇の向こうに、ランパがいる。

 勇斗は手を伸ばした。だが、距離は縮まらなかった。

 ランパの後ろ姿は、歩いているわけでもないのに、ゆっくりと遠ざかっていく。

 ランパ、行かないで。僕を置いていかないで。

 叫んだつもりだった。だが、声は闇に吸われ、形にならない。

 ランパはくるりと振り向き、白い歯を見せて笑った。

 ――大丈夫だって。

 ――言ったろ? オイラとユートはイッシンドータイだって。

 ――離れてても、オイラはユートの側にいるから。

 笑顔のまま、ランパの輪郭が闇に溶けていく。

 勇斗は必死で手を伸ばした。指先が空を掴む。届かなかった。

 そこで、勇斗は目を覚ました。

 息を吸う。冷たい空気が肺に入り、意識がはっきりした。ゆっくりと体を起こすと、ヴェンに穿たれたはずの胴の穴は、すでに塞がっていた。

 周囲を見回す。森だった。すぐ近くに湖がある。この場所を、勇斗は知っていた。異世界に来て、最初に目を覚ました場所だ。

 視線を落とすと、精霊樹の枝が目に入った。そっと拾い上げる。

 ランパ――

「勇斗にいちゃん!」

 声に振り向く。そこにいたのは、漆黒の鎧をまとった少年――夏野真弘だった。傍らでは、シグネリア王女が静かな寝息を立てている。

「僕たち、どうしてここに?」

「わからない。気づいたら、この森にいた」

 一体誰が転送したのか。だが、それを考えるより先に、聞かなければならないことがあった。

「真弘くん、正気に戻ったんだね。でも、どうして君が魔神に」

「それは……」

 真弘は、途切れ途切れに語り始めた。

 神社の地下で紅い球に触れた瞬間、肉体を置き去りにされ、魂だけが時空の歪みに引きずり込まれたこと。次元の狭間をさまよう中で、声をかけられたこと。

 ――ようやく、同じ孤独を見つけた。

 気づけば、魔神として異世界の大地に立っていた。

 真弘は、自我が少しずつ削れていく恐怖に怯えながらも、元の世界へ帰る方法を探し続けた。だが――やがて、自分が自分でなくなっていった。

「おれ、怖かった」

 真弘は、うずくまって頭を抱えた。

「どうしようもなかった。操られてた。でも、手を動かしたのは……おれだから」

 声が震える。

「やったことは、わかってる。でも、取り消せない。謝っても、戻れない」

 真弘は、それだけ言って黙り込んだ。

「真弘くん」

 勇斗は歩み寄り、真弘の鎧の肩当てに手を置いた。

「終わったことは、戻らない。でも、ここから先は、選べると思う」

 真弘が、ゆっくりと顔を上げる。

「いっしょに、家に帰ろう。光太が待ってる」

「勇斗にいちゃん」

 白と黒が反転した瞳から、涙が静かにこぼれ、頬を伝って落ちた。

「……ここは、どこ?」

 シグネリアが、静かに身を起こした。自分の腕や胸元に触れながら、ゆっくりと周囲を見回す。

「シグネリア、目を覚ましたんだね」

「ええ、ありがとう。確か、私は――」

 記憶をたどるように眉を寄せ、言葉を探しているようだった。

「魔神の城に連れて行かれて、それから――」

 そこで、視線が真弘に向いた。

 短い悲鳴。シグネリアは反射的に身を引き、大きく目を見開いた。目の前にいるのは、自分を攫った魔神と同じ姿の少年だった。

「大丈夫。正気に戻ってる」

 勇斗は落ち着いた声で続けた。魔神の正体が、自分の親友の弟であること。そして今は、闇の支配から解放されていること。

 シグネリアは、しばらく真弘を見つめていた。警戒と戸惑いが入り混じった沈黙。やがて、彼女の肩がほんの少し下がった。

「そうだったのね」

 シグネリアは、真弘に一歩近づいた。顔を改めて覗き込む。

「……そう。こうして見ると、可愛いわね」

 真弘の角に、シグネリアの指先がそっと触れた。

「わあっ!」

 真弘の顔が、みるみるうちに赤く染まった。視線を逸らし、もじもじと体を縮こまらせる。

「そ、それより」

 勇斗が口を開きかけた、その時だった。

「トゥーレ……いえ、ヴェンのこと、でしょう?」

 シグネリアは背筋を正し、表情を引き締めた。先ほどまでの柔らかさが、一瞬で消える。

「牢の中から聞いていました。正直、混乱しています。彼は王国に仕え、私たちを導く立場にあった魔術師でした。その地位と知識を使い、国を、いえ、世界を危険に晒した。許されることではありません」

