第8話:晩年の大研究
ー/ー ティムはもはや、偉大な英雄の肖像画や歴史書に対して何の感情も抱かなかった。彼の視線は、フィリアンの脇に転がっている、木で彫られた小さなハムスターの人形に注がれていた。
「師匠」
「建国期の偉人たちは、皆、人に見られたくないという個人的な羞恥心や恐怖心で、意図せず国を救いました。しかし、大賢者サイラス様は……晩年、対人恐怖症を克服されたと言われています」
「そうだな」
「コミュ障は克服した。だが、潔癖症は一生治らなかったがね」
フィリアンはクスリと笑った。
「伝説では、サイラス様は塔に籠もり、晩年をかけて人類未踏の領域、宇宙の真理に関わる魔法を研究したとされています。これは、彼の人生で唯一、公的な理念に基づいた研究ではないでしょうか?」
ティムの目に、わずかな希望の光が戻った。英雄サイラスなら、きっと最後に人類の未来のために動いたはずだという、微かな願いだった。
「…本当に、『本当の理由』を聞きたいかね、ティム?」
「今回ばかりは、お前が期待しているような、宇宙の壮大さとは、最もかけ離れた話になるぞ」
フィリアンは首を振った。
「サイラスはな、晩年、宇宙や世界の真理などには全く興味を持たなかった。彼が唯一、人生の最後に心血を注いだのは、隣村の屋台で売られていたリンゴ飴の『味』なのだ」
「リンゴ飴……ですか?」
ティムは愕然とした。
「そうだ。あれは、建国期の戦乱が始まる前、たった一度だけ、私が連れて行った祭りでの出来事だった。あまりに家に引き篭もっていたから、強制的に引っ張っていったのだ。で、サイラスはその時出会ったリンゴ飴の『蜜の硬さ』と『林檎のシャリシャリ感』が忘れられなかった」
フィリアンは語り始めた。
サイラスが再び塔に籠もった真の理由。それは、誰も邪魔をしない静かな場所で、あのリンゴ飴を完全に再現するためだった。
「彼は、蜜の配合を『宇宙の元素の比率』として記録し、林檎をシャリシャリさせるための魔法を『次元のゆがみ』と称して研究ノートに書き込んだ。研究ノートには、『黄金比率の蜜、硬度α、林檎の最適温度帯の探求』といった、極めて私的で美食的な魔法理論が並んでいた」
「伝説の『宇宙の真理』とは、リンゴ飴の完璧な配合だったと……」
ティムは力が抜けた。
「ああ。しかも、彼が塔で費やした三十年間、成功したのはたった一度だけだ。サイラスは、その失敗の積み重ねを、『未踏領域への献身』として記録させた。その結果、世間はそれを『偉大なる失敗の記録』、つまり『大研究』と解釈したのだ」
ティムは、サイラスという英雄の特異性をようやく理解した。建国期の王や騎士団長は、公的な状況で私的な問題が暴発した結果、偉業を成し遂げた。しかし、サイラスは私的な欲求を公的な偉業に偽装し続けた人物だったのだ。
「サイラス様は、晩年にコミュ障を克服しても、その執着心は変わらなかったのですね。彼にとって、国や世界よりも、たった一本の抜けた歯、一匹のハムスター、そして一個のリンゴ飴の方が、よほど切実な問題だった」
「その通りだ、ティム」
「彼はスケールが極端に小さい人間だった。だからこそ、自分の心の中の小さな問題を解決するためなら、世界を敵に回すことも、宇宙の法則に挑むフリをすることも厭わなかった」
フィリアンは微笑んだ。
「サイラスにとっての真理は、宇宙ではなく、舌の上で完璧に溶ける蜜の硬さだった。彼は最後まで、個人的な欲求の純粋さを貫いた。それが、この英雄の真の偉大さなのかもしれん」
ティムは静かに、深く息を吐いた。彼の達観は、ついに完成した。
「壮大な物語の核が、実はリンゴ飴の再現度だった……」
「師匠。私はもう、伝説というものに、何の価値も見出せなくなりました」
「よろしい。ティム。では、私がなぜ、お前のように真実を知りながらも、この『知らないほうが幸せ』という伝説の虚構を訂正せずにいるのか、その哲学的な理由を語ろう。話を聞きたいかね?」
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