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渡世人

ー/ー



 雨が降り頻る中、一軒の屋敷にエリシアが訪れた。



 傘を外のドアに立てかけると、彼女は姿勢を低くして厳かな声で告げた。



「——の親分一家とお見受けしますわ。」



 玄関先で迎えた男は、静かに両手をつき、黙ってエリシアの話を聞いている。



「この度は一宿一飯のお取り持ちに預かりとうございます。」

「……」



 男は無言のままだが、その目には真剣な光が宿っている。



「向かいます上様とは初の御見でございます。手前、名はエリシアと申しますわ。親分なしの子分なし。未熟者でございます。お見知りありまして、万端よろしくお頼み申し上げます。」



 エリシアの言葉に応じるように、男は頭を下げて答えた。



「手前、世話人のサブローと申します。お見知りおかれまして、お引き立てお頼み申します。」



 重い空気の中、雨音だけが静かに響く。エリシアとサブローの間には、見えない緊張の糸が張り詰めていた。




「どうぞ、お手を上げなすって。」

「いえ、上様の方からお上げなさって。」



「では同時に。」



 ——スゥ。



 二人が同時に姿勢を正し、緊張が少し緩む。

 許しを得たエリシアは、静かにサブローに近寄り、懐から何かを取り出した。



 ——パサ。



 取り出したのは、イヴ・サンローランのハンカチだった。



「なにかと心得ましたが……生憎急ぎの旅でございまして……この御姉さんの勝手元……お手拭きなど……お納めくださいませ。」



 その言葉に、サブローは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに恭しく頭を下げ、受け取った。



「ご丁寧な挨拶、有難う存じます。」



 雨音が続く中、二人のやり取りは静かに終わった。玄関先の空気は、一層厳かなものになっていた。



 エリシアは屋敷に上がり、サブローに案内されて通路を歩いていた。



「先客がございまして、相部屋ですがご容赦ください。」

「結構ですわ。」



 エリシアは静かにうなずくと、案内された部屋の扉が開けられた。



 ——ガラ。



 部屋の中には、旅人の身なりをした男が一人、座っていた。くたびれた外套をまとい、腰には何かが隠されているような風貌。

 男はエリシアに視線を向けると、少しだけ体を動かして軽く会釈した。



「どうぞ。」

「失礼いたしますわ。」



 エリシアは軽く頭を下げると、静かに部屋へ足を踏み入れた。

 二人の間にはまだ何の言葉も交わされないまま、部屋には重い沈黙が漂っていた。



 それからしばらくして——。



 ——ガラ。



「客人方、飯の支度ができましたので——。」



 扉が開き、食事が配膳された。



 品は、炊き立ての飯、湯気の立つ味噌汁、こんがり焼かれた魚、そして香の物。どれも質素ながら、丁寧に作られた食事だった。



 エリシアと旅人は静かに箸を手に取る前に、それぞれ懐から半紙を取り出した。



 これは焼き魚の骨を持ち帰るための包み紙だ。ここでは、出された食事は全て残さず食べ、魚の骨すら持ち帰るのが渡世人の心得とされていた。

 二人は無言で箸を進める。魚の身を一切残さず、丁寧に骨を外し、慎重に半紙に包み込む。



「……」



 言葉が交わされることはなく、部屋には箸が器に触れる音と、味噌汁をすする音だけが静かに響いていた。



 旅人は無言で茶碗に手を添えると、飯の真ん中をくり抜いて食べた。



 ——スッ。



「作法に適ったおかわり、恐縮でございます。」



 世話人が恭しく言葉を添えながら、旅人の茶碗に新しい飯をよそった。



 渡世人の場合、飯は一膳だけではなく、大盛りの二膳を食べるのが通例とされている。

 しかし、どうしても食べきれない場合は、一膳目の真ん中をくり抜いて食べ、それをおかわりして二膳分とする作法がある。



 旅人は再び箸を取り、静かに飯を食べ進めていく。



 エリシアはその様子を横目で見ながら、口を開くことはなかったが、ちらりと自身の茶碗を見つめ、考え込むような表情を浮かべていた。



 だが——。



 エリシアは飯を目の前にして、なぜか少し考え込むような素振りを見せた。箸を手に持ったまま、眉をひそめ、何かを思案している。



「……」



 周囲が静まり返る中、エリシアは散々うなった挙句、絞り出すように言った。



「——たま……」

「今何とおっしゃいましたか?」



 世話人が聞き返す。エリシアは堂々と答えた。





