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ある古いストリートピアノの話

ー/ー




 我が家はとても貧乏だった。


 お世辞にもキレイとは言えないオンボロのアパート
 外階段は錆びていて一段歩くごとに耳障りな音を立てた。
 お風呂もなかった。

 私は父親の顔を知らない。
 物心ついた時からいなかった。

 幼い頃に亡くなったと聞かされて育ってきたけれども、写真の一枚もなく、お墓参りにも行ったことがない。

 つまり、そういうことなんだろう。


 大きくなってから奨学金の申し込みをするために、区役所で戸籍謄本を取り、母親と私の名前だけが記され、空欄になっている父親の欄を見ても、ああ、やっぱりね。そう思っただけだった。


 お母さんは女手一つで、私を一生懸命育ててくれた。

 でも、手に職がある訳でもない女の稼ぎだけで生計を立てるのはやはり大変だったのだろう。

 記憶の中のお母さんはいつも疲れている様子だった。ゴムで後ろに束ねただけの髪の毛、化粧っけもほとんどなかった。

 朝は近所の老人ホームで朝食の配膳の仕事を、
 昼はお弁当屋さんとスーパーのレジ打ちをしていた、どっちか片方だけだと毎日は働けないからね、と笑った。

 毎晩ではないけれども、お酒を出すようなお店の手伝いにも時々行っていた。

 お母さんがいない日は、誰かが来ても、電話が来ても決して出てはいけないと厳しく言われていた。

 冬に暖房が使えないのは辛かったけれども、火事になんかなったら大変だからね、と、布団の中に入れてもらった湯たんぽで暖を取った。

 明け方、お化粧とお酒の匂いのするお母さんが帰ってきて、
 ただいまと私の布団に潜り込んで来ると温かいのと安心したので嬉しくってぎゅっと抱きついた。

 小学校に入る時、真っ赤なランドセルを買ってもらった。
 嬉しくて誇らしくて何度も何度も鏡の前でポーズを取ってみせた。

 そんな私のことを見つめながらお母さんは少し泣いていた。

 今なら少しだけその時のお母さんの気持ちがわかる気がする。



 小学三年生の音楽の時間、私に運命の出会いが訪れた。
 担任の先生が気まぐれみたいにかけてくれたレコードとの出会いだ。


 あの時の教室に差していた陽の光も、クラスメートたちのざわめきも、何もかも今でも忘れられない。

 ペルーの作曲家ダニエル・アロミア・ロブレスによって1913年に作られた曲

「コンドルは飛んでいく」

 シンプルだけど深い哀愁と力強いメロディ、ゆったりとしたテンポが心に染みるような曲だ。

 先生が話してくれた、ケーナやチャランゴという伝統楽器にも興味を持ったけれども、それよりもアンデス山脈に生息する巨大な鳥アンデスコンドルが魅力的でかっこよくてワクワクした。

 ゆったりとしたリズムが遠くまで連なる山々を感じさせ、高い音がまるでコンドルが羽ばたいているかのように感じた。

 コンドルがアンデスの雄大な山脈を越え大空を気高く自由に飛んでいくイメージが目の前に広がった。
 吹き抜けるさわやかな風の香りまで感じられるような気がした。

 授業が終わってもふわふわとした気持ちはずっと続き、私の脳内で曲が鳴り止むことはなかった。

 もう一度あの曲を聴きたい、そう願っても、その日以降の授業で先生がそのレコードをかけてくれることはなかった。
 次の音楽の授業は、音楽室で合唱の練習だった。合唱曲はもちろん違う曲だった。

 先生が奏でるピアノの音がキレイ、課題曲を大声で歌いながら、私はまた心をアンデスに飛ばした。

 どうしてあの曲にこんなに心惹かれるのだろう。

 他にも美しい旋律の曲はたくさんあるのに、今、クラスメートたちと歌っているこの曲だって素敵なのに。
 初めてレコードを聴いたあの日から私の脳内にはずっと『コンドルは飛んでいく』が流れ続けていた。


 だからと言って、ピアノを習わせて欲しいとか、
 ましてやピアノが欲しいなんて、お母さんに言い出せるわけもなかった。

 子供だったけれども、自分の家の経済事情はなんとなく分かっていた。

 新しい流行りの服を取っ替え引っ替え着ている同級生と、つぎあてのついた自分の服を、見比べる時もあった。
 お母さんが一生懸命つぎあててくれた服を悲観するようなことはなかったけれども、それでも服や筆入れやシャープペンシルや、そんな小さな持ち物が貧富の差を如実に物語っていた。


