魔王城のとある一日。
ミノタウロスは重い足音を響かせながら、いつもの一室に出勤した。そこは彼が日々仕事をこなす場所であり、上司のエリシアと顔を合わせる場でもある。
「あれ……エリシア殿……」
部屋を見渡しても、彼女の姿はどこにも見当たらない。
(寝坊かな……)
そう呑気に考えながら、彼は黙々と準備を始めた。やがて就業時間が訪れたが、エリシアは依然として現れない。
(珍しいな……。まあ、来たら適当に声をかければいいか。)
一人きりで待っていると、突如として——
——ガチャ
扉が勢いよく開いた。その音に振り返ったミノタウロスは、軽口を叩こうとした。
「これはこれは優雅な出勤で——」
だが、彼の言葉は途中で途切れた。
「おはよーございまし、エリィシアでーす。ですわ。」
?????
「ん……んん〜????」
部屋に入ってきたのは、確かにいつものエリシアだった。彼女の優雅な格好もそのまま。だが、どこかがおかしい。
(目……目が怖い……!)
いつもはどこか柔らかく、油断した表情で目を細めている彼女の顔が、今日は完全に違っていた。目をギラギラと見開き、口元は妙に引きつった笑みを浮かべている。
「どうも〜エリィシアですわ〜。」
彼女の声は明らかに変だった。しかも微妙に巻き舌になっている。
(巻き舌……?)
ミノタウロスは困惑しながら、目の前のエリシアをじっと見つめた。
(これは……どういう状況だ……!?)
エリシアは普段と変わらぬように見えるのに、どこか根本的に別人のようだった。ミノタウロスは頭を抱えたくなる衝動を必死に抑えながら、次の言葉を慎重に選ぼうとしていた。
エリシア?は席につくと、そのまま朝食の包みを広げた。
——ニチャニチャニチャニチャ……
その音が妙に耳に残る。食事をする音とは思えない、不気味な湿った音だ。ミノタウロスは耐えきれず声をかけた。
「エ、エリシア殿……?」
しかし返事はない。
ミノタウロスはちらりと包みの中身を覗いたが、目の前の光景に一瞬言葉を失った。
(それ、なんだよ……)
タッパーの中には、どう見ても蒸した鶏肉のようなものが無造作に詰め込まれていた。
それをエリシア?はフォークも使わず、手でつかみ、次々と口に押し込んでいる。
「ユーがな朝食ですわ〜。」
口元を汚しながらエリシア?はそう言い放った。
「優雅……ですな……」
ミノタウロスは困惑を隠せないまま、とりあえず彼女に合わせて頷いてみた。しかし、内心では頭を抱えていた。
(いやいや、どこが優雅なんだよ!)
彼は目の前の光景を受け入れるべきか否か、ひたすら迷い続けていた。
朝食を終えた後、業務に取り掛かるはずの時間が訪れた。
しかし、この部署は他と異なり、特に異色の存在だった。所属するのは上司であるエリシアと部下のミノタウロスの二人だけ。そして業務のすべては、エリシアの指示によって成り立っている。
ミノタウロスは不安を抱えながらも、いつものように尋ねた。
「エリシア殿……今日は何を……」
だが返ってきた答えは、まるで意味を成していなかった。
「全部、ブチかませばいいのですわ!ブチかませばいいのですわ!」
エリシア?は焦点の合わない目で、全く指示にならない言葉を連呼している。
「いや……ま、まあ……何かあったらいつ——」
ミノタウロスがなんとか会話をつなごうとしたその時だった。
「キエェ〜!」
突然の大声に、彼は思わず後ろへ飛び退いた。その巨体がガタガタと大きな音を立て、室内が一瞬揺れる。
(絶対エリシアじゃない……)
冷や汗をかきながら、ミノタウロスは頭の中で確信していた。
だって、いつものエリシアならこんな間抜けな雄叫びはあげない。
本物なら——
(『キエエエェエえぇえ〜!』だろ……!)
