崩壊の序曲
ー/ー シトレ岬の先端に、トゥーレ――否、ヴェンは立っていた。
眼下で、海が黒くうねっている。
ヴェンは、自分の右腕を見下ろした。黒ずんだ皮膚の下で、模様が蠢いている。蛇の胴のように脈打ち、内側から肉を押し広げていた。確かめるように指を動かすと、模様が応じる。
口元が歪む。喉の奥から、低く濁った笑いがこぼれた。
「ここまで、長かった」
チキサの攻撃を受ける直前、ヴェンは自らの肉体を切り離した。滅びを避けるための、当然の選択だった。
地上へ墜ちたヴェンの断片は、長い時を経て一本の杖へと変じた。
古木にも鉱石にも見える、不自然な質感の黒い杖。軸はわずかにねじれ、表面には木目とも鱗ともつかぬ模様が走る。先端には縦長の宝石が埋め込まれていた。濁った暗紅色。光を反射することなく、ただ吸い込むように鈍く輝いている。
ヴェンは、自身を拾い上げる者を待った。時間など問題ではなかった。完全に力を取り戻し、チキサに復讐できるなら。
やがて、一人の人間が杖に触れた。次の瞬間、その肉体は膨張し、破裂した。血と肉片が地に散り、残ったのは、何事もなかったかのように横たわる杖だけ。
――耐えられなかったか。
失望すら覚えなかった。
その後も、依代を試し続けた。女、子供、老人。触れ、流し込み、壊れる。幾度となく繰り返した。
大地が動き、文明が芽吹き、滅びる。そのすべてを、ヴェンは見上げていた。
杖は、ある時は砂に埋もれ、ある時は雪原に沈んだ。
そして――
トゥーレという少年が、杖を拾った。傍らには、ペックと名乗る精霊がいた。
触れられた瞬間、理解した。この器は、違う。
少年の体は素質に満ちていた。幼少の頃から魔法に目覚め、その力を拒むことなく受け入れている。歪みも、脆さもない。
ヴェンは、迷わず侵食を始めた。
心地よかった。これほどまでに波長の合う器は、これまでなかった。
契約精霊の内部にも、ヴェンの力が流れ込む。拒絶はない。抵抗もない。
少年と精霊。二つの器の奥底に、ヴェンは静かに住み着いた。復讐のための、完璧な揺籃として。
ヴェンは、トゥーレとしてソレイン王国の魔道士となった。
人間に紛れるのは、造作もない。彼らは権威と肩書きを好む。少しばかり力を見せれば、容易く頭を垂れた。
封じられていた魔神を解き放つのも、時間の問題だった。
我が最高傑作。かつて創り上げた、力の塊。その力を奪えば、一気に復活できる。そう踏んでいた。
だが、魔神の力は想像を超えていた。今の器では制御できない。力を奪うどころか、正面からでは太刀打ちすらできなかった。
ヴェンは、即座に理解し、そして切り替えた。
待つべき時だ。魔神を弱らせる者の到来を。
やがて、勇者が現れた。名を、アルトという。
精霊によって鍛え上げられた武具を身にまとい、魔神に届く力を持つ、唯一の存在。
使える。
アルトに魔神を倒させ、その直後に始末する。弱り切った魔神の力を、丸ごと吸い上げる。
完璧な筋書きだった。
ヴェンは、優しい師を演じた。穏やかな声で魔法を教え、成長を喜び、背を押した。内心では、常に嗤っていた。
やがてアルトは、魔神討伐の旅に出た。ヴェンは師として同行し、最終局面で細工を施した。
魔神の居城。アルト一人だけを、魔神の前へ転送する。
あとは、終わるまで待つだけだった。
だが、事態は歪んだ。
魔神とアルトが、消えた。
どこへ行った? どういう理屈だ?
思考が、わずかに乱れる。計算が、合わない。
ヴェンは即座に立て直した。トゥーレとして、ソレイン王に「アルト行方不明」を報告する。
ホルタで、魔神が討たれたのち別の器で再誕していると知ったとき、ヴェンはわずかに眉を動かした――想定外ではあるが、修正不能な誤差ではない。
その直後、ユートと出会った。アルトと、瓜二つの少年。
彼の口から語られた、次元の向こうの世界。
瞬間、体の奥からぞわぞわするものがこみ上がった。
この世界と、もう一つの世界。両方を手に入れる。
想像しただけで、口元が緩んだ。
さらに、ランパという精霊がチキサの力の一部を宿していると知る。
その瞬間、最後の欠片がはまった。
ヴェンは、閉じていた目をゆっくりと開けた。
計画は、概ね順調だ。クラバンの介入は想定外だったが、転送とペックによる回復で狂いは修正できた。
ペック――?
