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正体

ー/ー



 魔神が、喉の奥を潰すようなうめき声を上げた。

「ちくしょう。よくも、よくもっ!」

 真っ白な髪に、角。

 しかし――そこにいたのは、間違いなく夏野真弘だった。兜が外れ、剥き出しになった声が、記憶の中のそれと重なる。疑いようがなかった。

 勇斗は剣を鞘に収めた。右手にドラシガーを持ち、煙を吐きながら真弘を見据えた。

「真弘くんが、どうしてこの世界に?」

 真弘は答えない。白と黒が反転した瞳で勇斗を睨み、歯ぎしりをしている。

「おいユート、知り合いなのか?」

「うん。僕の親友の弟。でも、なんで……」

「オレは魔神だ」

 真弘は頭を抱えた。

「マヒロなんて名前じゃない。マヒロ……真弘?」

 言葉が途中で歪む。

 次の瞬間、咆哮。真弘の足もとに巨大な黒の魔法陣が展開され、玉座の間が軋み、揺れた。

「とてつもないマナの乱れっス! ユート!」

 勇斗はドラシガーを咥え、聖剣の柄に手をかける。だが、手が震えた。

 できない。目の前にいるのは、親友の弟だ。殺せない。

 どうすればいい?

 立ちすくんでいる勇斗の真横を、鋭い光が駆け抜けた。光は一直線に真弘の腹部を貫く。

 爆発。漆黒の鎧が内側から弾け飛び、真弘は大量の血を吐きながら地に伏した。

「やれやれ」

 コツコツ、と乾いた靴音が玉座の間に響く。

「いつまでも甘いですね、ユートくん」

 聞き覚えのある、落ち着いた声。振り向くと、長い銀髪の男が立っていた。手には、わずかにねじれた黒い杖。

 ――トゥーレさん?

 死んだはずの男が、そこにいた。

 声をかけようとした時、全身を殴られたような衝撃が走った。

 気づけば、勇斗の身体は壁にめり込んでいた。瓦礫が崩れ、足もとのマグマへ落ちていく。刹那、三本の黒い剣が飛来し、右腕と両大腿部を貫いた。磔のように縫い止められる。

「無理にもがけば、そのままマグマ行きだよ?」

 ひらひらと黒い翼を羽ばたかせ、小柄な少年が宙に現れた。

 ペックだった。

 だが、その気配は知っているものとはまるで違う。白かった髪は棘のように逆立つ黒へ変わり、天使の翼は悪魔のように歪んでいる。

 理解が追いつかない。一体、何が起きている?

 勇斗はドラシガーの煙で痛みを抑えながら、トゥーレとペックを交互に見た。

「ユートくん。ここまでご苦労様でした」

 トゥーレは穏やかに微笑む。

「あとは、私がすべてを終わらせます」

 眼鏡のブリッジを押し上げ、倒れている真弘のもとへ歩み寄る。

 トゥーレは迷いなく杖を突き立てた。黒い軸が真弘の体を貫いた瞬間、濁った宝石が脈打つ。

 トゥーレの手に異変が起こった。杖の表面が溶けるように崩れ、黒い質感が指の間へ這い上がる。皮膚は絡め取られ、木目とも鱗ともつかない模様が、手首から腕へ広がっていった。