 シグネリアは、震えを押さえ込むように胸に手を当てた。

「ソレイン王国の王女として、本来なら私が裁くべき存在です。しかし、私にはその力がない」

 シグネリアは、まっすぐに勇斗を見た。

「ユート。ヴェンを止められるのは、あなただけだと思っています。終わらせてください。誰かに命じられたからではなく――あなた自身の判断で」

 心臓が、耳の奥で強く鳴った。

 ヴェンを止められるかどうかは、わからない。

 それでも、行かない理由はなかった。

 ランパを助けたい。それだけで、十分だった。

 勇斗は、ゆっくりと首を縦に振った。
 

 森は、異質な空気に覆われていた。以前歩いた時とは、まるで別の場所だ。紫色の空から降り注ぐ歪んだ光が、黒々とした葉を不気味に照らしている。

 風は確かに吹いている。だが、葉擦れの音がしない。鳥の声も、虫の羽音もない。静かすぎる。鼻をつくのは、鉄と樹液が混ざったような匂いだった。生き物の気配は消え、森そのものがゆっくり腐っていた。森は、もう生きていなかった。

 草が、わずかに揺れた。勇斗は反射的に足を止め、剣に手をかける。とっさに足元へ視線を走らせた。

 あっ、と真弘が小さく声を上げた。

 草をかき分けて姿を現したのは、全身を赤い鱗に覆われた、掌ほどの大きさの小さな竜だった。鋭い爪を持ちながら、歩き方はどこか危なっかしい。二本の脚で、ちょこちょこと歩いてくる。襲ってくる気配はなかった。