一瞬、思考が止まる。
その名が何を指していたのか、もう思い出せなかった。重要でないのなら、それでいい。
ヴェンは右手を上げ、水平線の彼方へ向ける。
海が、沈んだ。沈む、という言葉では足りない。遠方の海面が、上から押し潰されたかのように、静かに落ち込む。周囲の水が遅れて引きずられ、円を描きながら吸い寄せられていく。
やがて、海が盛り上がる。逃げ場を失った水が裂け、深海から引き剥がされるような鈍い轟音が、岬にまで届いた。
黒赤い塊が、姿を現す。
歪んだ地塊が海を割ってせり上がり、無理やり空気に晒される。樹皮と岩と骨が絡み合った表面から、滝のように海水が流れ落ちた。島の底面から伸びた根が、生き物の脚のように蠢いている。
ヴェンは、短く息を吐いた。
「そうだ。世界を支える必要などない」
中央に、巨大な物体が現れる。精霊樹の名残を持つそれは、幹を塔の形へと歪め、空を貫いた。裂けた樹皮の奥で、赤黒い結晶が脈打つ。
ドクン――
低い衝撃が、岬の岩肌を震わせる。ヴェンの足元で、小石が跳ねた。
ドクン――
もう一度。世界が、その鼓動を聞いた。
海が一斉に押し戻され、巨大な波となって広がっていく。
すべてが逆光になる。
ヴェンの瞳に、赤黒い光が映り込んだ。
「創造とは、選別だ」
彼は、岬の先で小さく笑う。
「残るものと、消えるものを分ける――それだけの行為にすぎない」
風が吹く。声は掻き消され、海へ落ちた。
「さあ、抗ってみせろ。世界」
◆
アルトは、教室の机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を見ていた。どんよりとした曇り空。光はあるのに、どこか重たい。
一昨日、廃校舎の地下で出会ったヤトという少年の言葉が、頭から離れなかった。
――今は長く喋れる状態じゃない。時が来たら、山に登ってくれ。
その時とは、いつだ。何が起きるというんだ。アルトは無意識に唇を噛んだ。
それに、ヤトという名前。以前、光太から聞いた神様の名と同じだ。翼まで生えていた。本物なのか。
アルトは椅子にもたれかかり、両腕を組んだ。
美咲のことも、心配だった。誘拐されたあとから、彼女は小さな物音にも過剰に反応するようになった。夜、眠れず、不安が抜けないらしい。医師は「急性ストレス障害」だと言っていた。
事件は終わったはずなのに、美咲の中ではまだ終わっていない。何事もなかったように教室へ戻れる日が来ればいい。そう願わずにはいられなかった。
晴れない気分を押し込み、教科書に目を落とす。
その直後だった。
前の席の男子が、急に顔色を変え、机に手をついた。めまいと吐き気を訴え、保健室へ向かう。続けて、女子が二人、頭痛を訴えた。
教室が、ざわつく。
「静かにしなさい」
教師の声が飛んだ。
その時、床がかすかに鳴った。ぎしり、と、古い建物が軋むような音。
誰かが椅子を引きずったのかと思った、その直後、揺れた。横に、ゆっくりと押されるような感覚。突き上げではない。引きずられるような、不自然な揺れだった。
「地震だ!」
誰かが叫ぶと同時に、スマートフォンから緊急地震アラートが鳴り響いた。甲高い警告音が、教室の空気を切り裂く。
「机の下に隠れなさい!」
アルトは反射的に机の下へもぐり込んだ。
揺れが、強くなる。
机の脚が、がたがたと震える。床が波打つように感じられ、胃の奥が持ち上げられる。黒板のチョークが落ち、窓ガラスが小刻みに鳴った。天井の蛍光灯が、大きく揺れている。
だが、どこかおかしい。揺れは強いのに、音が少ない。衝撃が遠い。まるで、地面そのものが、ゆっくりと位置をずらしているような感覚だった。
数秒後、揺れはすっと引いた。嘘のように、静かになる。教室には、荒い呼吸と、ひそひそとした声だけが残った。大きな被害はない。物も、ほとんど落ちていない。それなのに、アルトの胸には、言いようのない違和感が残っていた。
机の下から這い出して、窓の外を見る。
空が、一瞬、歪んだ。
眼下で、海が黒くうねっている。