 気づいた時には、トゥーレの手はもう杖を握っていなかった。杖そのものが、彼の手になっていた。

「魔神の力と、マナの女神の力……」

 トゥーレは満足そうに呟く。

「ふむ。悪くない」

 トゥーレが踵を返した、その直後だった。

 ずっと鎮座していた赤い飛竜が動いた。怒りを叩きつけるような咆哮とともに、巨体が跳ね上がる。

 灼熱のブレスがトゥーレを呑み込もうとした。

 だが、トゥーレは一切動じない。手を軽く振ると、水色の魔法陣が即座に展開された。泡の障壁が膨らみ、ブレスを受け止める。

 飛竜が羽ばたき、宙へ躍り出る。疾風が空間を引き裂いた。巨体がトゥーレめがけて突進する。

 ほぼ同時に、ミュールが地を蹴った。低く、速い。猛獣のような踏み込み。

 その背後で、チカップが複数の魔法陣を同時展開する。

 三方向から、ほぼ同時だった。

 だが、トゥーレは一歩も退かなかった。

 指を鳴らすような仕草。直後、飛竜の胸元で爆発が起きた。巨体が空中で弾かれ、重く地面に叩きつけられる。

 続けざまに、トゥーレは半身を捻った。

 ミュールの拳が、あと数センチのところをすり抜ける。

 交差は一瞬だった。

 金属音。わずかに遅れて、ミュールは膝から崩れ落ちた。

「四肢の腱は断ちました。これで動けないでしょう」

 淡々と告げたトゥーレは手をかざす。彼へ向かって降り注いだ氷の槍は、一息のうちに砕け散った。熱風の刃も、同等の風圧で相殺される。

「トゥーレさん、どうして!」

 チカップが叫び、羽ペンを走らせた。宙に魔法陣が展開される。赤、青、緑、茶色。円環が重なり、複雑な幾何学模様が噛み合っていく。

 トゥーレは、ふっと笑った。こちらも同様に魔法陣を展開する。

 チカップの魔法と、トゥーレの魔法が正面から衝突した。

 互いに一歩も退かず、魔法が正面から噛み合う。

 トゥーレの魔法陣が、わずかに遅れて重なった。

「なるほど。想定より、力が、上がっていますね……」

 炎と炎が噛み合い、水と水が押し合う。

「その鎧が、力を増幅させているようだ」

 トゥーレは続けた。

「そうそう。あなたの集落での事故……」

 平然とした口調だった。

「あれは本当に残念でした。私があなたの両親を操らなければ、起きなかったことです」

 チカップの眉間に、深く皺が寄る。

「どういう……」

 岩と岩が衝突し、弾け飛ぶ。つむじ風が巻き起こる。

「つまり、すべて私が仕組んだということです」

 トゥーレが、邪悪な笑みを浮かべた。

「本当は、モッケ族の里のように直接魔族に襲わせればよかった。しかし、あの集落は結界が強かったのでね」

「うあああああっ!」

 これまで聞いたことのない叫びが、チカップの喉から迸った。血走った三つの目が、一気に見開かれる。

 羽ペンが高速で動き、巨大な魔法陣が描かれる。

 詠唱に入ろうとした、その途端――

 光の矢が、一直線にチカップの首を貫いた。

 羽ペンが音を立てて地面に落ちる。

 チカップは両膝をつき、喉を押さえ、もがいた。

「抜けば、死にますよ?」

 矢は微動だにしない。喉元に刺さったままの光が、脈打つように淡く明滅する。

 トゥーレの瞳は、すでにチカップを見ていなかった。

 興味を失ったように視線を外し、眼鏡の位置を整える。

 そして、その視線が勇斗を捉えた。

「さて、ユートくん。あなたのおかげで、私の計画は実に順調です。感謝していますよ」

 勇斗の背中を、冷たい汗が伝った。ドラシガーを噛み砕いてしまいそうになるのを、必死でこらえる。

 まただ。

 悔しさより先に、情けなさが胸を満たした。

 トゥーレが、ゆっくりと歩み寄る。

「君は、強くなったつもりでいただけだ」

 その言葉が終わるより早く、トゥーレの指先が、わずかに動いた。

 次の瞬間、身体の奥が、抜け落ちた。

 衝撃は、遅れてやってきた。

 勇斗は、自分の胴体に空いた複数の穴を見て、ようやく理解する。血が溢れ、マグマに溶けて消えていった。

「急所は外しています。せいぜい苦しみながらご覧なさい」

 そう言い残し、トゥーレは勇斗に背を向けた。

「さて」

 トゥーレの視線の先に、ランパが立っていた。肩をわなわなと震わせ、歯を食いしばっている。魔神から受けたはずの傷は、すでに塞がっていた。

「よくも、よくもユートを……みんなを――!」

 地鳴りが走る。

 ランパの髪が、赤く染まった。

 足もとから、根が噴き出す。黒く脈打つそれは蛇のようにうねり、床を割り、壁を砕きながら広がっていく。空中に、花が咲いた。肉厚な花弁が歯のように重なり、中心の闇が大きく口を開ける。さらに、無数の葉が舞い上がる。刃のように薄く、縁が冷たい光を帯びていた。

