記憶の底に、そっと
ー/ー その旅行に出る前、私はスマートフォンを自宅の引き出しに放り込んできた。
仕事の連絡、SNSの通知、そして何より「シャッターチャンス」という強迫観念から自由になりたかったのだ。
行き先は、潮騒の音が一日中響く小さな離島。私は一台のカメラも持たず、ただ一冊の白紙のノートと万年筆だけを鞄に忍ばせて船に乗った。
島に着くと、最初の一時間は酷く落ち着かなかった。
美しい夕日が海に溶け出す瞬間、私の指先は無意識にポケットの中の「存在しないスマートフォン」を探して空を切った。
この色の移ろいを、あの雲の形を、誰かに見せなければ。どこかに書き留めなければ。そんな焦燥感が胸をかすめる。
しかし、三日目。私は「残す」ことを完全に諦めた。
防波堤に座り、ただ海を眺める。
隣に座った老人が、不意に口を開いた。
「兄ちゃん、写真はいいのかい。今日は最高の凪だぞ」
「ええ、今日は心の中にだけ、置いておくことにしたんです」
私がそう答えると、老人は「それが一番贅沢だな」と、深い皺を刻んで笑った。
カメラを構えているとき、私は常に景色の「外側」にいた。レンズというフィルターを通し、未来の自分や、画面の向こう側の誰かに見せるための「素材」として、その場を切り取っていた。
けれど、今は違う。
風が頬をなでる冷たさ、鼻腔をくすぐる潮の香り、遠くで鳴くウミネコの声。そして、太陽が沈みきった後の、群青色から墨色へと移ろう空の繊細な重なり。
それらすべてが、遮るものなく、今の私という存在の中にゆっくりと染み込んでくる。
不思議なことに、形に残そうとしなくなってからの方が、光の粒の揺らぎや、波が岩肌を噛む音の深さを、肌身で感じていることに気づいた。
旅行から戻り、日常という濁流の中に身を投じてからも、その記憶は色褪せることがない。
目を閉じれば、あの島の空気の温度まで、昨日のことのように蘇ってくる。
スマートフォンのフォルダに埋もれ、二度と見返されることのない数千枚の画像よりも、私の心の奥底にだけ深く沈めておいた「あの瞬間の光」の方が、ずっと確かで、ずっと温かい。
「一番いい景色は、誰にも見せられないんだ」
私は引き出しから取り出したスマートフォンを眺め、少しだけ誇らしげな気持ちで、真っ白なノートにその一行だけを書き記した。
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