ヴェンは、自分の右腕を見下ろした。黒ずんだ皮膚の下で、模様が蠢いている。蛇の胴のように脈打ち、内側から肉を押し広げていた。確かめるように指を動かすと、模様が応じる。
口元が歪む。喉の奥から、低く濁った笑いがこぼれた。
「ここまで、長かった」
チキサの攻撃を受ける直前、ヴェンは自らの肉体を切り離した。滅びを避けるための、当然の選択だった。
地上へ墜ちたヴェンの断片は、長い時を経て一本の杖へと変じた。
古木にも鉱石にも見える、不自然な質感の黒い杖。軸はわずかにねじれ、表面には木目とも鱗ともつかぬ模様が走る。先端には縦長の宝石が埋め込まれていた。濁った暗紅色。光を反射することなく、ただ吸い込むように鈍く輝いている。
ヴェンは、自身を拾い上げる者を待った。時間など問題ではなかった。完全に力を取り戻し、チキサに復讐できるなら。
やがて、一人の人間が杖に触れた。次の瞬間、その肉体は膨張し、破裂した。血と肉片が地に散り、残ったのは、何事もなかったかのように横たわる杖だけ。
――耐えられなかったか。
失望すら覚えなかった。
その後も、依代を試し続けた。女、子供、老人。触れ、流し込み、壊れる。幾度となく繰り返した。
大地が動き、文明が芽吹き、滅びる。そのすべてを、ヴェンは見上げていた。
杖は、ある時は砂に埋もれ、ある時は雪原に沈んだ。
そして――
トゥーレという少年が、杖を拾った。傍らには、ペックと名乗る精霊がいた。
触れられた瞬間、理解した。この器は、違う。
少年の体は素質に満ちていた。幼少の頃から魔法に目覚め、その力を拒むことなく受け入れている。歪みも、脆さもない。
ヴェンは、迷わず侵食を始めた。
心地よかった。これほどまでに波長の合う器は、これまでなかった。
契約精霊の内部にも、ヴェンの力が流れ込む。拒絶はない。抵抗もない。
少年と精霊。二つの器の奥底に、ヴェンは静かに住み着いた。復讐のための、完璧な揺籃として。
ヴェンは、トゥーレとしてソレイン王国の魔道士となった。
人間に紛れるのは、造作もない。彼らは権威と肩書きを好む。少しばかり力を見せれば、容易く頭を垂れた。
封じられていた魔神を解き放つのも、時間の問題だった。
我が最高傑作。かつて創り上げた、力の塊。その力を奪えば、一気に復活できる。そう踏んでいた。
だが、魔神の力は想像を超えていた。今の器では制御できない。力を奪うどころか、正面からでは太刀打ちすらできなかった。
ヴェンは、即座に理解し、そして切り替えた。
待つべき時だ。魔神を弱らせる者の到来を。
やがて、勇者が現れた。名を、アルトという。
精霊によって鍛え上げられた武具を身にまとい、魔神に届く力を持つ、唯一の存在。
使える。
アルトに魔神を倒させ、その直後に始末する。弱り切った魔神の力を、丸ごと吸い上げる。
完璧な筋書きだった。
ヴェンは、優しい師を演じた。穏やかな声で魔法を教え、成長を喜び、背を押した。内心では、常に嗤っていた。
やがてアルトは、魔神討伐の旅に出た。ヴェンは師として同行し、最終局面で細工を施した。
魔神の居城。アルト一人だけを、魔神の前へ転送する。
あとは、終わるまで待つだけだった。
だが、事態は歪んだ。
魔神とアルトが、消えた。
どこへ行った? どういう理屈だ?
思考が、わずかに乱れる。計算が、合わない。
ヴェンは即座に立て直した。トゥーレとして、ソレイン王に「アルト行方不明」を報告する。
ホルタで、魔神が討たれたのち別の器で再誕していると知ったとき、ヴェンはわずかに眉を動かした――想定外ではあるが、修正不能な誤差ではない。
その直後、ユートと出会った。アルトと、瓜二つの少年。
彼の口から語られた、次元の向こうの世界。
瞬間、体の奥からぞわぞわするものがこみ上がった。
この世界と、もう一つの世界。両方を手に入れる。
想像しただけで、口元が緩んだ。
さらに、ランパという精霊がチキサの力の一部を宿していると知る。
その瞬間、最後の欠片がはまった。
ヴェンは、閉じていた目をゆっくりと開けた。
計画は、概ね順調だ。クラバンの介入は想定外だったが、転送とペックによる回復で狂いは修正できた。
ペック――?