 殺意そのものが、束になってトゥーレへ殺到した。

「ほう」

 低く感嘆し、トゥーレは半歩だけ位置を変えた。

 絡みつく根を魔法で焼き切る。だが、切断面から即座に新たな根が生え、地を這う。花が噛みつく。光の防壁を展開するが、花弁が壁そのものを侵食し、軋ませた。舞う葉が魔法陣を裂く。詠唱が成立する前に、術が崩壊する。

「なるほど、素晴らしい」

 トゥーレの足もとで、大地が隆起した。鋭利な根が、一直線に胸もとへ伸びる。

「ですが」

 黒い翼が、割り込んだ。

 次の瞬間、根はペックの身体を貫いていた。

「君は、幼すぎる。力の使い方をまったくわかっていない」

 冷ややかな視線が、ランパを射抜く。

「非常に、残念です」

 光の球が、ランパの周囲に生まれる。無数の光線が全方位から降り注ぎ、ランパの全身を容赦なく焼いた。

 精霊樹の枝が、力を失って床に落ちる。

「だが、君には価値がある」

 透明な結晶が、ランパの身体を包み込んだ。その内側で、怒りと苦痛に歪んだ表情が、そのまま固まる。

「共に、新しい世界を作ろうじゃありませんか」

 トゥーレは高笑いし、地に落ちたペックを一瞥した。

「さて、ペック。あなたの役割は終わりです。契約を破棄します。さようなら」

「トゥーレの、旦那……」

 ペックは、か細く呟いた。

「お前は、一体、何者なんだ……」

 震える声で、ミュールが問う。

「私の名は、ヴェン」

 薄く、満足そうに笑う。

「これから世界の王となる者だ」

 その言葉を残し、ヴェンの姿はランパとともにかき消えた。

 静寂が訪れる。

 勇斗は、目の前で起きた出来事を、まだ受け止めきれずにいた。

 ヴェン――始祖精霊ヴェン。

 チキサの話では、確かに滅びたはずの存在だ。それが、なぜ?

