第196話 世界樹に導かれ
ー/ー 目の前が霞んで見えた。真っ白い霧の中に迷い込んでしまったかのように、全てが白に染まって、何もかもが塗りつぶされてしまったかのよう。
そんな何処までも続く、霧の向こうに、何か、巨大な……、見上げてもてっぺんの見えない、そんな樹木が天を覆い尽くさんばかりにそびえ立っていた――。
「――っちゃん! さっちゃん!」
「……む?」
よくよく見るとそこにいたのはリコリスだ。教会の奥の部屋でティータイムを嗜んでいるところだった。今、我の意識が飛んでいたのか?
「急にぼんやりとしてどうしたの? まるで魂が抜けかけた顔だったわ」
「おそらく本当に抜けかけたのだろうな……」
これはまずいな。臨死体験という奴だろうか。
となると、今見えた巨木は世界樹か?
いよいよもって我を引きずり込もうとしているらしい。
気を抜いたら魂が抜けるのか。ここまで早いとはな。
なんだか少しずつ身体の感覚が消失していくようだ。
さっきまでは苦痛に苛まれていたが、今はもう熱くもなく、寒くもない。
肉体が自分のものように感じられない。まるで鉛を羽織っているかのよう。
「もうお別れの時間も近いようね。私、悲しいわ。とても悲しくて涙が止まらなくなってしまうわ。さっちゃん。死なないように死ぬほど踏ん張って。お願い」
リコリスも余裕がなくなってきたのが分かる。
もっとも、一番余裕がないのは我なのだが。
先にミモザのところに行くべきだったのだろうか。
今さらそんな後悔しても遅い。今から教会を出ても入れ違いになるかもしれんし、道ばたで倒れてしまうだろう。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。
「リコリス。我の最期の頼みは、忘れていないな?」
「忘れるわけがないわ。忘れないように忘れさせるから」
また、視界がぼんやりとしてきた。
さっきよりもまたくっきりと世界樹が見えてしまう。
ダメだ。まだミモザに最期の別れを告げていない。
こんな中途半端に別れてたまるものか。死んでも死に切れん。
ええい、マルペルはどうしたんだ。早くしないと逝ってしまうぞ!
「さっちゃん、まだ生きてる? もう逝った?」
「辛うじて生きているつもりだが、さすがに意識が、朦朧としてきたな」
手や足は、まだ動かすことができる。ただ自分のものであるという感覚がない。
魂だけが肉体から剥離していっているのだろう。
以前勇者の剣で殺されたときは全身を焼かれるような苦痛にのたうちまわったが、魂が消滅するというのはこういうことなのだな。
もはや視界の端に、世界樹が映り込んだままになっている。
どっちが今の我にとっての現実なのか区別つかなくなってしまいそうだ。
聞こえてくる声も、音も、水中に放り込まれたみたいに遠く、くぐもっている。
『――ぃぃぃしゃああぁぁ……ん……』
なんか、果てしなく遠い彼方から、声が聞こえる気がした。
聞き馴染んだ声。忘れるはずもない声。
「フィーしゃあああん!!」
「ミモザ!」
今度はハッキリと聞こえた。教会の正面玄関の方からだ。
我は言葉通りに、身体を引きずるようにして、聖堂へと急いだ。
動ける。まだ、動けるぞ。
霞がかる視界の中、確実に前に進んでいく。
不格好だったかもしれないが、そんなことを気にする余裕もない。
教会の中央にある神の像を背に、我は赤絨毯の先に立つミモザの姿を見た。
床には信心深いものたちが頭を垂れているが知るものか。
「み、ミモザ……」
「フィーしゃん!」
思わず平衡感覚を失い我の身体は大きく揺れたが、次の瞬間ふわりと宙に浮いた。
否、駆けつけてきたミモザが我の身体を抱きかかえたのだ。
「フィーしゃん……、こんなに弱って……、そんな……どうして」
「すまなかった、ミモザ。話すことができなかったんだ」
何を言おう。何を話そう。何をどう話したら正解なんだ。
どんな言葉を口にすればミモザの大粒の涙を止めることができるのか。