 小竜は立ち止まると、きょろりと周囲を見回した。次の瞬間、小さな翼をばたつかせ、真弘の頭の上へ跳び乗った。

「え?」

 間の抜けた声が、シグネリアの口から漏れる。

 小竜は真弘の頭に収まり、満足そうに喉を鳴らした。

「その子は?」

 シグネリアが、半信半疑の視線を向ける。

「飛竜。おれの、友達」

 真弘は少しだけ胸を張ると、小竜を頭に乗せたまま歩き出した。

「今は小さくなってるけど、いつでも大きくなれるって」

 しばらく歩いていると、前方に塔の入り口が見えてきた。見張りの塔だ。

「ここに、ロンさんが住んでいる」

「まぁ、ロンが。隠居しているとは聞いていたけど、こんなところに住んでいるなんて」

 シグネリアは、落ち着いた調子でそう言った。

 塔の内部は、静寂に包まれていた。勇斗にとっては、懐かしい場所だった。異世界に来て間もない頃、ここで修行をした。あれから、どれだけ時が過ぎただろうか。

 螺旋階段を上り、塔の頂上へとたどり着く。屋上には、一軒の小屋があった。

 勇斗が扉を叩くと、やがて小屋の扉が開いた。中から顔を出したのは、オル族の老人――ロンだった。

「ホッホ。誰かと思いきや、ユートか……ん?」

 ロンの目が、大きく見開かれる。

「……少し見ないうちに、随分と変わったの。さぞかし、大変だったんじゃろうな」

 そう言って、ロンはしわしわの手で、勇斗の鎧の肩当てにそっと触れた。ぽん、と軽く叩く。その動作には、いたわるような重さがあった。

「お久しぶりです、ロン様」

「おお、シグネリア様。ご無事でしたか。それで、そちらの少年は?」

 ロンの視線が、真弘へと向く。

「おれは、夏野真弘です」

 真弘は、少し照れたように名乗った。

「マヒロか。立ち話もなんじゃ。中で話を聞こう。この世界の変化も、気になるところじゃ」

 ロンは天を仰いだ。紫色の空が、妖しく稲光をまとっている。

 事情を聞き終えたロンは、難しい顔で低く唸った。

「……まさか、始祖精霊ヴェンが、この世に蘇るとはのぉ。それで、ユート。お主は――あの小さい精霊を助けるため、ヴェンの元へ向かうのじゃな」

「はい」

「勝機はあるのか?」

 勇斗は、視線を伏せた。

「……ありません」

 正直な答えだった。

「それでも、行かなければならないんです。ランパを、助けたいから」

「じゃがの」

 ロンは、ゆっくりと首を振る。

「相手は、得体の知れない力を得ておる。行ったところで、無駄死にするだけじゃぞ」

 勇斗は、強く歯を食いしばった。何も言い返せず、拳を握りしめる。

 力が欲しい。ランパに、もう一度手を伸ばせるだけの力が。

 直後、聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが、同時に強い光を放った。

「おお、これは」

 ロンの眉が、はね上がる。

 勇斗の周囲を、四色の光が旋回する。光は一瞬だけ空中で揺らぎ、次の瞬間、一斉に小屋の外へ飛び出した。

「待って!」

 勇斗は反射的に叫び、外へ駆け出した。

 暗黒の空の下、赤、青、緑、茶色の四つの光が浮かんでいた。重なり合う声が、空気そのものを震わせる。

 ――お前は、何を望む。

 勇斗は、すぐには答えなかった。一瞬だけ視線を伏せ、それから、はっきりと顔を上げる。

「助けたい人がいる」

 ――それは、世界を救うという意味か。

「世界のことは、正直、わからない。でも、ランパがあそこにいる。それだけは、はっきりしてる」

 ――その者を救うために、何かを失ってもよいと思うか。

 勇斗は、息を吸った。

「わからない。でも――」

 言葉を選ぶように、少し間を置く。

「何も失わずに済むとは思ってない。それでも、ランパに手を伸ばす前に、立ち止まりたくない」

 ――ならば、来い。

 四つの光が、ゆっくりと距離を詰める。

 ――その手が、何度引き裂かれても、なお伸び続けるか。もし折れれば、お前はここで終わる。

 勇斗は、一歩も退かなかった。迷いなくうなずく。

 足元の感覚が消え、世界が一歩ぶん遠のいた。時間の輪郭が溶けはじめる。
 

 気づくと、勇斗は異空間に立っていた。上下の感覚は定まらない。視界はひたすら広く、どこまでも何もない。世界は、白とも黒ともつかない色に滲んでいた。

 声が、空間そのものから降り注ぐ。

 ――この空間の時は停滞している。どれほど時間を費やしても、元の世界では、ほとんど経過していないだろう。

 勇斗の視界の先で、白い煙がゆっくりと凝集しはじめた。

 煙はやがて、人型の塊――ゴーレムへと変化する。石とも水晶ともつかない表面。目も口も存在しない。右には大きな拳。左には大きな剣。

 ――それは我らが分身。倒すことができれば、元の空間に戻そう。さあ、緑の煙をまとい、刃を抜くがいい。

 勇斗はマントの内から、一本のドラシガーを選び取った。ラクメトの灰色の宝珠が放つ炎で着火すると、緑の煙が静かに立ち昇る。咥えたまま、彼は聖剣クトネシスを解き放った。

 直後、勇斗の胸に衝撃が走った。内部で何かが砕けた。理解する前に、視界が暗転した。

 目を開けると、同じ場所だった。

 痛みはない。呼吸もできる。だが、胸の中心に、確かな空白が残っている。

 ――死ねば、やり直しだ。

 四大の声が、空間そのものに響く。

 ――先ほど砕いたのは、お前の内側に存在する核、ラマシル。外から取り込んだマナを、生存と戦闘に変換する中枢だ。他の部位が潰されようと、煙とラマシルがある限り、生き永らえる。だが、ラマシルが砕ければ、そこで終わる。

