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推しの武道館と、心の空洞

ー/ー



「武道館コンサート決定!」

里奈の公式アカウントからの告知。タイムラインは、文字通り狂喜乱舞の様相を呈している。
職場のトイレに腰を下ろしたまま、俺はその告知をぼんやりと眺めていた。
泣き顔の絵文字。クラッカー。祝祭。
おめでとう。よかったね。ずっと信じてたよ。
凄まじいペースでメッセージがタイムラインを埋めていく。
すぐにでもその輪の中に飛び込まなければならない。そうしなければ、誰かに「あいつは本当のファンじゃない」と後ろ指を指されるような気がした。
「武道館おめでとう!絶対行く!」と打ち込み、送信ボタンを押した。

 送信した瞬間に、ぞっとするような空洞が胸の奥に広がった。
 三年だ。里奈がソロになってから三年。小さなライブハウスで、客席がまばらな頃から俺は彼女を見てきた。彼女が売れることを、誰よりも望んでいたはずではないか。
 なのに、この湧きあがる感情はなんだ?
 トイレの脱臭剤の人工的なレモンの香りが鼻につく。
 自分が薄汚れた裏切り者になったような気がして、慌てて画面をスクロールした。他人の熱狂を浴びて、自分も同じ温度になろうと必死だった。
 その時、不意に視界に滑り込んできた一文があった。

『あの子はアイドルだったんですね』

 ぽぽ吉。
 界隈では有名な古参ファンだ。
 年齢は四十を過ぎていると聞いたことがある。彼は、里奈がまだ地下アイドルのグループにいた頃から、欠かさずライブに通っていた。彼の書くブログは独特の質感があった。
 里奈のパフォーマンスを、客の入りを、MCの言葉尻を、ただただ正確に記録しているのだ。
 ぽぽ吉の文章を読むたびに、俺は得体の知れない劣等感に苛まれていた。「お前たちのように、ペンライトを振って騒ぐだけが愛ではない」と、画面の向こうから嘲笑されているような気がしたからだ。
 彼は、どういう意図でこの言葉をつぶやいたのだろう。

 その夜、俺はぽぽ吉の古いブログを読み漁った。そこには、俺たちのような「推す」という情熱はない。ただ、冷静な観察があるだけだ。
「会えますか」
 気がつけば、俺はDMを送信していた。送信した直後に、猛烈な後悔が襲ってきた。見ず知らずの中年男に、何を求めているんだ。彼が俺の空洞を埋めてくれるとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。
 返信は、翌朝すぐに来た。
「いいですよ。明日の午前、遊行寺で」

 平日の午前。境内には、箒で枯れ葉を集める老僧しかいなかった。
 銀杏の木の前のベンチに、ぽぽ吉は座っていた。
 白シャツに、薄いグレーのスラックス。足元は、磨き上げられた革靴。白髪まじりの髪はきれいに七三に分けられている。彼は、俺を見ると、目を細めてわずかに口角を上げた。
「瀬戸さんですね」
 静かな、しかし芯のある声だった。
「……ぽぽ吉さん。昨日は、いきなりすみません」
「いいえ」
 彼は、ベンチの隣を空けてくれた。銀杏の葉が、風もないのにハラリと落ちた。
「単刀直入に聞きます」震える声を悟られまいと、俺は努めて低い声を出した。
「なぜ、あんなこと書いたんですか?」
 ぽぽ吉は、すぐには答えなかった。ただ、目の前の巨大な銀杏の木を、静かに見上げていた。その横顔は、一切の感情を排した、仏像のように冷ややかなものだった。
「瀬戸さんは」
 やがて、彼はぽつりと言った。
「家具を、買ったことがありますか?」
「……家具?」
「ええ。例えば、美しい椅子。あるいは、瀟洒なランプ。自分の生活という空間に、それらを置く。すると、部屋の空気が変わる。生活が、少しだけ豊かになる」
 俺は、その言葉の真意を掴めなかった。
「私にとって、里奈さんの歌やパフォーマンスは、それと同じだったんです。生活という家を彩る、美しい家具。そこにあるという事実だけで、私の生活は救われていた」
「アイドルを、家具扱いですか。そんなの、人間に対する見方じゃない。あの子は、血の通った人間だ。泣いたり、笑ったり、必死に努力して、ようやくあそこまで辿り着いたんだ。俺たちは、その過程を応援してきたんじゃないですか」
 俺は、必死にまくし立てた。自分は、この冷酷な男とは違う。里奈を、人間として愛しているのだ。そう、主張したかった。しかし、言葉を発すれば発するほど、自分の言葉が空々しく響くのを感じていた。
「ええ、そうです。彼女は人間です」
 ぽぽ吉は、俺の薄っぺらい正義感をあっさりと肯定した。
「そして、アイドルというのは、他者の物語と自身の物語を重ね合わせる装置です。瀬戸さんは、彼女の努力や成功に、ご自身の物語を重ねて、喜んでいる。それは、素晴らしいことです」
「だったら……」
「しかし、武道館という巨大な空間に、その家具が置かれたとき。それはもはや、私の生活空間のサイズには合わなくなってしまったんです。遠すぎる。大きすぎる。私の部屋には、もう置けない。だから、熱が変化した。それだけのことです」
 俺は、彼を軽蔑した。同時に、猛烈な安堵感を覚えた。なんだ、こいつもただのオタクじゃないか。高尚なふりをして、結局は「遠くに行ってしまって寂しい」と駄々をこねているだけだ。
「ぽぽ吉さん」
 俺は、少しだけ優位に立ったような気で言った。
「それは、単なるエゴですよ。里奈が大きくなるのを、素直に喜べないなんて。俺は、これからも彼女を応援します。武道館で、彼女が輝く姿を見届けますよ」
 ぽぽ吉は、俺の方に向き直った。そして、あの作為のない、しかし恐ろしいほどに深い笑顔を見せた。
「いいと思います。瀬戸さんは、そうすべきです」
 彼は、俺の言葉を少しも否定しなかった。
「ただ、瀬戸さん。あなたの中にも、迷いがあったのではないですか?」
「迷い……?」
「でなければ、あの狂乱のようなタイムラインの中で、私のあんな呟きに目を留めるはずがない。わざわざ、こんな見ず知らずの男に会いに来るはずがない」
 言い返そうと思ったが、言葉が出てこない。
「どこかさめていたから、あなたは私に会いに来た」

