第9話:歴史を語らない理由

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 ティムは、書斎の窓から見える平和な街並みに目を向けた。その街は、歯抜けの王の羞恥心とリンゴ飴に執着する賢者によって救われた場所だ。

「師匠」

「これで、私が知る限り、サイラス様と建国に関わる全ての真実を知りました。どの真実も、驚くほどくだらない」

 フィリアンは頷いた。

「ああ、お前の研究者としての心は、完全に満たされただろう。しかし、満たされたと同時に、お前は『伝説』というものに絶望したはずだ」

「絶望、というより……虚無感です。英雄とは、ただの『些細なトラブルを大袈裟に隠したコミュ障』に過ぎない。その真実を知って、誰に伝えればいいのでしょうか」

 ティムは、フィリアンが脇に置いた、木彫りのハムスターを手に取った。

「師匠は、真実を知る唯一の生き証人です。しかし、なぜ何百年も、そのくだらない真実を訂ム正せずに、『知らないほうが幸せ』という言葉で、伝説を守り続けているのですか?」

 フィリアンは窓の外に目を向けた。その瞳は、数百年という時間の長さを物語っていた。

「…本当に、『本当の理由』を知りたいかね?」

「聞きたいです。師匠のその達観こそ、私が最後に知るべき『真理』だと思っています」

「よろしい」

 フィリアンはゆっくりと話し始めた。それは、長寿のエルフが持つ、諦念と優しさの哲学だった。

「ティムよ。お前は真実を知って虚無感に襲われた。だが、想像してみろ。この国の国民、そして、これから生まれてくる子供たちが、『王はただの歯抜けで、英雄はリンゴ飴が食べたかっただけ』という歴史を教えられて、何を得る?」

「何も……得ないかもしれません」

「そうだ。彼らは、壮大な希望を失う。彼らは、王が歯抜けで悩んでいたことなど、どうでもいい。彼らが欲しているのは、『自分の国は、偉大なる英雄の犠牲と戦略によって築かれた』という、安心感と誇りだ」

 フィリアンは木彫りのハムスターを優しく撫でた。

「あの英雄譚はな、『くだらない真実』を知る私にとっても、希望や安心を与える魔法として機能していたのだよ」

「魔法……ですか」

「そうだ。歴史の虚構は、一種の魔法だ。その魔法は、『この国は、どんな困難にも打ち勝つ、強固な理念の上に築かれている』という幻影を人々に提供する。そして、その幻影こそが、不安な時代を生きる人々にとっての、揺るぎない支えになる」

 フィリアンはティムを見つめた。

「お前が真実を語れば、人々は英雄を笑うだろう。だが、その笑いの代償は、『歴史が動くには、特別な才能と偉大な理念が必要だ』という、絶望的な重圧だ」

「英雄も私たちと同じように、『たまたま』や『個人的な悩み』で動いた。その事実が、伝説という膜で覆われることで、人々は『私も何か偉大なことを成し遂げられるかも』という希望を持つ。それが、この虚構が持つ最大の価値なのだ」

「つまり、師匠は……『希望』を守るために、真実を語らなかったのですね」

「違う」

 フィリアンは首を振った。

「私が真実を訂正しないのは、ただ単に、面倒くさいからだ」

「え?」ティムは完全に虚を突かれた。

「何百年もかけて築かれた伝説を、『あれはハムスターを探していただけ』と訂正するのは、果てしなく面倒だ。そして、どうせ誰も信じない。労力の無駄だ」

 フィリアンは笑った。しかし、その笑顔の奥には、確かな優しさがあった。

「そしてな、ティム。真実を知って、その虚構に価値を見出す。それこそが、達観した者の特権だ。お前はもう、その特権を手に入れた」




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 ティムは、書斎の窓から見える平和な街並みに目を向けた。その街は、歯抜けの王の羞恥心とリンゴ飴に執着する賢者によって救われた場所だ。
「師匠」
「これで、私が知る限り、サイラス様と建国に関わる全ての真実を知りました。どの真実も、驚くほどくだらない」
 フィリアンは頷いた。
「ああ、お前の研究者としての心は、完全に満たされただろう。しかし、満たされたと同時に、お前は『伝説』というものに絶望したはずだ」
「絶望、というより……虚無感です。英雄とは、ただの『些細なトラブルを大袈裟に隠したコミュ障』に過ぎない。その真実を知って、誰に伝えればいいのでしょうか」
 ティムは、フィリアンが脇に置いた、木彫りのハムスターを手に取った。
「師匠は、真実を知る唯一の生き証人です。しかし、なぜ何百年も、そのくだらない真実を訂ム正せずに、『知らないほうが幸せ』という言葉で、伝説を守り続けているのですか?」
 フィリアンは窓の外に目を向けた。その瞳は、数百年という時間の長さを物語っていた。
「…本当に、『本当の理由』を知りたいかね?」
「聞きたいです。師匠のその達観こそ、私が最後に知るべき『真理』だと思っています」
「よろしい」
 フィリアンはゆっくりと話し始めた。それは、長寿のエルフが持つ、諦念と優しさの哲学だった。
「ティムよ。お前は真実を知って虚無感に襲われた。だが、想像してみろ。この国の国民、そして、これから生まれてくる子供たちが、『王はただの歯抜けで、英雄はリンゴ飴が食べたかっただけ』という歴史を教えられて、何を得る?」
「何も……得ないかもしれません」
「そうだ。彼らは、壮大な希望を失う。彼らは、王が歯抜けで悩んでいたことなど、どうでもいい。彼らが欲しているのは、『自分の国は、偉大なる英雄の犠牲と戦略によって築かれた』という、安心感と誇りだ」
 フィリアンは木彫りのハムスターを優しく撫でた。
「あの英雄譚はな、『くだらない真実』を知る私にとっても、希望や安心を与える魔法として機能していたのだよ」
「魔法……ですか」
「そうだ。歴史の虚構は、一種の魔法だ。その魔法は、『この国は、どんな困難にも打ち勝つ、強固な理念の上に築かれている』という幻影を人々に提供する。そして、その幻影こそが、不安な時代を生きる人々にとっての、揺るぎない支えになる」
 フィリアンはティムを見つめた。
「お前が真実を語れば、人々は英雄を笑うだろう。だが、その笑いの代償は、『歴史が動くには、特別な才能と偉大な理念が必要だ』という、絶望的な重圧だ」
「英雄も私たちと同じように、『たまたま』や『個人的な悩み』で動いた。その事実が、伝説という膜で覆われることで、人々は『私も何か偉大なことを成し遂げられるかも』という希望を持つ。それが、この虚構が持つ最大の価値なのだ」
「つまり、師匠は……『希望』を守るために、真実を語らなかったのですね」
「違う」
 フィリアンは首を振った。
「私が真実を訂正しないのは、ただ単に、面倒くさいからだ」
「え?」ティムは完全に虚を突かれた。
「何百年もかけて築かれた伝説を、『あれはハムスターを探していただけ』と訂正するのは、果てしなく面倒だ。そして、どうせ誰も信じない。労力の無駄だ」
 フィリアンは笑った。しかし、その笑顔の奥には、確かな優しさがあった。
「そしてな、ティム。真実を知って、その虚構に価値を見出す。それこそが、達観した者の特権だ。お前はもう、その特権を手に入れた」