一瞬、思考が止まる。
その名が何を指していたのか、もう思い出せなかった。重要でないのなら、それでいい。
ヴェンは右手を上げ、水平線の彼方へ向ける。
海が、沈んだ。沈む、という言葉では足りない。遠方の海面が、上から押し潰されたかのように、静かに落ち込む。周囲の水が遅れて引きずられ、円を描きながら吸い寄せられていく。
やがて、海が盛り上がる。逃げ場を失った水が裂け、深海から引き剥がされるような鈍い轟音が、岬にまで届いた。
黒赤い塊が、姿を現す。
歪んだ地塊が海を割ってせり上がり、無理やり空気に晒される。樹皮と岩と骨が絡み合った表面から、滝のように海水が流れ落ちた。島の底面から伸びた根が、生き物の脚のように蠢いている。
ヴェンは、短く息を吐いた。
「そうだ。世界を支える必要などない」
中央に、巨大な物体が現れる。精霊樹の名残を持つそれは、幹を塔の形へと歪め、空を貫いた。裂けた樹皮の奥で、赤黒い結晶が脈打つ。
ドクン――
低い衝撃が、岬の岩肌を震わせる。ヴェンの足元で、小石が跳ねた。
ドクン――
もう一度。世界が、その鼓動を聞いた。
海が一斉に押し戻され、巨大な波となって広がっていく。
すべてが逆光になる。
ヴェンの瞳に、赤黒い光が映り込んだ。
「創造とは、選別だ」
彼は、岬の先で小さく笑う。
「残るものと、消えるものを分ける――それだけの行為にすぎない」
風が吹く。声は掻き消され、海へ落ちた。
「さあ、抗ってみせろ。世界」
◆
アルトは、教室の机に肘をつき、ぼんやりと窓の外を見ていた。どんよりとした曇り空。光はあるのに、どこか重たい。
一昨日、廃校舎の地下で出会ったヤトという少年の言葉が、頭から離れなかった。
――今は長く喋れる状態じゃない。時が来たら、山に登ってくれ。
その時とは、いつだ。何が起きるというんだ。アルトは無意識に唇を噛んだ。
それに、ヤトという名前。以前、光太から聞いた神様の名と同じだ。翼まで生えていた。本物なのか。
アルトは椅子にもたれかかり、両腕を組んだ。
美咲のことも、心配だった。誘拐されたあとから、彼女は小さな物音にも過剰に反応するようになった。夜、眠れず、不安が抜けないらしい。医師は「急性ストレス障害」だと言っていた。
事件は終わったはずなのに、美咲の中ではまだ終わっていない。何事もなかったように教室へ戻れる日が来ればいい。そう願わずにはいられなかった。
晴れない気分を押し込み、教科書に目を落とす。
その直後だった。
前の席の男子が、急に顔色を変え、机に手をついた。めまいと吐き気を訴え、保健室へ向かう。続けて、女子が二人、頭痛を訴えた。
教室が、ざわつく。
「静かにしなさい」
教師の声が飛んだ。
その時、床がかすかに鳴った。ぎしり、と、古い建物が軋むような音。
誰かが椅子を引きずったのかと思った、その直後、揺れた。横に、ゆっくりと押されるような感覚。突き上げではない。引きずられるような、不自然な揺れだった。
「地震だ!」
誰かが叫ぶと同時に、スマートフォンから緊急地震アラートが鳴り響いた。甲高い警告音が、教室の空気を切り裂く。
「机の下に隠れなさい!」
アルトは反射的に机の下へもぐり込んだ。
揺れが、強くなる。
机の脚が、がたがたと震える。床が波打つように感じられ、胃の奥が持ち上げられる。黒板のチョークが落ち、窓ガラスが小刻みに鳴った。天井の蛍光灯が、大きく揺れている。
だが、どこかおかしい。揺れは強いのに、音が少ない。衝撃が遠い。まるで、地面そのものが、ゆっくりと位置をずらしているような感覚だった。
数秒後、揺れはすっと引いた。嘘のように、静かになる。教室には、荒い呼吸と、ひそひそとした声だけが残った。大きな被害はない。物も、ほとんど落ちていない。それなのに、アルトの胸には、言いようのない違和感が残っていた。
机の下から這い出して、窓の外を見る。
空が、一瞬、歪んだ。
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