 図星だった。
「違う……」
 ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「俺は、里奈の武道館が、嬉しいんだ。嬉しいに決まってる。ずっと、応援してきたんだから」
「本当に?」
 ぽぽ吉の問いは、刃のように鋭かった。
「あなたは、里奈さんの成功を喜んでいたのですか? それとも、あなたたちだけが知っていたあの『特別な時間』を、惜しんでいるのですか?」
 何も言えなかった。
 トイレの個室で感じた、あのぞっとするような空洞の正体が、今、はっきりと輪郭を持って目の前に突きつけられていた。
 俺は、里奈を愛していたのではない。
 里奈を応援する「自分」を愛していたのだ。
「推し」という安全圏から、懸命にもがく少女を高みの見物で眺め、小銭を投げては、自分が何者かになったような気でいた。彼女の物語を消費して、自分の空っぽな人生を埋め合わせようとしていただけだ。だから、彼女が武道館という、手の届かない場所へ行ってしまうことが、恐ろしかったのだ。彼女が自立し、本当の光を放ち始めたとき、俺はただの「観客の一人」に成り下がる。俺と里奈とを繋いでいた、あの「特別な関係」という錯覚が、無残に打ち砕かれる。
 それが、寂しかったのだ。
 俺は、両手で顔を覆った。浅ましい心の底の底まで見透かされてしまった。
 銀杏の葉が、一枚、靴の先に落ちた。

「……俺は、最低ですね」
 呻くように言った。
 ぽぽ吉は、静かに首を振った。
「悪いことではないですよ。人間とは、そういうものです」
 彼は、再び銀杏の木を見上げた。
「瀬戸さんにとって、この時間は必要だった。それだけのことです」
 それだけのこと。
 その言葉は、突き放すようでもあり、同時に、奇妙な救済を与えてくれるようでもあった。
「そろそろ、行きましょうか」
 ぽぽ吉が立ち上がった。俺も腰をあげるが、やたらと体が重く感じられた。
「武道館、楽しんできてください」
 彼は、最後にもう一度、目を細めて笑った。俺は、何も答えられず、ただ頭を下げた。彼が踵を返して歩き出すとき、その革靴が、境内の砂利を不規則に踏み鳴らす音がした。俺は、彼が完全に姿を消すまで、その場から動くことができなかった。
 帰り道、駅前の松屋で牛丼の大盛りをかきこんだ。紅生姜を山のように乗せて。自分の卑小さを噛み砕くように、必死に咀嚼した。