 勇斗は震えた。

 ――さあ、再び構えよ。ゴーレムは、お前の命を狙う。

 勇斗は再び、緑の煙をまとった。精霊眼に映し出されるのは、無限の線。

 今度は、首が横へ弾かれた。音はしない。ただ、視界だけが傾く。倒れる前に、意識が切れた。

 三回目。踏み出す。足元が消える。落下ではない。足場そのものが消えた。内臓が浮き、肺の位置が狂い、思考だけが遅れて残る。そのまま、潰れた。

 避ける。避けたはずの位置で、腹部が熱を持つ。斬られた感触が、遅れて来る。斬られたと理解する前に、傷だけがそこにあった。

 次は受け切ろうとした。結果は同じだった。骨が砕ける感覚だけが、やけに鮮明に残る。

 踏み出す。死ぬ。避ける。死ぬ。耐える。死ぬ。斬られる。潰される。折られる。裂かれる。砕かれる――

 恐怖は、何度も死ぬうちに鈍っていった。代わりに残ったのは、焦りだった。

 どうすればいい。どうすれば――

 考えた瞬間、頭部が弾ける。

 またか、と口にした瞬間、勇斗は戦慄した。声に、感情が乗っていなかった。死に、慣れ始めている。

 ある時は、何もされないまま終わった。近づいた瞬間、心臓が止まる。理由はわからない。間違えただけだ。

 またある時は、背後に回られたことすらわからず、呼吸だけが切断された。苦しさが、長く続いた。

 やがて、感情が薄れる。まず消えたのは、恐怖に揺れる心そのものだった。

 臓器を潰されても、意識は先に状況を観察していた。

 次は、ここが弱い。そう考えた瞬間、視界が途切れる。考えた瞬間に、死ぬ。

 思考を最小限にし、剣を振るい続けた。何回戻ったか、途中で数えるのは諦めた。

 最後の周回で、ゴーレムは動かなくなった。勇斗も、動かなかった。

 死んだ回数は、一万二千回。体感時間は、九年あまりだった。


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 暗い闇の向こうに、ランパがいる。
 勇斗は手を伸ばした。だが、距離は縮まらなかった。
 ランパの後ろ姿は、歩いているわけでもないのに、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ランパ、行かないで。僕を置いていかないで。
 叫んだつもりだった。だが、声は闇に吸われ、形にならない。
 ランパはくるりと振り向き、白い歯を見せて笑った。
 ――大丈夫だって。
 ――言ったろ? オイラとユートはイッシンドータイだって。
 ――離れてても、オイラはユートの側にいるから。
 笑顔のまま、ランパの輪郭が闇に溶けていく。
 勇斗は必死で手を伸ばした。指先が空を掴む。届かなかった。
 そこで、勇斗は目を覚ました。
 息を吸う。冷たい空気が肺に入り、意識がはっきりした。ゆっくりと体を起こすと、ヴェンに穿たれたはずの胴の穴は、すでに塞がっていた。
 周囲を見回す。森だった。すぐ近くに湖がある。この場所を、勇斗は知っていた。異世界に来て、最初に目を覚ました場所だ。
 視線を落とすと、精霊樹の枝が目に入った。そっと拾い上げる。
 ランパ――
「勇斗にいちゃん!」
 声に振り向く。そこにいたのは、漆黒の鎧をまとった少年――夏野真弘だった。傍らでは、シグネリア王女が静かな寝息を立てている。
「僕たち、どうしてここに?」
「わからない。気づいたら、この森にいた」
 一体誰が転送したのか。だが、それを考えるより先に、聞かなければならないことがあった。
「真弘くん、正気に戻ったんだね。でも、どうして君が魔神に」
「それは……」
 真弘は、途切れ途切れに語り始めた。
 神社の地下で紅い球に触れた瞬間、肉体を置き去りにされ、魂だけが時空の歪みに引きずり込まれたこと。次元の狭間をさまよう中で、声をかけられたこと。
