その日、仕事で長いこと東京を離れていた陸謙が帰ってくるというので、久しぶりに酒を飲む約束をしていた。
だが、あいにく、帰ってきてから陸謙はすぐに朝廷に報告をあげなければいけないことになり、その日の約束は流れてしまった。
友との晩酌を楽しみにしていた林冲は、仕方のないことと思いながらも不貞腐れ、陸謙との行きつけの店ではなく、一人になりたいときによく訪れる店に向かうことにした。
すると、火点し頃の店先に、なにやら人だかりができている。不思議に思って人の群れの間から覗き見れば、一人の男が店主に首根っこを掴まれ、引きずりまわされていた。
『貴様、よくも恩を仇で返すようなことをしやがったな』
『すみません、すみません、つい、出来心で』
店主に痛めつけられていた男は、林冲が店を訪れるたびに、給仕をしてくれていた男だった。
野次馬の声を拾うに、どうやらこの男、店主の家の金を盗んだようであった。あれほど気の良い男なのに、どうして、と野次馬たちは首をかしげていた。
だが林冲には、男がそんな大それたことをした理由に思い当たるところがあった。
『この盗人め、ただで済むと思うなよ! 貴様のことは、衙門に突き出して』
『待たれよ、店主』
『り、林教頭……?』
突然現れた禁軍教頭の姿に驚く二人をなだめすかして店の中に戻し、野次馬を帰らせたのち、林冲は男の代わりに店主に謝った。
男の唯一の家族である母が、流行り病で虫の息だということ。
店主には心配をかけたくないこと。
治療のために金を稼がなければいけないのに、流行り病と知れたら辞めさせられるかもしれないこと。
男は、それらを林冲にだけ、打ち明けていた。
林冲もこの店を訪れた折には彼に銀子を握らせてはいたが、何度も医者に看てもらっていたようだから、ついに金が尽きたのだろう。
男のために、詳細を語ることはしなかったが、禁軍教頭直々に詫びられ、さらに弁償金まで目の前に出されては、さすがに店主も引き下がるよりほかなかった。
そうして、ことを丸く収めた後で聞いたところによれば、男の母はついに儚くなり、今度は葬式を出すのに金が入用になったのだという。林冲は、葬式代とあわせて、彼がどこか身の置き場を探すことが出来るよう、旅費も工面してやった。
その男――李小二が今、滄州の牢城の前で、林冲を呼び止めたのだ。
「小二、何故お前がこんなところに……?」
「そ、それは私が聞きてえことです、林教頭」
慌てて駆け寄り拝礼した李小二は、囚人姿の林冲のことを、目を丸くして見つめた。
「林教頭、あなた様にお助けいただいた後、私は旅に出たはいいが、頼るところもなし、あちらこちらと流れに流れ、たどり着いたのがこの滄州でした。ここで王という居酒屋に働き口を見つけまして、しばらくまじめに務め、料理も自分で作るようになったりしましてね。特に吸い物なんかはお客さんにも評判になりましたよ。そうしたら、王のご主人が俺をたいそう気に入ってくださり、一人娘の婿にと迎えていただいたんです。今は義父も義母も亡くなり、夫婦二人でこの近くに小さな酒店を構えて暮らしております。ここの獄卒たちもたまに顔を見せたりするんで、そのつけを受け取りにこうしてやって来たら、懐かしいあなた様のお姿をお見かけし、思わず声をかけたんでさぁ。それにしても、何故そのようなお姿に……?」
いささか無遠慮な視線が己の額の刺青に注がれていることに気が付いた林冲は、そこを指先でなぞりながら答えた。
「何の因果か、高太尉の恨みを買ってな……はやい話が、嵌められたのだ。そして裁判にかけられ、この滄州に流刑となった。今は天王堂で守り番を務めているが、この先何が起こるか、どのような目にあうかもまったくわからぬ。だが、まさかこんなところで、お前の懐かしい顔を見ることになるとはな」
「なんと、そんなことが……。しかしまあ、これも何かのご縁でしょう。さあ、こちらへお越しください。女房にも、いつもあなた様の話をしているんですよ」
李小二に連れられ彼の酒店へ入ると、かつて夫の苦境を救ってくれた恩人がやって来たと知った妻が、瞳を潤ませながら何度も林冲に向かって拝礼した。
「恩人さま、まさかこんなところでお会いできるとは、思ってもおりませんでした。私たち夫婦は、身寄りもおりませんが、ここで一生懸命働いてまいりました。これも天のお導きにございます」
「そう言ってもらえるのはありがたいが、俺は今や罪人だ。お前たちの店に俺が来たとなれば、店の名を穢すのではあるまいか」
「林教頭、何をおっしゃるんでさあ! あなた様の勇名は、大宋国中に轟いております。誰が高太尉の言うことなど信じましょう。どうぞ腹が減ったり、酒が飲みたくなったりしたら、うちにいらしてくださいよ。繕い物や洗い物があれば、女房が喜んでいたしますから」
「……すまんな、小二」
たとえ短い間でも、故郷でともに時を過ごしたことのある人物が近くにいるというだけで、林冲の鬱屈としていた気は、ほんの少し明るくなった。
それ以降二人は、林冲が李小二の店にふらりと顔を出したり、あるいは李小二が林冲の元へ食事や酒を運んだりと、互いに行き来を重ねた。
細やかに己を気遣ってくれる李夫妻の心意気に深く感謝した林冲は、時には柴進から差し入れられた品物や、己の銀子を分けてやった。
その返礼に、冬の寒さが深まってくると、女房が綿入れをこしらえたのを李小二が届けに来た。綿入れの温かさよりも、彼ら二人の心根の温かさが、なにより林冲の心を励ました。
(いつか必ず、東京へ戻ろう)
今はただ、ひたすらその日を信じることしかできなかった。