 武道館ライブ、当日。
 九段下の駅を降りると、そこはすでに異様な熱気に包まれていた。里奈の公式グッズである水色のタオルを首に巻いたファンたちが、群れをなして坂を上っていく。その群れの中で、俺はひどく孤立しているように感じた。彼らは皆、純粋に里奈の成功を祝い、目を輝かせている。
 誰かが俺の顔を覗き込み、「お前は偽物だ」と叫ぶのではないか。そんな被害妄想に急き立てられながら、俯き加減で入場列に並んだ。
 開演を告げるブザーが鳴り、会場の照明が落ちる。
 地鳴りのような歓声。
 暗闇の中から、スポットライトに照らされて、里奈がステージの中央に現れた。
 音楽が鳴り響く。
 隣の男が、血管を破裂させそうな勢いで叫んだ。俺も、ペンライトを振り上げ、声を張り上げた。
「里奈ーっ!」
 感情は、本物であった。胸の奥から湧き上がる熱いものは、確かにあった。しかし、その熱の中で、俺は酷く静かに、冷静に自分を観察していた。
 俺は、ここで何を見ているのか。
 何を、望んでいるのか。
 ぽぽ吉の言葉が、脳裏をよぎる。
『どこか、さめていたから』
 そうだ。俺はさめている。この熱狂の渦の中で、ぽつんと切り離されている。俺は彼女の物語を消費しているだけだ。空っぽなのだ。
 空っぽだから、叫ぶのだ。
 自分の空洞を、この数千人の歓声で、里奈の歌声で、満たそうとしているのだ。
「里奈ーっ!!」
 喉が裂けるほどに叫んだ。涙が溢れてきた。それは、里奈の成功を祝う涙ではなかった。自分自身の、取り返しのつかない卑小さと、孤独に対する、哀れみと恥辱の涙だった。
 ステージの上で、里奈が笑った。
 その笑顔は、かつて小さなハコで見せていたものとは違う、完成された「アイドル」の笑顔であった。
 俺は、ペンライトを握りしめ、ただ叫び続けた。
 この空洞を抱えたまま、この無様な自分を抱えたまま、ここで叫び続けること。それが、今の自分にできる、唯一の「支援」なのだと思う。
 終演後、人の波に揉まれながら武道館を出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
 明日は、朝から会議がある。シャツにアイロンをかけなければならない。
 俺は首に巻いていた水色のタオルを外し、鞄の奥底に乱暴に突っ込んだ。



