|亜季乃《あきの》は|哲也《てつや》と骨の髄まで愛し合っている。
(奥さんなんか目じゃないわよ。だって、だってあたしは……|女神《じょしん》だから)
それでも風に揺れる寒緋桜のように、鮮やかに染まりながら揺れている亜季乃は、妻子ある哲也の家族ごと包み込んでいる。嫉妬と博愛に裂かれつつ。
幾度も伸ばされる哲也のゴツゴツとした手は、亜季乃を求める。亜季乃のろ過された上澄みを。淀みを。余すところなく欲し、抱きしめる。
亜季乃もまた、5年の歳月の中を裸足で駈け廻り、哲也というそよ風に運ばれここまで歩いて来れた。
(居なくなれば良いのに、奥さんなんて)
その鬼の声に、一度たりとも耳を塞がぬ亜季乃。
そして、それが本音であろうとも、哲也の前で嗚咽は曝け出さぬ。
しかし自由に憎み、哲也の子が本気で可愛いと感じているのにもかかわらず、本妻の死を願う。
「今夜はもう行くよ、亜季乃? また来るからね」
「はい」
長い、長い口づけのあと……命よりも大事な愛おしい人がドアの向こうへ去って行った。今宵も。
さあ、顔の皮膚を剥ごう。
|女神《じょしん》のお面を外そう。
やっと存分に泣ける。
肉のような赤いネイルを塗った爪を顔に突き立て、厚み3cmの1枚、引き剝がした。
先に重しを付けた糸が垂れて行くかのように下へ、下へと引っ張られる涙。
その涙を零しているのが亜季乃の本当の肌。
真白い般若。
「うぇっ、うっうっぐ――――ッ」
映画やドラマのように美しい声はしない。
これが人間を棄てた女。人間から脱皮した女。神から進化した鬼。
世界中の皆が気持ち悪がっても、哲也だけが狂ったように亜季乃を欲しがるから良い。
ピンポーン……。
玄関チャイムが鳴った。
(忘れ物をしたのかしら、哲也?)
いっそのこと離れて行けば良いと、|素顔《般若》のまま鼻汁を垂らしてドアを開けた。
「亜季乃……。亜季乃? 知っていたよ」
「え」
真白い般若が俯き、ツノが哲也の顔に向いている。
「ニセモノなんかじゃないさ、どちらも。今の亜季乃もオレは好きだ」
初めて|素顔《般若》が、愛人の前で泣き崩れた。
「げぐ、うぐぐぐぐぅ、ぐぇ」
穢い声だ。
――――一般的な美意識が決定するのなら、穢い。
その日から哲也と亜季乃は行方をくらました。
ピッタリ寄りそった黒い鬼と白い鬼が森に出ると、マスコミが騒ぎ始めた。
いつかのツチノコ騒動のように、未確認生物は賞金首にかけられている。
人を愛したら、生きちゃいけないのか。首を掴まえられるのか。
人間たちを尻目に、2匹は永遠の蜜月を手に入れた。