 ――ようやく、同じ孤独を見つけた。
 気づけば、魔神として異世界の大地に立っていた。
 真弘は、自我が少しずつ削れていく恐怖に怯えながらも、元の世界へ帰る方法を探し続けた。だが――やがて、自分が自分でなくなっていった。
「おれ、怖かった」
 真弘は、うずくまって頭を抱えた。
「どうしようもなかった。操られてた。でも、手を動かしたのは……おれだから」
 声が震える。
「やったことは、わかってる。でも、取り消せない。謝っても、戻れない」
 真弘は、それだけ言って黙り込んだ。
「真弘くん」
 勇斗は歩み寄り、真弘の鎧の肩当てに手を置いた。
「終わったことは、戻らない。でも、ここから先は、選べると思う」
 真弘が、ゆっくりと顔を上げる。
「いっしょに、家に帰ろう。光太が待ってる」
「勇斗にいちゃん」
 白と黒が反転した瞳から、涙が静かにこぼれ、頬を伝って落ちた。
「……ここは、どこ?」
 シグネリアが、静かに身を起こした。自分の腕や胸元に触れながら、ゆっくりと周囲を見回す。
「シグネリア、目を覚ましたんだね」
「ええ、ありがとう。確か、私は――」
 記憶をたどるように眉を寄せ、言葉を探しているようだった。
「魔神の城に連れて行かれて、それから――」
 そこで、視線が真弘に向いた。
 短い悲鳴。シグネリアは反射的に身を引き、大きく目を見開いた。目の前にいるのは、自分を攫った魔神と同じ姿の少年だった。
「大丈夫。正気に戻ってる」
 勇斗は落ち着いた声で続けた。魔神の正体が、自分の親友の弟であること。そして今は、闇の支配から解放されていること。
 シグネリアは、しばらく真弘を見つめていた。警戒と戸惑いが入り混じった沈黙。やがて、彼女の肩がほんの少し下がった。
「そうだったのね」
 シグネリアは、真弘に一歩近づいた。顔を改めて覗き込む。
「……そう。こうして見ると、可愛いわね」
 真弘の角に、シグネリアの指先がそっと触れた。
「わあっ!」
 真弘の顔が、みるみるうちに赤く染まった。視線を逸らし、もじもじと体を縮こまらせる。
「そ、それより」
 勇斗が口を開きかけた、その時だった。
「トゥーレ……いえ、ヴェンのこと、でしょう?」
 シグネリアは背筋を正し、表情を引き締めた。先ほどまでの柔らかさが、一瞬で消える。
「牢の中から聞いていました。正直、混乱しています。彼は王国に仕え、私たちを導く立場にあった魔術師でした。その地位と知識を使い、国を、いえ、世界を危険に晒した。許されることではありません」
 シグネリアは、震えを押さえ込むように胸に手を当てた。
「ソレイン王国の王女として、本来なら私が裁くべき存在です。しかし、私にはその力がない」
 シグネリアは、まっすぐに勇斗を見た。
「ユート。ヴェンを止められるのは、あなただけだと思っています。終わらせてください。誰かに命じられたからではなく――あなた自身の判断で」
 心臓が、耳の奥で強く鳴った。
 ヴェンを止められるかどうかは、わからない。
 それでも、行かない理由はなかった。
 ランパを助けたい。それだけで、十分だった。
 勇斗は、ゆっくりと首を縦に振った。
 森は、異質な空気に覆われていた。以前歩いた時とは、まるで別の場所だ。紫色の空から降り注ぐ歪んだ光が、黒々とした葉を不気味に照らしている。
 風は確かに吹いている。だが、葉擦れの音がしない。鳥の声も、虫の羽音もない。静かすぎる。鼻をつくのは、鉄と樹液が混ざったような匂いだった。生き物の気配は消え、森そのものがゆっくり腐っていた。森は、もう生きていなかった。
 草が、わずかに揺れた。勇斗は反射的に足を止め、剣に手をかける。とっさに足元へ視線を走らせた。
