第7話:敵将の奇妙な降伏
ー/ー「師匠」
ティムはもう、英雄サイラスの伝承書には目もくれず、書斎に飾られた初代国王の肖像画をじっと見つめていた。その顔は威厳に満ち、口元は固く引き結ばれている。
「この国王は、野良犬が嫌だからと、敵の侵入を防ぐ分厚い防壁を築いた。つまり、この国は潔癖症の怨念の上に立っている。そう理解しました」
フィリアンはクスリと笑った。
「その通りだ、ティム。もはやお前は、この国の建国の真の理念を理解したと言えよう。だが、王の話はこれで最後だ。そして、最もくだらない動機が、最も壮大な結果を生んだエピソードだ」
「…本当に、『本当の理由』を聞きたいかね?今回ばかりは、その真実を知ると、肖像画の王の顔が極度の羞恥心に歪んで見えてくるぞ」
「構いません。達観とは、醜い真実を受け入れることです」
ティムは深呼吸をして、王の肖像画から目を離さずに言った。
「伝説では、長きにわたる和平会議の最終日、敵将は国王の『戦略的沈黙』に恐れをなし、全面降伏を申し出たとされています。王は一言も発さず、ただ静かに座っていただけで、その威圧感が敵将の心を折った、と」
フィリアンは椅子に深く腰掛けた。
「そう、それが歴史の記録だ。だが、あの時、王が沈黙していたのは、威圧感でも、戦略でもない。王は、口を開くのが恥ずかしすぎたのだ」
「恥ずかしかった……なぜですか? 緊張ですか? それとも、会議の前に潔癖症が発動し、何かを汚してしまったとか?」
ティムは反射的に、過去のポンコツパターンを当てはめようとしたが、すぐに首を振った。
「いや、違いますね。王は社交的でした。サイラス様や騎士団長のような対人恐怖ではないはずだ」
フィリアンはゆっくりと話し始めた。
「会議が開かれる直前、王は朝食に好物の硬いパンを食べていた。そして、不運なことに、その硬いパンによって、前歯が一本、ポロッと抜けてしまったのだ」
ティムは目を丸くした。
「歯が……一本……」
「そうだ。王は、自国の威信と、自身の王としての尊厳を何よりも気にする人物だった。その威厳ある国王が、歯が抜けたまま、敵国の指揮官団と交渉の席につく。王にとっては、世界大戦よりも大きな羞恥心だった」
王は会議室に入る前に、必死にどうするか考えた。会議を延期すれば、敵に弱みを見せることになる。そこで彼は決意した。「一言も話すまい」と。
「王は、会議中、あらゆる議題に対して、ただ無言で腕を組み、威厳を保つポーズを貫いた。本当は、何か発言しようとするたびに、口元の隙間風と、抜けた歯の感触が気になって、口を開けられなかっただけだ」
敵将は、王の沈黙を見て、全く違う解釈をした。
『この王は、こちらの提案を鼻で笑っているに違いない』
『一言も発しないのは、我々の全ての論理を見透かし、それを一蹴するだけの自信があるからだ』
『この沈黙こそ、深遠なる戦略。我々の持つ全ての情報が、この王の前では無意味であると悟った!』
そして、敵将は最後の最後に、王の「何も考えていない沈黙」に耐えきれず、自国の全権を預けて降伏を申し出た。
ティムは、肖像画の王の口元を指差した。
「つまり、この肖像画の固く結ばれた口元は、威厳を示すものではなく……」
「抜けた前歯を見られないように、必死に口を閉じている姿だ」
フィリアンは微笑んだ。ティムは完全に無力感に襲われた。
「無理です。私にはもう、考察の余地すら残されていません。ハムスター、カビた毛布、釣り竿、そして歯抜け……。歴史とは、個人の、極度にくだらない、些細な羞恥心によって動く、ただの笑劇だったのですね」
ティムは、肖像画の前で深々と頭を下げた。それは、王への敬意ではなく、「歴史の虚構性」に対する諦念の礼だった。
フィリアンは、静かに結論付けた。
「ああ。国を救ったのは、戦略でも勇気でもない。王の、ただの歯抜けの羞恥心だ。だが、ティム。その結果、この国は何百年も平和を享受した。くだらない動機が生んだ平和を、お前は否定できるかね?」
「……できません。くだらなければ、くだらないほど、それは揺るぎない動機なのかもしれません」
フィリアンは次の話題に移った。いよいよ、サイラスが晩年に行った研究の真実だ。
「よろしい。ティム。建国記は終わった。次は晩年の大研究。サイラスが、人類未踏の領域である宇宙の真理に関わる魔法を塔で研究したという伝説。あれは、隣村のリンゴ飴の味を忘れられず、その完全再現に生涯を賭けただけなのだが、話を聞きたいかね?」
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