「バカバカバカ! フィーしゃんのバカぁ!」
ミモザが我の懐に顔をうずめる。こんなに叱咤されたのは、初めてではないか。
痛覚はとうにないはずなのに心臓に穴が空いてしまったのかと思うほど痛かった。
「私、治癒できる魔具作りましゅから! どんな病気でも治せる薬作りますから! もう少し、もう少しだけ、待っててくらさい!」
「ふふ……材料も持っておらぬくせにどうやって作るつもりだ。もう我は手遅れだ」
仮に肉体を治す魔具や薬を完成させたところで、魂だけはどうしようもあるまい。
こんなミモザの顔を見るくらいなら、何も言わずに何処か遠くに姿を眩ませた方がよかっただろうか。いや、それでも我は最期に、ミモザの顔を見て逝きたかった。
「許してくれミモザ。我は悲しみを引きずったまま、ともに過ごしたくはなかった。何処までも平穏な時間を歩んでいきたかったのだ。お前と二人で」
もうすぐ死ぬなんて打ち明けたら、死ぬ瞬間まで悲しみに明け暮れていたかもしれない。そんなのはどうしようもなく辛いと思ったから、何も言えないままでいた。
だが今、こうして泣きじゃくるミモザを見ていたら間違っていることに気付いた。
もっと違う形もあったのかもしれない。そんな後悔が重くのし掛かる。
「本当は……分かってましら。フィーしゃんの魂が弱っているの」
「何?」
「フィーしゃんがずっと秘密にしてるから、ずっと黙ってたのれす」
「魂を視るなんて、並大抵のことではできんぞ。ふふ……本当に優れた力だ。お前にはずっと驚かされる。初めて市場で会ったあのときから……」
「ふぃ、フィーさん……」
ああ、もうそろそろ目が見えなくなってきた。
世界樹が我をそっちへと引きずり込もうとしている。
これ以上現世に留まるな、と言っているようだ。
視界に映るミモザの後ろにあの王冠が見えた。そこには誰もいないはずだったが、我の目にはどういうわけかその王冠を被るロータスの姿が見えた。
奇しくも、ここはあの勇者ロータスが息を引き取った場所。
まるであのときと真逆のようではないか。
今度はそこにいるはずのないロータスに看取られているようだ。
「ミモザ、今までありがとう。こんなに悲しませるなんて我はとんだ悪役令嬢だな」
「フィーさん……、私、まだフィーさんとお話ししたいことが沢山――」
「ふはははは……、我もだ。お前と出会ってからの日々なぞ数千年生きた我にとってほんの一瞬にすぎなかったのだからな。もっとミモザの傍にいたかった」
心苦しいが、もうこれ以上は無理そうだ。
ミモザに抱き返すこともできない。
「リコリス。そこにいるか? あとのことは、頼んだぞ」
「逝かないでよ、さっちゃん……」
「泣くな。ミモザもお前もいずれ世界樹に導かれれば会えるだろう。それまで、我は枝葉としてお前らを見守っていてやる。約束だ」
二人分の泣きじゃくる声が聞こえてきて、そこから先、急速に全身からありとあらゆるものが抜け出していく感覚に襲われ、自分が消失していくのが分かった。
ミモザに触れる感覚もない。リコリスの声も聞こえない。
我の視界の全てが完全に白い霧に包まれて、それまでぼやけていた巨木の輪郭が、明瞭に見えてくる。あたかも遙かなる高見から我を見下ろすような、端の見えない、世界樹が視界いっぱいに広がる。
とても長い、長い一生だった。あまりにも長く生きてきた。
悪役として幕を閉じるのも使命だと思っていたが、終わってみるとこんなものか。
ようやく、我は死を迎え、そして受け入れることができた。
我の物語は、これでおしまいだ。それだけはハッキリしている。
そんな何処までも続く、霧の向こうに、何か、巨大な……、見上げてもてっぺんの見えない、そんな樹木が天を覆い尽くさんばかりにそびえ立っていた――。
「――っちゃん! さっちゃん!」
「……む?」
よくよく見るとそこにいたのはリコリスだ。教会の奥の部屋でティータイムを嗜んでいるところだった。今、我の意識が飛んでいたのか?
