「その日の天気予報を拙者は今でもよく覚えております」
重い扉を押し開くかのように|日下部《くさかべ》さんは語り出した。
※ ※ ※
『日中は真夏のような暑さになりますが、夕方は冷え込むでしょう──』
三年前の五月某日。
西の空に名残惜しく居残っていた夕焼けに代わり、目覚めたばかりの夜が欠伸をして四肢を伸ばし終えた頃でした。
年は二十代半ばでありますか、駅の方角からひとりの|女子《おなご》がやって来たのです。
女子は朝の天気予報を見逃したのか、薄手のカーディガンを羽織った|痩躯《そうく》を、時折寒そうに縮こませたり、腕を擦ったりしておりましたが、足取りは雲の上を渡り歩くかのように軽やかでございました。
それもそのはず。女子の手には誰からプレゼントされたのであろう黄色の花束が抱えられておりました。
時折、花束に目を落としては夢見心地な表情を見せる女子に、拙者の心は|暗澹《あんたん》たる雲で覆われていきました。
なぜなら、お付き人の|五島翔《ごとうかける》が女子のあとを追ったからです。
翔は寄りかかっていた電柱から離れると、目深にフードを被り、マスクを装着して、誰に教わったわけでもないのに忍びのように己の気配を闇に溶かしました。
足音ひとつ立てず、女子の歩調にぴったりと合わせる様は、血は争えぬものと痛感させられ、恐れを感じるほどでございました。
月明かりを含んだ女子の長い髪が夜風になびきました。
天女の如く汚れを知らぬ美しい娘の姿を、翔が粘液のようにベタベタとした視線で汚してゆく──。
何の罪もない見知らぬ女子に、翔が今からなそうとしていることを想像すると、正気を手放してしまいそうでした。
しかし、拙者は守護霊。怖気づくわけにはいかなったのです。
拙者は額に滲んだ脂汗を袖口で乱暴に拭い、翔の影を踏むようにあとを追いました。
しばらくして、女子が路地を折れたとき、
「翔、やめんか!」
思わず声を荒げ、拙者は翔の肩に後ろから手を伸ばしましたが、腕はむなしく宙を切っておりました。
時すでに遅し。
翔の姿はすでに路地へと消えており、拙者が追いついたときには案の定、右手にナイフが握りしめられていました。
翔は逃げようとする女子の髪を鷲掴みにし、呪詛を唱えるかのように言ったのです。
「お前も俺を馬鹿にするのか」
「助けて!」
花束をしっかり片腕に抱きながら、必死に抵抗していた女子でございましたが、無口でいて圧倒的な存在感を放つナイフに圧倒され、ついには転倒してしまいました。
「騒いだら殺す」
「っ……」
女子はしたたかに腰を打ちつけたように見えましたが、恐怖で痛みを感じる余裕がないようで、翔が馬乗りになり、ナイフで髪を切っている間も、幾筋もの涙を流しながら、ことが終わるのを耐え抜いておりました。
それは翔が襲った他の娘たちと同様、模範的な被害者の反応でございました。嵐が過ぎ去るのを待つ野生動物のようにじっと身じろぎもせず、己の運命を神仏の采配に委ねているかのようでした。
しかし、それはここまでの話です。
この女子の場合は他とはちと違ったのです。
突然、乾いた音が鳴り響きました。空いた左手で女子が翔の頬に平手打ちを食らわせたのです。
拙者は大層驚きました。
それは翔も同様で、平静を装っているマスクの下は、鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔であろうことは、長年の付き合いから想像がつきました。
幸運にも女子の突飛な行動は、翔の動きを封じ込めることに成功したのです。
にわかに光明が差し込みました。
翔が罪を重ねずにすむ。そう確信した拙者は、この隙に女子が逆の手でもう一度翔を殴り、逃げおおせることを切に願いましたが、女子は翔を殴りはしませんでした。
左手に持った花束をかばったがために次の反撃へ繋がらなかったのです。
たった一瞬、されど一瞬。
わずかな逡巡の間に女子の両手はすでに翔によって抑えられてしまいました。
どうにかして女子を救出する術はないものか。懸命に考えを巡らせていた拙者の耳に、ふたつの音が飛び込んで来ました。
ひとつ目は通り魔事件に対峙しようとする女子の精一杯の強がり。
「あなたのこと、絶対に許さないから。マスクをしていても、その目でわかるんだからね。わたし、一度見た人の顔は忘れないの」
二つ目は糸が切れる音でございました。
プツリ。
果たしてその音は、拙者の正気を繋いでいた糸が切れた音であったのか、はたまた翔の理性が切れた音であったのか。もしくはどちらでもなく、天から降りてきた蜘蛛の糸が切れた音であったのか。
いずれにせよ、この二つの音は拙者が神にも仏にも見放されたことを悟るには充分でございました。
それから翔は女子を目掛けナイフを振り下ろしました。何度も何度も。柔らかな女子の体は翔が放つ並々ならぬ殺意を拒むことなく受け入れ続けました。まるで幼子のいたずらに寛容な慈悲深い母親の如く。
翔の凶行の間、拙者のしたことといえば、声を上げて泣いたことと、死にゆく女子に謝り続けることだけでした。
目の前で翔が人を殺しているというのに、守護霊界の掟の前では止めることも許されぬ。掟に従順な己の無力さが心底憎らしいと思いました。
すべてが終わったあと、足早に立ち去る翔を追いながら、拙者は一度だけ背後を振り返りました。
こと切れた女子の傍らには、娘が懸命に守ろうとした花束が無残な形で投げ捨ててございました。
太陽の如く夕闇を晴らす黄色い花が、にわかに降った赤い雨に打たれる光景を目の当たりにし、
『日中は真夏のような暑さになりますが、夕方は冷え込むでしょう。寒暖差にご注意ください。雨の心配はないでしょう』
今朝見た天気予報の言葉を思い出したのは、|予《・》|報《・》|外《・》|れ《・》|の《・》|雨《・》のせいではなく、暑さ寒さを感じぬこの幽霊の体に、ある感覚が甦ってきたからでした。
それは遥か昔、生前感じたことがある五感のひとつ、触覚であり、真冬の身を切るような風が、拙者の伽藍堂になった心と体を吹き抜けました。
繰り返し、繰り返し、脳内で天気予報は再生されました。
因果は巡り、巡るものです。