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里奈の公式アカウントからの告知。タイムラインは、文字通り狂喜乱舞の様相を呈している。
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泣き顔の絵文字。クラッカー。祝祭。
おめでとう。よかったね。ずっと信じてたよ。
凄まじいペースでメッセージがタイムラインを埋めていく。
すぐにでもその輪の中に飛び込まなければならない。そうしなければ、誰かに「あいつは本当のファンじゃない」と後ろ指を指されるような気がした。
「武道館おめでとう!絶対行く!」と打ち込み、送信ボタンを押した。
 送信した瞬間に、ぞっとするような空洞が胸の奥に広がった。
 三年だ。里奈がソロになってから三年。小さなライブハウスで、客席がまばらな頃から俺は彼女を見てきた。彼女が売れることを、誰よりも望んでいたはずではないか。
 なのに、この湧きあがる感情はなんだ?
 トイレの脱臭剤の人工的なレモンの香りが鼻につく。
 自分が薄汚れた裏切り者になったような気がして、慌てて画面をスクロールした。他人の熱狂を浴びて、自分も同じ温度になろうと必死だった。
 その時、不意に視界に滑り込んできた一文があった。
『あの子はアイドルだったんですね』
 ぽぽ吉。
 界隈では有名な古参ファンだ。
 年齢は四十を過ぎていると聞いたことがある。彼は、里奈がまだ地下アイドルのグループにいた頃から、欠かさずライブに通っていた。彼の書くブログは独特の質感があった。
 里奈のパフォーマンスを、客の入りを、MCの言葉尻を、ただただ正確に記録しているのだ。
 ぽぽ吉の文章を読むたびに、俺は得体の知れない劣等感に苛まれていた。「お前たちのように、ペンライトを振って騒ぐだけが愛ではない」と、画面の向こうから嘲笑されているような気がしたからだ。
 彼は、どういう意図でこの言葉をつぶやいたのだろう。
 その夜、俺はぽぽ吉の古いブログを読み漁った。そこには、俺たちのような「推す」という情熱はない。ただ、冷静な観察があるだけだ。
「会えますか」
 気がつけば、俺はDMを送信していた。送信した直後に、猛烈な後悔が襲ってきた。見ず知らずの中年男に、何を求めているんだ。彼が俺の空洞を埋めてくれるとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい。
 返信は、翌朝すぐに来た。
「いいですよ。明日の午前、遊行寺で」
 平日の午前。境内には、箒で枯れ葉を集める老僧しかいなかった。
 銀杏の木の前のベンチに、ぽぽ吉は座っていた。
 白シャツに、薄いグレーのスラックス。足元は、磨き上げられた革靴。白髪まじりの髪はきれいに七三に分けられている。彼は、俺を見ると、目を細めてわずかに口角を上げた。
「瀬戸さんですね」
 静かな、しかし芯のある声だった。
「……ぽぽ吉さん。昨日は、いきなりすみません」
「いいえ」
 彼は、ベンチの隣を空けてくれた。銀杏の葉が、風もないのにハラリと落ちた。
「単刀直入に聞きます」震える声を悟られまいと、俺は努めて低い声を出した。
「なぜ、あんなこと書いたんですか?」
 ぽぽ吉は、すぐには答えなかった。ただ、目の前の巨大な銀杏の木を、静かに見上げていた。その横顔は、一切の感情を排した、仏像のように冷ややかなものだった。
「瀬戸さんは」
 やがて、彼はぽつりと言った。
「家具を、買ったことがありますか?」
「……家具?」
「ええ。例えば、美しい椅子。あるいは、瀟洒なランプ。自分の生活という空間に、それらを置く。すると、部屋の空気が変わる。生活が、少しだけ豊かになる」
 俺は、その言葉の真意を掴めなかった。
「私にとって、里奈さんの歌やパフォーマンスは、それと同じだったんです。生活という家を彩る、美しい家具。そこにあるという事実だけで、私の生活は救われていた」
「アイドルを、家具扱いですか。そんなの、人間に対する見方じゃない。あの子は、血の通った人間だ。泣いたり、笑ったり、必死に努力して、ようやくあそこまで辿り着いたんだ。俺たちは、その過程を応援してきたんじゃないですか」
 俺は、必死にまくし立てた。自分は、この冷酷な男とは違う。里奈を、人間として愛しているのだ。そう、主張したかった。しかし、言葉を発すれば発するほど、自分の言葉が空々しく響くのを感じていた。
「ええ、そうです。彼女は人間です」
 ぽぽ吉は、俺の薄っぺらい正義感をあっさりと肯定した。
「そして、アイドルというのは、他者の物語と自身の物語を重ね合わせる装置です。瀬戸さんは、彼女の努力や成功に、ご自身の物語を重ねて、喜んでいる。それは、素晴らしいことです」
「だったら……」
「しかし、武道館という巨大な空間に、その家具が置かれたとき。それはもはや、私の生活空間のサイズには合わなくなってしまったんです。遠すぎる。大きすぎる。私の部屋には、もう置けない。だから、熱が変化した。それだけのことです」
 俺は、彼を軽蔑した。同時に、猛烈な安堵感を覚えた。なんだ、こいつもただのオタクじゃないか。高尚なふりをして、結局は「遠くに行ってしまって寂しい」と駄々をこねているだけだ。
「ぽぽ吉さん」
 俺は、少しだけ優位に立ったような気で言った。