「急にぼんやりとしてどうしたの? まるで魂が抜けかけた顔だったわ」
「おそらく本当に抜けかけたのだろうな……」
これはまずいな。臨死体験という奴だろうか。
となると、今見えた巨木は世界樹か?
いよいよもって我を引きずり込もうとしているらしい。
気を抜いたら魂が抜けるのか。ここまで早いとはな。
なんだか少しずつ身体の感覚が消失していくようだ。
さっきまでは苦痛に苛まれていたが、今はもう熱くもなく、寒くもない。
肉体が自分のものように感じられない。まるで鉛を羽織っているかのよう。
「もうお別れの時間も近いようね。私、悲しいわ。とても悲しくて涙が止まらなくなってしまうわ。さっちゃん。死なないように死ぬほど踏ん張って。お願い」
リコリスも余裕がなくなってきたのが分かる。
もっとも、一番余裕がないのは我なのだが。
先にミモザのところに行くべきだったのだろうか。
今さらそんな後悔しても遅い。今から教会を出ても入れ違いになるかもしれんし、道ばたで倒れてしまうだろう。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ。
「リコリス。我の最期の頼みは、忘れていないな?」
「忘れるわけがないわ。忘れないように忘れさせるから」
また、視界がぼんやりとしてきた。
さっきよりもまたくっきりと世界樹が見えてしまう。
ダメだ。まだミモザに最期の別れを告げていない。
こんな中途半端に別れてたまるものか。死んでも死に切れん。
ええい、マルペルはどうしたんだ。早くしないと逝ってしまうぞ!
「さっちゃん、まだ生きてる? もう逝った?」
「辛うじて生きているつもりだが、さすがに意識が、朦朧としてきたな」
手や足は、まだ動かすことができる。ただ自分のものであるという感覚がない。
魂だけが肉体から剥離していっているのだろう。
以前勇者の剣で殺されたときは全身を焼かれるような苦痛にのたうちまわったが、魂が消滅するというのはこういうことなのだな。
もはや視界の端に、世界樹が映り込んだままになっている。
どっちが今の我にとっての現実なのか区別つかなくなってしまいそうだ。
聞こえてくる声も、音も、水中に放り込まれたみたいに遠く、くぐもっている。
『――ぃぃぃしゃああぁぁ……ん……』
なんか、果てしなく遠い彼方から、声が聞こえる気がした。
聞き馴染んだ声。忘れるはずもない声。
「フィーしゃあああん!!」
「ミモザ!」
今度はハッキリと聞こえた。教会の正面玄関の方からだ。
我は言葉通りに、身体を引きずるようにして、聖堂へと急いだ。
動ける。まだ、動けるぞ。
霞がかる視界の中、確実に前に進んでいく。
不格好だったかもしれないが、そんなことを気にする余裕もない。
教会の中央にある神の像を背に、我は赤絨毯の先に立つミモザの姿を見た。
床には信心深いものたちが頭を垂れているが知るものか。
「み、ミモザ……」
「フィーしゃん!」
思わず平衡感覚を失い我の身体は大きく揺れたが、次の瞬間ふわりと宙に浮いた。
否、駆けつけてきたミモザが我の身体を抱きかかえたのだ。
「フィーしゃん……、こんなに弱って……、そんな……どうして」
「すまなかった、ミモザ。話すことができなかったんだ」
何を言おう。何を話そう。何をどう話したら正解なんだ。
どんな言葉を口にすればミモザの大粒の涙を止めることができるのか。
「バカバカバカ! フィーしゃんのバカぁ!」
ミモザが我の懐に顔をうずめる。こんなに叱咤されたのは、初めてではないか。