 消えかける意識を、ドラシガーの力で必死につなぎ止めながら、勇斗は思考を走らせる。しかし、答えは出なかった。

 視線を巡らせる。みんな、倒れている。ランパが、いない。

 脳裏に、ランパの悲痛な表情が浮かんでは消える。あの、叫びかけたまま凍りついた顔が。

 叫びたかった。でも、声が出なかった。

 わかってしまったからだ。ここで何をしても、もう遅いと。

 自分が弱かった。それだけだった。

 だから、次は。次があるのなら、必ず――

 ドラシガーが、完全に燃え尽きた。灰となった葉巻が崩れ、リングが、音もなくマグマへと沈んだ。

 その瞬間だった。全身を引き裂くような激痛が、遅れて押し寄せる。

 視界が歪み、音が遠ざかる。

 勇斗は、抵抗する力すら失い、漆黒の闇へと静かに墜ちていった。

 ◆

 玉座の間が、音を立てて崩れ始めていた。天井の亀裂から、赤い光が漏れ落ちる。岩片が砕け、床を叩いた。

 ペックは、残された力を振り絞り、小さな羽を動かした。その姿は、元に戻っていた。ふわふわとした白い髪。天使のような、柔らかな羽。

 ――ああ。

 辺りを見回す。

 主は、もういない。

 胸の奥が、すうっと空になる感覚があった。間もなく、主に関する記憶はすべて消える。名前も、声も、思い出も。

 それでいいはずだった。

 自分は、見るべき光を見失ってしまった。守るべきものを、間違えてしまった。

 でも――最後に、できることはある。

「ぼくちん、今度は……」

 小さな声が、崩れゆく空間に溶けた。

「影の向こうを、照らすよ」

 ペックは、両手を天へ掲げた。

 柔らかな光が溢れ出し、勇斗たちの身体を包み込んだ。

 次の瞬間、勇斗たちの姿が、光の中に溶けて消えた。

 玉座の間に残ったのは、崩壊の音だけ。

 やがて、誰もいなくなった空間に、ひとつの精霊石が転がった。

 それは、かつてペックだったもの。

 瓦礫が落ちる。

 精霊石は、音もなく押し潰された。


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 魔神が、喉の奥を潰すようなうめき声を上げた。
「ちくしょう。よくも、よくもっ!」
 真っ白な髪に、角。
 しかし――そこにいたのは、間違いなく夏野真弘だった。兜が外れ、剥き出しになった声が、記憶の中のそれと重なる。疑いようがなかった。
 勇斗は剣を鞘に収めた。右手にドラシガーを持ち、煙を吐きながら真弘を見据えた。
「真弘くんが、どうしてこの世界に?」
 真弘は答えない。白と黒が反転した瞳で勇斗を睨み、歯ぎしりをしている。
「おいユート、知り合いなのか?」
「うん。僕の親友の弟。でも、なんで……」
「オレは魔神だ」
 真弘は頭を抱えた。
「マヒロなんて名前じゃない。マヒロ……真弘?」
 言葉が途中で歪む。
 次の瞬間、咆哮。真弘の足もとに巨大な黒の魔法陣が展開され、玉座の間が軋み、揺れた。
「とてつもないマナの乱れっス! ユート!」
 勇斗はドラシガーを咥え、聖剣の柄に手をかける。だが、手が震えた。
 できない。目の前にいるのは、親友の弟だ。殺せない。
 どうすればいい?
 立ちすくんでいる勇斗の真横を、鋭い光が駆け抜けた。光は一直線に真弘の腹部を貫く。
 爆発。漆黒の鎧が内側から弾け飛び、真弘は大量の血を吐きながら地に伏した。
「やれやれ」
 コツコツ、と乾いた靴音が玉座の間に響く。
「いつまでも甘いですね、ユートくん」
 聞き覚えのある、落ち着いた声。振り向くと、長い銀髪の男が立っていた。手には、わずかにねじれた黒い杖。
 ――トゥーレさん?
 死んだはずの男が、そこにいた。
 声をかけようとした時、全身を殴られたような衝撃が走った。
 気づけば、勇斗の身体は壁にめり込んでいた。瓦礫が崩れ、足もとのマグマへ落ちていく。刹那、三本の黒い剣が飛来し、右腕と両大腿部を貫いた。磔のように縫い止められる。
「無理にもがけば、そのままマグマ行きだよ?」
 ひらひらと黒い翼を羽ばたかせ、小柄な少年が宙に現れた。
 ペックだった。
 だが、その気配は知っているものとはまるで違う。白かった髪は棘のように逆立つ黒へ変わり、天使の翼は悪魔のように歪んでいる。
 理解が追いつかない。一体、何が起きている?
 勇斗はドラシガーの煙で痛みを抑えながら、トゥーレとペックを交互に見た。