 あっ、と真弘が小さく声を上げた。
 草をかき分けて姿を現したのは、全身を赤い鱗に覆われた、掌ほどの大きさの小さな竜だった。鋭い爪を持ちながら、歩き方はどこか危なっかしい。二本の脚で、ちょこちょこと歩いてくる。襲ってくる気配はなかった。
 小竜は立ち止まると、きょろりと周囲を見回した。次の瞬間、小さな翼をばたつかせ、真弘の頭の上へ跳び乗った。
「え?」
 間の抜けた声が、シグネリアの口から漏れる。
 小竜は真弘の頭に収まり、満足そうに喉を鳴らした。
「その子は?」
 シグネリアが、半信半疑の視線を向ける。
「飛竜。おれの、友達」
 真弘は少しだけ胸を張ると、小竜を頭に乗せたまま歩き出した。
「今は小さくなってるけど、いつでも大きくなれるって」
 しばらく歩いていると、前方に塔の入り口が見えてきた。見張りの塔だ。
「ここに、ロンさんが住んでいる」
「まぁ、ロンが。隠居しているとは聞いていたけど、こんなところに住んでいるなんて」
 シグネリアは、落ち着いた調子でそう言った。
 塔の内部は、静寂に包まれていた。勇斗にとっては、懐かしい場所だった。異世界に来て間もない頃、ここで修行をした。あれから、どれだけ時が過ぎただろうか。
 螺旋階段を上り、塔の頂上へとたどり着く。屋上には、一軒の小屋があった。
 勇斗が扉を叩くと、やがて小屋の扉が開いた。中から顔を出したのは、オル族の老人――ロンだった。
「ホッホ。誰かと思いきや、ユートか……ん?」
 ロンの目が、大きく見開かれる。
「……少し見ないうちに、随分と変わったの。さぞかし、大変だったんじゃろうな」
 そう言って、ロンはしわしわの手で、勇斗の鎧の肩当てにそっと触れた。ぽん、と軽く叩く。その動作には、いたわるような重さがあった。
「お久しぶりです、ロン様」
「おお、シグネリア様。ご無事でしたか。それで、そちらの少年は?」
 ロンの視線が、真弘へと向く。
「おれは、夏野真弘です」
 真弘は、少し照れたように名乗った。
「マヒロか。立ち話もなんじゃ。中で話を聞こう。この世界の変化も、気になるところじゃ」
 ロンは天を仰いだ。紫色の空が、妖しく稲光をまとっている。
 事情を聞き終えたロンは、難しい顔で低く唸った。
「……まさか、始祖精霊ヴェンが、この世に蘇るとはのぉ。それで、ユート。お主は――あの小さい精霊を助けるため、ヴェンの元へ向かうのじゃな」
「はい」
「勝機はあるのか?」
 勇斗は、視線を伏せた。
「……ありません」
 正直な答えだった。
「それでも、行かなければならないんです。ランパを、助けたいから」
「じゃがの」
 ロンは、ゆっくりと首を振る。
「相手は、得体の知れない力を得ておる。行ったところで、無駄死にするだけじゃぞ」
 勇斗は、強く歯を食いしばった。何も言い返せず、拳を握りしめる。
 力が欲しい。ランパに、もう一度手を伸ばせるだけの力が。
 直後、聖剣クトネシスと精霊器ラクメトが、同時に強い光を放った。
「おお、これは」
 ロンの眉が、はね上がる。
 勇斗の周囲を、四色の光が旋回する。光は一瞬だけ空中で揺らぎ、次の瞬間、一斉に小屋の外へ飛び出した。
「待って!」
 勇斗は反射的に叫び、外へ駆け出した。
 暗黒の空の下、赤、青、緑、茶色の四つの光が浮かんでいた。重なり合う声が、空気そのものを震わせる。
 ――お前は、何を望む。
 勇斗は、すぐには答えなかった。一瞬だけ視線を伏せ、それから、はっきりと顔を上げる。
「助けたい人がいる」
 ――それは、世界を救うという意味か。
「世界のことは、正直、わからない。でも、ランパがあそこにいる。それだけは、はっきりしてる」
 ――その者を救うために、何かを失ってもよいと思うか。
 勇斗は、息を吸った。