「それは、単なるエゴですよ。里奈が大きくなるのを、素直に喜べないなんて。俺は、これからも彼女を応援します。武道館で、彼女が輝く姿を見届けますよ」
 ぽぽ吉は、俺の方に向き直った。そして、あの作為のない、しかし恐ろしいほどに深い笑顔を見せた。
「いいと思います。瀬戸さんは、そうすべきです」
 彼は、俺の言葉を少しも否定しなかった。
「ただ、瀬戸さん。あなたの中にも、迷いがあったのではないですか?」
「迷い……?」
「でなければ、あの狂乱のようなタイムラインの中で、私のあんな呟きに目を留めるはずがない。わざわざ、こんな見ず知らずの男に会いに来るはずがない」
 言い返そうと思ったが、言葉が出てこない。
「どこかさめていたから、あなたは私に会いに来た」
 図星だった。
「違う……」
 ようやく絞り出した声は、かすれていた。
「俺は、里奈の武道館が、嬉しいんだ。嬉しいに決まってる。ずっと、応援してきたんだから」
「本当に?」
 ぽぽ吉の問いは、刃のように鋭かった。
「あなたは、里奈さんの成功を喜んでいたのですか? それとも、あなたたちだけが知っていたあの『特別な時間』を、惜しんでいるのですか?」
 何も言えなかった。
 トイレの個室で感じた、あのぞっとするような空洞の正体が、今、はっきりと輪郭を持って目の前に突きつけられていた。
 俺は、里奈を愛していたのではない。
 里奈を応援する「自分」を愛していたのだ。
「推し」という安全圏から、懸命にもがく少女を高みの見物で眺め、小銭を投げては、自分が何者かになったような気でいた。彼女の物語を消費して、自分の空っぽな人生を埋め合わせようとしていただけだ。だから、彼女が武道館という、手の届かない場所へ行ってしまうことが、恐ろしかったのだ。彼女が自立し、本当の光を放ち始めたとき、俺はただの「観客の一人」に成り下がる。俺と里奈とを繋いでいた、あの「特別な関係」という錯覚が、無残に打ち砕かれる。
 それが、寂しかったのだ。
 俺は、両手で顔を覆った。浅ましい心の底の底まで見透かされてしまった。
 銀杏の葉が、一枚、靴の先に落ちた。
「……俺は、最低ですね」
 呻くように言った。
 ぽぽ吉は、静かに首を振った。
「悪いことではないですよ。人間とは、そういうものです」
 彼は、再び銀杏の木を見上げた。
「瀬戸さんにとって、この時間は必要だった。それだけのことです」
 それだけのこと。
 その言葉は、突き放すようでもあり、同時に、奇妙な救済を与えてくれるようでもあった。
「そろそろ、行きましょうか」
 ぽぽ吉が立ち上がった。俺も腰をあげるが、やたらと体が重く感じられた。
「武道館、楽しんできてください」
 彼は、最後にもう一度、目を細めて笑った。俺は、何も答えられず、ただ頭を下げた。彼が踵を返して歩き出すとき、その革靴が、境内の砂利を不規則に踏み鳴らす音がした。俺は、彼が完全に姿を消すまで、その場から動くことができなかった。
 帰り道、駅前の松屋で牛丼の大盛りをかきこんだ。紅生姜を山のように乗せて。自分の卑小さを噛み砕くように、必死に咀嚼した。
 武道館ライブ、当日。
 九段下の駅を降りると、そこはすでに異様な熱気に包まれていた。里奈の公式グッズである水色のタオルを首に巻いたファンたちが、群れをなして坂を上っていく。その群れの中で、俺はひどく孤立しているように感じた。彼らは皆、純粋に里奈の成功を祝い、目を輝かせている。
 誰かが俺の顔を覗き込み、「お前は偽物だ」と叫ぶのではないか。そんな被害妄想に急き立てられながら、俯き加減で入場列に並んだ。
 開演を告げるブザーが鳴り、会場の照明が落ちる。
 地鳴りのような歓声。
 暗闇の中から、スポットライトに照らされて、里奈がステージの中央に現れた。
 音楽が鳴り響く。
 隣の男が、血管を破裂させそうな勢いで叫んだ。俺も、ペンライトを振り上げ、声を張り上げた。
「里奈ーっ!」
 感情は、本物であった。胸の奥から湧き上がる熱いものは、確かにあった。しかし、その熱の中で、俺は酷く静かに、冷静に自分を観察していた。
 俺は、ここで何を見ているのか。
 何を、望んでいるのか。
 ぽぽ吉の言葉が、脳裏をよぎる。
『どこか、さめていたから』
 そうだ。俺はさめている。この熱狂の渦の中で、ぽつんと切り離されている。俺は彼女の物語を消費しているだけだ。空っぽなのだ。
 空っぽだから、叫ぶのだ。
 自分の空洞を、この数千人の歓声で、里奈の歌声で、満たそうとしているのだ。
「里奈ーっ!!」
 喉が裂けるほどに叫んだ。涙が溢れてきた。それは、里奈の成功を祝う涙ではなかった。自分自身の、取り返しのつかない卑小さと、孤独に対する、哀れみと恥辱の涙だった。
 ステージの上で、里奈が笑った。
 その笑顔は、かつて小さなハコで見せていたものとは違う、完成された「アイドル」の笑顔であった。
 俺は、ペンライトを握りしめ、ただ叫び続けた。
 この空洞を抱えたまま、この無様な自分を抱えたまま、ここで叫び続けること。それが、今の自分にできる、唯一の「支援」なのだと思う。
 終演後、人の波に揉まれながら武道館を出ると、夜風がひんやりと頬を撫でた。
 明日は、朝から会議がある。シャツにアイロンをかけなければならない。
 俺は首に巻いていた水色のタオルを外し、鞄の奥底に乱暴に突っ込んだ。