「ユートくん。ここまでご苦労様でした」
 トゥーレは穏やかに微笑む。
「あとは、私がすべてを終わらせます」
 眼鏡のブリッジを押し上げ、倒れている真弘のもとへ歩み寄る。
 トゥーレは迷いなく杖を突き立てた。黒い軸が真弘の体を貫いた瞬間、濁った宝石が脈打つ。
 トゥーレの手に異変が起こった。杖の表面が溶けるように崩れ、黒い質感が指の間へ這い上がる。皮膚は絡め取られ、木目とも鱗ともつかない模様が、手首から腕へ広がっていった。
 気づいた時には、トゥーレの手はもう杖を握っていなかった。杖そのものが、彼の手になっていた。
「魔神の力と、マナの女神の力……」
 トゥーレは満足そうに呟く。
「ふむ。悪くない」
 トゥーレが踵を返した、その直後だった。
 ずっと鎮座していた赤い飛竜が動いた。怒りを叩きつけるような咆哮とともに、巨体が跳ね上がる。
 灼熱のブレスがトゥーレを呑み込もうとした。
 だが、トゥーレは一切動じない。手を軽く振ると、水色の魔法陣が即座に展開された。泡の障壁が膨らみ、ブレスを受け止める。
 飛竜が羽ばたき、宙へ躍り出る。疾風が空間を引き裂いた。巨体がトゥーレめがけて突進する。
 ほぼ同時に、ミュールが地を蹴った。低く、速い。猛獣のような踏み込み。
 その背後で、チカップが複数の魔法陣を同時展開する。
 三方向から、ほぼ同時だった。
 だが、トゥーレは一歩も退かなかった。
 指を鳴らすような仕草。直後、飛竜の胸元で爆発が起きた。巨体が空中で弾かれ、重く地面に叩きつけられる。
 続けざまに、トゥーレは半身を捻った。
 ミュールの拳が、あと数センチのところをすり抜ける。
 交差は一瞬だった。
 金属音。わずかに遅れて、ミュールは膝から崩れ落ちた。
「四肢の腱は断ちました。これで動けないでしょう」
 淡々と告げたトゥーレは手をかざす。彼へ向かって降り注いだ氷の槍は、一息のうちに砕け散った。熱風の刃も、同等の風圧で相殺される。
「トゥーレさん、どうして!」
 チカップが叫び、羽ペンを走らせた。宙に魔法陣が展開される。赤、青、緑、茶色。円環が重なり、複雑な幾何学模様が噛み合っていく。
 トゥーレは、ふっと笑った。こちらも同様に魔法陣を展開する。
 チカップの魔法と、トゥーレの魔法が正面から衝突した。
 互いに一歩も退かず、魔法が正面から噛み合う。
 トゥーレの魔法陣が、わずかに遅れて重なった。
「なるほど。想定より、力が、上がっていますね……」
 炎と炎が噛み合い、水と水が押し合う。
「その鎧が、力を増幅させているようだ」
 トゥーレは続けた。
「そうそう。あなたの集落での事故……」
 平然とした口調だった。
「あれは本当に残念でした。私があなたの両親を操らなければ、起きなかったことです」
 チカップの眉間に、深く皺が寄る。
「どういう……」
 岩と岩が衝突し、弾け飛ぶ。つむじ風が巻き起こる。
「つまり、すべて私が仕組んだということです」
 トゥーレが、邪悪な笑みを浮かべた。
「本当は、モッケ族の里のように直接魔族に襲わせればよかった。しかし、あの集落は結界が強かったのでね」
「うあああああっ!」
 これまで聞いたことのない叫びが、チカップの喉から迸った。血走った三つの目が、一気に見開かれる。
 羽ペンが高速で動き、巨大な魔法陣が描かれる。
 詠唱に入ろうとした、その途端――
 光の矢が、一直線にチカップの首を貫いた。
 羽ペンが音を立てて地面に落ちる。
 チカップは両膝をつき、喉を押さえ、もがいた。
「抜けば、死にますよ?」
 矢は微動だにしない。喉元に刺さったままの光が、脈打つように淡く明滅する。
 トゥーレの瞳は、すでにチカップを見ていなかった。
 興味を失ったように視線を外し、眼鏡の位置を整える。
 そして、その視線が勇斗を捉えた。
「さて、ユートくん。あなたのおかげで、私の計画は実に順調です。感謝していますよ」
 勇斗の背中を、冷たい汗が伝った。ドラシガーを噛み砕いてしまいそうになるのを、必死でこらえる。
 まただ。
 悔しさより先に、情けなさが胸を満たした。
 トゥーレが、ゆっくりと歩み寄る。
「君は、強くなったつもりでいただけだ」
 その言葉が終わるより早く、トゥーレの指先が、わずかに動いた。
 次の瞬間、身体の奥が、抜け落ちた。
 衝撃は、遅れてやってきた。
 勇斗は、自分の胴体に空いた複数の穴を見て、ようやく理解する。血が溢れ、マグマに溶けて消えていった。