「ふりかけ……『のりたま』あります?」





「……」
「……」



 一瞬、部屋全体の空気が凍りついた。



 そして次の瞬間、エリシアは世話人たちに連れられ、静かにつまみ出されていった。



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 雨が降り頻る中、一軒の屋敷にエリシアが訪れた。
 傘を外のドアに立てかけると、彼女は姿勢を低くして厳かな声で告げた。
「——の親分一家とお見受けしますわ。」
 玄関先で迎えた男は、静かに両手をつき、黙ってエリシアの話を聞いている。
「この度は一宿一飯のお取り持ちに預かりとうございます。」
「……」
 男は無言のままだが、その目には真剣な光が宿っている。
「向かいます上様とは初の御見でございます。手前、名はエリシアと申しますわ。親分なしの子分なし。未熟者でございます。お見知りありまして、万端よろしくお頼み申し上げます。」
 エリシアの言葉に応じるように、男は頭を下げて答えた。
「手前、世話人のサブローと申します。お見知りおかれまして、お引き立てお頼み申します。」
 重い空気の中、雨音だけが静かに響く。エリシアとサブローの間には、見えない緊張の糸が張り詰めていた。
「どうぞ、お手を上げなすって。」
「いえ、上様の方からお上げなさって。」
「では同時に。」
 ——スゥ。
 二人が同時に姿勢を正し、緊張が少し緩む。
 許しを得たエリシアは、静かにサブローに近寄り、懐から何かを取り出した。
 ——パサ。
 取り出したのは、イヴ・サンローランのハンカチだった。
「なにかと心得ましたが……生憎急ぎの旅でございまして……この御姉さんの勝手元……お手拭きなど……お納めくださいませ。」
 その言葉に、サブローは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに恭しく頭を下げ、受け取った。
「ご丁寧な挨拶、有難う存じます。」
 雨音が続く中、二人のやり取りは静かに終わった。玄関先の空気は、一層厳かなものになっていた。
 エリシアは屋敷に上がり、サブローに案内されて通路を歩いていた。
「先客がございまして、相部屋ですがご容赦ください。」
「結構ですわ。」
 エリシアは静かにうなずくと、案内された部屋の扉が開けられた。
 ——ガラ。
 部屋の中には、旅人の身なりをした男が一人、座っていた。くたびれた外套をまとい、腰には何かが隠されているような風貌。
 男はエリシアに視線を向けると、少しだけ体を動かして軽く会釈した。
「どうぞ。」
「失礼いたしますわ。」
 エリシアは軽く頭を下げると、静かに部屋へ足を踏み入れた。
 二人の間にはまだ何の言葉も交わされないまま、部屋には重い沈黙が漂っていた。
 それからしばらくして——。
 ——ガラ。
「客人方、飯の支度ができましたので——。」
 扉が開き、食事が配膳された。
 品は、炊き立ての飯、湯気の立つ味噌汁、こんがり焼かれた魚、そして香の物。どれも質素ながら、丁寧に作られた食事だった。
 エリシアと旅人は静かに箸を手に取る前に、それぞれ懐から半紙を取り出した。
 これは焼き魚の骨を持ち帰るための包み紙だ。ここでは、出された食事は全て残さず食べ、魚の骨すら持ち帰るのが渡世人の心得とされていた。
 二人は無言で箸を進める。魚の身を一切残さず、丁寧に骨を外し、慎重に半紙に包み込む。
「……」
 言葉が交わされることはなく、部屋には箸が器に触れる音と、味噌汁をすする音だけが静かに響いていた。
 旅人は無言で茶碗に手を添えると、飯の真ん中をくり抜いて食べた。
 ——スッ。
「作法に適ったおかわり、恐縮でございます。」
 世話人が恭しく言葉を添えながら、旅人の茶碗に新しい飯をよそった。
 渡世人の場合、飯は一膳だけではなく、大盛りの二膳を食べるのが通例とされている。
 しかし、どうしても食べきれない場合は、一膳目の真ん中をくり抜いて食べ、それをおかわりして二膳分とする作法がある。
 旅人は再び箸を取り、静かに飯を食べ進めていく。
 エリシアはその様子を横目で見ながら、口を開くことはなかったが、ちらりと自身の茶碗を見つめ、考え込むような表情を浮かべていた。
 だが——。
 エリシアは飯を目の前にして、なぜか少し考え込むような素振りを見せた。箸を手に持ったまま、眉をひそめ、何かを思案している。
「……」
 周囲が静まり返る中、エリシアは散々うなった挙句、絞り出すように言った。
「——たま……」
「今何とおっしゃいましたか?」
 世話人が聞き返す。エリシアは堂々と答えた。
「ふりかけ……『のりたま』あります?」
「……」
「……」
 一瞬、部屋全体の空気が凍りついた。
 そして次の瞬間、エリシアは世話人たちに連れられ、静かにつまみ出されていった。