痛覚はとうにないはずなのに心臓に穴が空いてしまったのかと思うほど痛かった。
「私、治癒できる魔具作りましゅから! どんな病気でも治せる薬作りますから! もう少し、もう少しだけ、待っててくらさい!」
「ふふ……材料も持っておらぬくせにどうやって作るつもりだ。もう我は手遅れだ」
仮に肉体を治す魔具や薬を完成させたところで、魂だけはどうしようもあるまい。
こんなミモザの顔を見るくらいなら、何も言わずに何処か遠くに姿を眩ませた方がよかっただろうか。いや、それでも我は最期に、ミモザの顔を見て逝きたかった。
「許してくれミモザ。我は悲しみを引きずったまま、ともに過ごしたくはなかった。何処までも平穏な時間を歩んでいきたかったのだ。お前と二人で」
もうすぐ死ぬなんて打ち明けたら、死ぬ瞬間まで悲しみに明け暮れていたかもしれない。そんなのはどうしようもなく辛いと思ったから、何も言えないままでいた。
だが今、こうして泣きじゃくるミモザを見ていたら間違っていることに気付いた。
もっと違う形もあったのかもしれない。そんな後悔が重くのし掛かる。
「本当は……分かってましら。フィーしゃんの魂が弱っているの」
「何?」
「フィーしゃんがずっと秘密にしてるから、ずっと黙ってたのれす」
「魂を視るなんて、並大抵のことではできんぞ。ふふ……本当に優れた力だ。お前にはずっと驚かされる。初めて市場で会ったあのときから……」
「ふぃ、フィーさん……」
ああ、もうそろそろ目が見えなくなってきた。
世界樹が我をそっちへと引きずり込もうとしている。
これ以上現世に留まるな、と言っているようだ。
視界に映るミモザの後ろにあの王冠が見えた。そこには誰もいないはずだったが、我の目にはどういうわけかその王冠を被るロータスの姿が見えた。
奇しくも、ここはあの勇者ロータスが息を引き取った場所。
まるであのときと真逆のようではないか。
今度はそこにいるはずのないロータスに看取られているようだ。
「ミモザ、今までありがとう。こんなに悲しませるなんて我はとんだ悪役令嬢だな」
「フィーさん……、私、まだフィーさんとお話ししたいことが沢山――」
「ふはははは……、我もだ。お前と出会ってからの日々なぞ数千年生きた我にとってほんの一瞬にすぎなかったのだからな。もっとミモザの傍にいたかった」
心苦しいが、もうこれ以上は無理そうだ。
ミモザに抱き返すこともできない。
「リコリス。そこにいるか? あとのことは、頼んだぞ」
「逝かないでよ、さっちゃん……」
「泣くな。ミモザもお前もいずれ世界樹に導かれれば会えるだろう。それまで、我は枝葉としてお前らを見守っていてやる。約束だ」
二人分の泣きじゃくる声が聞こえてきて、そこから先、急速に全身からありとあらゆるものが抜け出していく感覚に襲われ、自分が消失していくのが分かった。
ミモザに触れる感覚もない。リコリスの声も聞こえない。
我の視界の全てが完全に白い霧に包まれて、それまでぼやけていた巨木の輪郭が、明瞭に見えてくる。あたかも遙かなる高見から我を見下ろすような、端の見えない、世界樹が視界いっぱいに広がる。
とても長い、長い一生だった。あまりにも長く生きてきた。
悪役として幕を閉じるのも使命だと思っていたが、終わってみるとこんなものか。
ようやく、我は死を迎え、そして受け入れることができた。
我の物語は、これでおしまいだ。それだけはハッキリしている。
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