「急所は外しています。せいぜい苦しみながらご覧なさい」
 そう言い残し、トゥーレは勇斗に背を向けた。
「さて」
 トゥーレの視線の先に、ランパが立っていた。肩をわなわなと震わせ、歯を食いしばっている。魔神から受けたはずの傷は、すでに塞がっていた。
「よくも、よくもユートを……みんなを――!」
 地鳴りが走る。
 ランパの髪が、赤く染まった。
 足もとから、根が噴き出す。黒く脈打つそれは蛇のようにうねり、床を割り、壁を砕きながら広がっていく。空中に、花が咲いた。肉厚な花弁が歯のように重なり、中心の闇が大きく口を開ける。さらに、無数の葉が舞い上がる。刃のように薄く、縁が冷たい光を帯びていた。
 殺意そのものが、束になってトゥーレへ殺到した。
「ほう」
 低く感嘆し、トゥーレは半歩だけ位置を変えた。
 絡みつく根を魔法で焼き切る。だが、切断面から即座に新たな根が生え、地を這う。花が噛みつく。光の防壁を展開するが、花弁が壁そのものを侵食し、軋ませた。舞う葉が魔法陣を裂く。詠唱が成立する前に、術が崩壊する。
「なるほど、素晴らしい」
 トゥーレの足もとで、大地が隆起した。鋭利な根が、一直線に胸もとへ伸びる。
「ですが」
 黒い翼が、割り込んだ。
 次の瞬間、根はペックの身体を貫いていた。
「君は、幼すぎる。力の使い方をまったくわかっていない」
 冷ややかな視線が、ランパを射抜く。
「非常に、残念です」
 光の球が、ランパの周囲に生まれる。無数の光線が全方位から降り注ぎ、ランパの全身を容赦なく焼いた。
 精霊樹の枝が、力を失って床に落ちる。
「だが、君には価値がある」
 透明な結晶が、ランパの身体を包み込んだ。その内側で、怒りと苦痛に歪んだ表情が、そのまま固まる。
「共に、新しい世界を作ろうじゃありませんか」
 トゥーレは高笑いし、地に落ちたペックを一瞥した。
「さて、ペック。あなたの役割は終わりです。契約を破棄します。さようなら」
「トゥーレの、旦那……」
 ペックは、か細く呟いた。
「お前は、一体、何者なんだ……」
 震える声で、ミュールが問う。
「私の名は、ヴェン」
 薄く、満足そうに笑う。
「これから世界の王となる者だ」
 その言葉を残し、ヴェンの姿はランパとともにかき消えた。
 静寂が訪れる。
 勇斗は、目の前で起きた出来事を、まだ受け止めきれずにいた。
 ヴェン――始祖精霊ヴェン。
 チキサの話では、確かに滅びたはずの存在だ。それが、なぜ?
 消えかける意識を、ドラシガーの力で必死につなぎ止めながら、勇斗は思考を走らせる。しかし、答えは出なかった。
 視線を巡らせる。みんな、倒れている。ランパが、いない。
 脳裏に、ランパの悲痛な表情が浮かんでは消える。あの、叫びかけたまま凍りついた顔が。
 叫びたかった。でも、声が出なかった。
 わかってしまったからだ。ここで何をしても、もう遅いと。
 自分が弱かった。それだけだった。
 だから、次は。次があるのなら、必ず――
 ドラシガーが、完全に燃え尽きた。灰となった葉巻が崩れ、リングが、音もなくマグマへと沈んだ。
 その瞬間だった。全身を引き裂くような激痛が、遅れて押し寄せる。
 視界が歪み、音が遠ざかる。
 勇斗は、抵抗する力すら失い、漆黒の闇へと静かに墜ちていった。
 ◆
 玉座の間が、音を立てて崩れ始めていた。天井の亀裂から、赤い光が漏れ落ちる。岩片が砕け、床を叩いた。
 ペックは、残された力を振り絞り、小さな羽を動かした。その姿は、元に戻っていた。ふわふわとした白い髪。天使のような、柔らかな羽。
 ――ああ。
 辺りを見回す。
 主は、もういない。
 胸の奥が、すうっと空になる感覚があった。間もなく、主に関する記憶はすべて消える。名前も、声も、思い出も。
 それでいいはずだった。
 自分は、見るべき光を見失ってしまった。守るべきものを、間違えてしまった。
 でも――最後に、できることはある。
「ぼくちん、今度は……」
 小さな声が、崩れゆく空間に溶けた。
「影の向こうを、照らすよ」
 ペックは、両手を天へ掲げた。
 柔らかな光が溢れ出し、勇斗たちの身体を包み込んだ。
 次の瞬間、勇斗たちの姿が、光の中に溶けて消えた。
 玉座の間に残ったのは、崩壊の音だけ。
 やがて、誰もいなくなった空間に、ひとつの精霊石が転がった。
 それは、かつてペックだったもの。
 瓦礫が落ちる。
 精霊石は、音もなく押し潰された。