「わからない。でも――」
 言葉を選ぶように、少し間を置く。
「何も失わずに済むとは思ってない。それでも、ランパに手を伸ばす前に、立ち止まりたくない」
 ――ならば、来い。
 四つの光が、ゆっくりと距離を詰める。
 ――その手が、何度引き裂かれても、なお伸び続けるか。もし折れれば、お前はここで終わる。
 勇斗は、一歩も退かなかった。迷いなくうなずく。
 足元の感覚が消え、世界が一歩ぶん遠のいた。時間の輪郭が溶けはじめる。
 気づくと、勇斗は異空間に立っていた。上下の感覚は定まらない。視界はひたすら広く、どこまでも何もない。世界は、白とも黒ともつかない色に滲んでいた。
 声が、空間そのものから降り注ぐ。
 ――この空間の時は停滞している。どれほど時間を費やしても、元の世界では、ほとんど経過していないだろう。
 勇斗の視界の先で、白い煙がゆっくりと凝集しはじめた。
 煙はやがて、人型の塊――ゴーレムへと変化する。石とも水晶ともつかない表面。目も口も存在しない。右には大きな拳。左には大きな剣。
 ――それは我らが分身。倒すことができれば、元の空間に戻そう。さあ、緑の煙をまとい、刃を抜くがいい。
 勇斗はマントの内から、一本のドラシガーを選び取った。ラクメトの灰色の宝珠が放つ炎で着火すると、緑の煙が静かに立ち昇る。咥えたまま、彼は聖剣クトネシスを解き放った。
 直後、勇斗の胸に衝撃が走った。内部で何かが砕けた。理解する前に、視界が暗転した。
 目を開けると、同じ場所だった。
 痛みはない。呼吸もできる。だが、胸の中心に、確かな空白が残っている。
 ――死ねば、やり直しだ。
 四大の声が、空間そのものに響く。
 ――先ほど砕いたのは、お前の内側に存在する核、ラマシル。外から取り込んだマナを、生存と戦闘に変換する中枢だ。他の部位が潰されようと、煙とラマシルがある限り、生き永らえる。だが、ラマシルが砕ければ、そこで終わる。
 勇斗は震えた。
 ――さあ、再び構えよ。ゴーレムは、お前の命を狙う。
 勇斗は再び、緑の煙をまとった。精霊眼に映し出されるのは、無限の線。
 今度は、首が横へ弾かれた。音はしない。ただ、視界だけが傾く。倒れる前に、意識が切れた。
 三回目。踏み出す。足元が消える。落下ではない。足場そのものが消えた。内臓が浮き、肺の位置が狂い、思考だけが遅れて残る。そのまま、潰れた。
 避ける。避けたはずの位置で、腹部が熱を持つ。斬られた感触が、遅れて来る。斬られたと理解する前に、傷だけがそこにあった。
 次は受け切ろうとした。結果は同じだった。骨が砕ける感覚だけが、やけに鮮明に残る。
 踏み出す。死ぬ。避ける。死ぬ。耐える。死ぬ。斬られる。潰される。折られる。裂かれる。砕かれる――
 恐怖は、何度も死ぬうちに鈍っていった。代わりに残ったのは、焦りだった。
 どうすればいい。どうすれば――
 考えた瞬間、頭部が弾ける。
 またか、と口にした瞬間、勇斗は戦慄した。声に、感情が乗っていなかった。死に、慣れ始めている。
 ある時は、何もされないまま終わった。近づいた瞬間、心臓が止まる。理由はわからない。間違えただけだ。
 またある時は、背後に回られたことすらわからず、呼吸だけが切断された。苦しさが、長く続いた。
 やがて、感情が薄れる。まず消えたのは、恐怖に揺れる心そのものだった。
 臓器を潰されても、意識は先に状況を観察していた。
 次は、ここが弱い。そう考えた瞬間、視界が途切れる。考えた瞬間に、死ぬ。
 思考を最小限にし、剣を振るい続けた。何回戻ったか、途中で数えるのは諦めた。
 最後の周回で、ゴーレムは動かなくなった。勇斗も、動かなかった。
 死んだ回数は、一万二千回。体感時間は、九年あまりだった。