「それから獄卒殿、この手紙も典獄様にお届けください。柴進殿より直々に託された手紙です」
「何? 柴大官人からの手紙だと?」
柴進の名が出た途端、先ほど銀子を渡したときとは比べものにならないほど、獄卒の顔色ががらりと変わる。
慌てたように二通の手紙を改め、中身に目を通し、署名が間違いなく柴進本人のものであることを確かめた獄卒は、何かを悟ったように何度も頷き、丁重にその手紙を懐にしまった。
「林教頭、柴大官人のお知り合いとは知らず、無礼なことを申し上げました。あの方の手紙には、金には代えられんほどの価値がありますからね、これさえあれば何も心配はいりません。確かにこの手紙は典獄殿にお届けいたします。もうすぐ点視庁でのお沙汰がありますが、そのときは道中で病を発し、まだ治りきっていないと言えば、俺がうまいこと取り計らいますから」
「それはありがたい。礼を申し上げます」
銀子と手紙を持ち、颯爽と立ち去ってゆく獄卒の後姿に頭を下げる。
(今、典獄用の十両から半分取り分けていたな)
決して良い人間とは言えなさそうな男ではあったが、あのような男さえも従わせる柴進の名声には頭が下がる。
(それにしても、地獄の沙汰も金次第、か。このような使い方をしたくはなかったが……すべては生き延びるためだ)
己が柴進の名を出したので、雑居房の囚人たちも、まるで特別な人物を見るかのように遠巻きにこちらを眺めている。
見世物になったかのような視線に耐えきれず、横を向いて冷たい床に腰を下ろし、しばらく目を瞑っていた林冲だったが、そう長い時を待たずして再び先程の獄卒が姿を現した。
「林教頭、典獄殿が点視庁にて沙汰を言い渡す。こちらへ」
獄卒に連れられ点視庁の広間に入った林冲の目の前、一段高くなった執務机の向こうに座った典獄は、開封府からの書状を熱心に見るかたわら、何やら意味ありげに林冲に目配せをした。
「林冲よ、この牢獄では、太祖武徳帝の御遺制により、新しく入牢した罪人には皆等しく殺威棒にて百叩きの刑を施すこととなっておる。神妙にいたせ」
だが、典獄の言葉を聞いても誰一人、己を取り押さえようとしないのを目の当たりにし、林冲はようやく、典獄が柴進の手紙を読んで手心を加える気でいることを確信した。
「……典獄殿、恥ずかしながらこの林冲、道中にて風邪にあたり、いまだ癒えておりませぬ。どうぞ棒打ちは、今しばらくの御猶予を願いたく」
すると先の言葉通り、獄卒が一歩前に進み出て、林冲の言葉を擁護する。
「典獄殿、この者、確かに顔色も悪く、未だ病が治らぬ様子。どうぞお慈悲をもって、しばらく刑の執行は先延ばしにしていただけますよう」
柴進の屋敷で十分すぎるほどの歓待を受けた今の己は、どう見ても病を患っているようには見えぬはずだったが、典獄はさも林冲が重い病に侵されているとでもいった風に心配そうな顔をつくり、低く唸った。
「ふむ、病であればいたしかたない。しばらく刑の執行は待つことにしよう。すっかり風邪が治れば、そのときは再びここで刑を執り行うこととする」
「典獄殿、そういうことであれば、今の天王堂の守り番は任期が過ぎて久しい者ですから、林冲には奴と交代させ、病が治るまで堂の守り番をさせましょう」
「それは妙案。ではさっそく、万事そのようにいたすがよい」
典獄はそれ以上何も語ろうとせず、手早く公文書を書きつけ、林冲たちに牢に戻るよう命じた。
独房から林冲の荷物を引き取り、その足で林冲を天王堂へと案内しながら、獄卒が得意げに笑う。
「林教頭、どうですかい、俺の手並みは。天王堂の守り番なんざ、刑にあって刑にあらず、この牢の苦役の中でも一番楽な務めですぜ。することと言えば、朝と晩に必ず線香をあげ、床掃除をするだけです。他の囚人たちは、朝から晩まで内に外に這いずり回り、ようやく眠れると思えばもう空が白み始めるような生活なんですから。そして付け届けを用意できぬ者は、土牢に放り込まれ、糞尿にまみれながら苦しみ続けるってわけです」
「……獄卒殿、あなたのお気遣いには心から感謝をいたします」
強欲そうな目つきの獄卒に、林冲は再び懐から二、三両の銀子を取り出し、そっと握らせる。
「実は、あなたの優しさに甘えて、もう一つお願いがあるのです。どうか私の枷をすべて外してはいただけませんか。これでは線香を焚くのも床掃除をするのも一苦労なのです」
「なんだ、そんなことはお安い御用。少し待っていてください」
高笑いした獄卒は、いそいそと典獄のもとへ駆けてゆき、許しをもらって戻ってくると、林冲の首枷、手枷、そして足枷もすべて取り外した。
「さあ、これで堂の守り番にも励めるというものですな。困ったことがあれば、なんでも俺に言ってくださいよ、林教頭」
この日以来、天王堂の奥の小さな部屋が、林冲の家となった。
朝になれば線香を焚き、昼間は堂の中を掃除し、夜になればまた線香を焚く、その繰り返しである。
いったいいつ終わるとも知れぬ刑期を、ただこうして無為に過ごさねばならぬのかと思えば気が狂いそうにもなるが、柴進が事あるごとにせっせと衣類や食糧を己のもとに届け、その荷の隙間には付け届けが滞らぬようにと銀子が挟み込まれているのを見れば、彼に恩を返すためにも、そしていつか東京に戻りこの手で復讐を遂げるためにも、どうにか生き抜かねばならぬと己に言い聞かせた。
典獄や獄卒たちは、林冲からの付け届けや、柴進からの折に触れた手紙のおかげで決して己につらく当たることはなく、しばらくすれば何かと親し気に話しかけてくるようになり、牢の近辺であれば好きに出歩いても何も言うことはなかった。
また、ほかの囚人たちも、柴進からの贈り物を分け与え、いたぶられている者を見留めては獄卒たちや典獄に注進をする林冲の姿に何かを感じたのであろう、暇を持て余した林冲の手合わせの相手を務めるような間柄となった。
まるで牢獄とは思えぬほど穏やかな日々がゆっくりと過ぎていき、やがて季節は秋を迎え、そして冬がやってきた。
あれほど汗水たらして流刑の道を歩んだのが次第に懐かしく感ずるほど、冬の足音は、はやかった。
朝には霜が降り、夜には線香を焚く手がかじかむようになり、足の火傷は癒えた。
ただ、深い怒りと恨みと悲しみだけが、流れる時に取り残されたように、林冲の内に燻り続けていた。
(俺はこのまま、どうなるのだろうな)
ぬるま湯の中で煮殺されるような日々がいつまで続くのか、皆目見当はつかない。そもそも、この流刑の刑期など、旅立つ前に一言も聞かなかった。
(このまま、何も果たせぬまま、ここで命が尽きるのか……あの男とも、もう二度と……)
あの男、と心の内で呟いたのが誰のことであるのか、今は考えたくなかった。
このままぼんやりしていては鬱々とするばかりなので、林冲は気晴らしにと牢城を出て、辺りを散歩でもしようかと歩みはじめ、
「り、林教頭? なぜあなた様がこんなところに!」
どこか懐かしい声が、林冲の歩みを止めた。
<第九回 了>