違いが微妙すぎて、本人にしか伝わらないような気もするが、ミノタウロスにはその違いがはっきりわかる。
「エリシア殿、本当にどうされたんですか……?」
恐る恐る問いかけるも、返答の代わりに彼女は机の上をバンバンと叩き始めた。ミノタウロスは深いため息をつきながら、どうにかこの異様な状況に対処しようと試みていた。
——ガチャ
部屋の扉が再び開き、魔王軍の通達係が顔を出した。
「これ……全所展開の通達です。」
簡潔な言葉とともに、彼は一枚の紙を手渡した。ミノタウロスはそれを受け取り、中身を確認した。
【悪路に特化した乗り物のアイデアを募集中】
(なんだこれ……また妙な通達が来たな。)
彼は首をひねりながら、とりあえず上司であるエリシアにその紙を渡すことにした。
「え、エリシア殿……通達が来ておりますが。」
慎重に声をかけながら、彼女の机の上にそっと紙を置いた。
——パサ
エリシア?はゆっくりと紙を拾い上げた。読んでいるのか、ただ眺めているだけなのかは全くわからない。彼女の表情に変化はない。ただ、しばらくしてミノタウロスの方に顔を向けた。
「ヨツンバインになりなさい。早く。」
(……え?)
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。いや、できたが、受け入れるのが難しかった。
「……うおおおおぉ、クッッソおおおおおお!」
結局、ミノタウロスはその命令に従うしかなかった。
(……いや、本物のエリシアかどうかはわからない。でも、多分逆らったら酷い目に遭うだろうな……。)
彼は諦めた表情で四つん這いになり、地面に手をついた。その姿を満足げに眺めるエリシア?のギラついた目が、ますます状況の異常さを際立たせていた。
(これ……いつまで続くんだよ……!)
内心の叫びを飲み込んだミノタウロスは、ただ静かに耐えることしかできなかった。
——ガチャ
再び扉が開いた音に、ミノタウロスはついに我慢の限界を迎えた。
「ぐおおおお!今度はなんだ!?」
怒りと困惑が混ざった声を上げて振り返ると、そこに立っていたのは——。
「ご機嫌いかが?」
「あっ!」
本物のエリシアだった。
(やっぱりそうだ……!)
ミノタウロスは瞬時に確信した。目の前のエリシアから放たれる圧倒的なオーラ。その有無を言わせない強者の微笑み。
(じゃあ、上に乗っているやつは一体……!?)
エリシアは周囲をちらりと見渡すと、デスクに山積みになっていた書類を片手で適当に押しのけ、そのまま椅子に腰を下ろした。
「あ、言い忘れてましたわね……。それ、アリシアですの。」
「あ、アリシアぁ!?」
ミノタウロスは思わず絶叫した。その混乱をよそに、エリシアは平然と説明を始めた。
「とあるダンジョンで『人の会話を真似する魔物』と遭遇したのですけれど、ちょっと利用してクローンを作ってみましたの。で、私が不在の間、身代わりになってもらおうと思ったのですわ。」
上に乗っている"アリシア"は、相変わらず妙な巻き舌で自分の名前を名乗った。
「エリィシアです!」
だが、よく耳を澄ましてみると、どうやら「アリシア」と言っているようだった。ただし、無駄に巻き舌が強烈なせいで、まるで別の名前のように聞こえる。
「……おい、本当にこれでいいんですか、エリシア殿。」
ミノタウロスは額を押さえながらため息をついたが、エリシアは相変わらず優雅な微笑みを浮かべたままだった。
エリシアが席に座り、手元のスマホをいじり始めたのを、ミノタウロスはじっと見ていた。何か言いたげな雰囲気を感じてはいたが、彼女が口を開くまで黙って待つことにした。
しばらくして、エリシアが顔を上げた。
「あ、ミノタウロス。」
「はい?」
「急遽、トキオに出張に行くことになりましたので。」
「えぇ!?と、トキオってどこ……?」
ミノタウロスは驚いて聞き返した。
「あ〜ちょっと違う……次元の……まあ、あなたに言ってもしょうがないですわ!じゃあそういうわけで!」
それだけ言うと、エリシアは席を立ち、足元にあったスーツケースを手に取って部屋を出ようとした。
——ガラガラ
スーツケースを転がす音を背に、彼女は優雅に部屋を去っていった。
「……」
ミノタウロスは言葉を失ったまま、ぽつんとその場に取り残された。
ふと横を見ると、そこにはまだアリシアがいた。
そして、次の瞬間——。
「ヨツンバインに!早く!早く四つん這いんに!」
彼女は妙な勢いでミノタウロスの腕をがっちりと掴み、巻き舌の指令を飛ばしてきた。
「ぐおおおおおおお!チキショオオオオオオォオオオォ……!」
渾身の叫びを上げながら、ミノタウロスはしぶしぶ地面に手をついた。
——その咆哮が魔王城の一室に木霊し、わずかに揺れる壁がその悲壮感を物語っていた。