ティムは前回よりもさらに分厚い古文書を抱えて、書斎に駆け込んできた。その顔は、期待とわずかな恐怖で複雑に歪んでいる。
「師匠!今度の伝説は、さすがに個人の羞恥心では片付けられないはずです!『魔王封印の儀式』は、サイラス様が自らの命と引き換えに、世界を救ったという、紛れもない犠牲の物語ですから!」
フィリアンは、日向ぼっこをしていた場所から、わずかに体の向きを変えた。
「うむ。私もそうであってほしいと心から願っているよ、ティム。これは人類の歴史でも最も尊いエピソードとして語り継がれているからな」
ティムは古文書の該当箇所を指さした。
「『サイラスは、魔王との激闘の末、命と引き換えに禁断の魔法陣を発動。魔王をその魂ごと封印し、世界に平和をもたらした』。師匠、この『禁断の魔法陣』の真実を教えてください。その代償は、やはりサイラス様の余命だったのですか?」
フィリアンはゆっくりと立ち上がり、猫を抱き上げた。
「ティム。今回こそは真実に高尚な意味を見出そうと、心に鎧を着込んでいるようだがね」
「ええ!もう二度と、カビた毛布のような真実に屈しません!」
フィリアンは首を横に振った。
「残念だが、その鎧は無駄になるだろう。この話の真実のくだらなさは、前二話を合計しても届かない。なぜなら、その儀式は魔王のためではなかったからだ」
「……え?」
ティムの顔から血の気が引いた。
「…本当に、『本当の理由』を聞きたいのかね?その伝説は、『英雄の犠牲』という、最も美しい虚飾で守られているのだぞ」
ティムは深呼吸をした。そして、研究者の意地で目を閉じて頷いた。
「構いません。真実のサイラス様と向き合います。師匠、禁断の魔法陣の真の目的は何だったのですか?」
フィリアンはため息をつきながら、再び猫を抱きしめた。
「あれはな、暴走したペットの巨大猫を、元のサイズに戻すための『緊急縮小魔法』だったのだよ」
「………は?」
ティムは、今度こそ理解が追いつかなかった。
フィリアンは語り始めた。サイラスは、ハムスターの『ゴマ』以外にも、猫の『ミケ』を飼っていた。このミケは、サイラスの魔力実験に巻き込まれてしまい、体長が五メートルに巨大化してしまったのだという。
「ミケは巨大化しても、性格は甘えん坊のままだった。ある日、魔王軍が塔を襲撃した際、ミケはサイラスに甘えようとして、魔王の背中に飛び乗った」
「魔王に、猫が?」
「ああ。五メートルの巨大猫に飛び乗られた魔王はパニックになり、塔全体がメチャクチャになった。サイラスは怒り狂った。魔王がどうなろうと構わないが、ミケがこれ以上暴れて、貴重な書物を汚したり、塔を壊したりするのは断固として避けたかったのだ」
魔王との決戦の最中、サイラスの頭の中を占めていたのは、「どうやってミケを元のサイズに戻すか」ということだけだった。
「彼は魔王との戦闘を中断し、緊急で発動した。それが、お前が言う『禁断の魔法陣』だ。あれは、魔王を封印する魔法ではなく、対象の質量を強制的に縮小するだけの魔法だった。その際に発生した巨大なエネルギーが、結果的に魔王を巻き込み、封印されたと勘違いされたのだ」
「で、では、命と引き換え、というのは……」
フィリアンは肩をすくめた。
「縮小魔法の反動で、サイラスの魔力が一時的に枯渇しただけだよ。一週間ほど高熱で寝込んだが、彼の命は全く無事だった。しかし、その高熱でうなされている様子を、周りの人間が『世界を救った英雄の、命を削る壮絶な姿』と勝手に解釈し、伝説になった」
ティムは顔を覆った。
「……そ、そんな馬鹿な。世界を救った最高に壮大な儀式が、甘えん坊の巨大猫をサイズダウンさせるための緊急措置だったなんて……。私には…私には、とてもじゃないが、この真実を受け止め、考察することはできません…」
ティムは完全に打ちのめされた。これほどまでの「ポンコツな動機」は、彼の研究者としての魂を粉砕した。
フィリアンは、今抱いている小さな猫(ミケの子孫かもしれない)を撫でながら、達観した口調で言った。
「ティム。これが歴史の恐ろしいところだ。一人の人間が起こす極めて個人的で、くだらない羞恥心や私情こそが、世界を動かす最強のエネルギーになる。サイラスの人生は、壮大な舞台で展開される、極度のコミュ障とペットに振り回された男のドタバタ劇だったのだよ」
ティムは、深く、深く、ため息をついた。彼の眼差しは、前回よりも遥かに哲学的になっていた。
「師匠……私は、サイラス様を諦めます。もう、深意を探すのはやめます。彼の偉業は、ただの『結果』として受け止めます」
フィリアンは満足げに頷いた。
「それが、『達観』だ。知らなくても生きていける。だが、知ってしまったなら、その軽さも受け入れろ。さあ、次は建国記の『聖剣の奇跡』について話そうか。あれは巨大磁石つきの釣り竿の話なんだがな……」