 週に一回の音楽の授業、音楽室で授業がある時は誰よりも早く音楽室へ行った。

 ピアノの蓋をこっそり開けて「ラ」の鍵盤を押さえた。

 澄んだキレイな音が音楽室中に響いた。

 私の心はまたアンデスに飛んでいき、耳が覚えている音を2つ3つ押さえては胸が高鳴った。


 放課後、どうしてもピアノを触りたくて、
もう一度音楽室へ行ってみたけれども当然のように音楽室には鍵がかかっていた。


 画用紙に描いた白鍵と黒鍵

 指で押さえてもなんの音も鳴らなかったけれども。

 この間音楽室のピアノで押さえた鍵盤で鳴らした音を頭の中に響かせながら何度も何度も同じ場所を押さえた。


 そんなある日、私にまた運命の出会いが訪れた。

 二度目の運命の出会いだ。


 商店街の入り口の小さな広場に置かれた古いアップライトのピアノ

「ス、ト、リート、ピ、アノ……?」

 口の中にある大切な飴玉をゆっくりと転がすように注意深くその看板を読んだ。

「おう、倻胡(やこ)ちゃん。ピアノ弾いてみるかい?」
「いいのっ!?」

 声をかけてくれたのは、母が働いているお弁当屋さんのおじさんだった。


「もちろんいいさ、いつ誰が弾いてもいいピアノ、それがストリートピアノだ。金物屋の近元さんの娘さんが、小さい頃買ったんだけど、練習が嫌だって、ほとんど弾かれないままだったんだと。そんでその娘さんがお嫁さんに行っちまってからは、ずぅっと何十年もリビングの置物みたいになっちまってたんだと。商店街の集客アップのために、この広場に置いてみんなに弾いてもらうことになったってわけだ。ほら、ここ少しだけ屋根があるから雨が降っても大丈夫だしな。近元さんが『このピアノも、その方が幸せだろう』って」


 私だけでなく、同じ小学校に通う子供たちや、もっと小さい子供も、中学生も高校生も大人もみんな笑顔でピアノを鳴らした。上手い人もいたし、そうではない人もたくさんいた。
 それでもみんな笑顔でピアノに触れて、音を鳴らした。


 私も毎日毎日ピアノのある広場に通った。

 混んでいてなかなか順番が回ってこない日も、他の人が奏でる音楽を楽しんだ。

 広場には半屋根があるとはいえ、雨の日はあまり人が来ないから、ピアノを独り占めできた。
 倻胡(やこ)のワンマンリサイタルショーだ。


 最初はとても下手くそで、演奏なんて呼べるものじゃなかった。

 楽譜なんて持ってないから、頭の中で鳴っている音を一つずつ拾って鍵盤を叩いた。

 コンドルはなかなか飛び立たない。

 それでも楽しくて嬉しくて毎日毎日広場に通った。
 夜になってピアノが片付けられてしまう時間ギリギリまで毎日弾いた。


 時々、怖い高校生のお兄さんやおじさんに
「下手くそ」「耳障りな騒音だ」なんて意地悪を言われることもあったけれども、「そう思うんやったらお前が去ねや」って広場の向かいにある魚屋のおじさんが撃退してくれた。

 昔、ピアノを習っていたという女子高生のお姉さんが指の動かし方や和音の基礎を教えてくれた。

「私も倻胡(やこ)ちゃんみたいに楽しい楽しいって思いながら弾けていたらもっと違ったのかもね。ピアノの先生がとっても厳しくてね、練習が辛くて嫌で嫌で逃げ出しちゃったの」
 そう言って寂しそうに笑った。

 ご主人がピアノの先生だったという奥様が、「亡くなってからずっと段ボールの中に眠らせていたけれども、倻胡(やこ)ちゃんに使ってもらえたら」って、几帳面な字でたくさん書き込みがされた古い楽譜を、私にくれた。
 その中には『コンドルは飛んでいく』の楽譜もあった。その楽譜は今でも私の宝物だ。

 遅くまで夢中で弾いていると肉屋のおばちゃんが温かいコロッケを差し入れてくれた。
「だんだん上手になってきたな」って八百屋のおじいちゃんは毎日声をかけてくれた。


 コンドルは徐々に助走のスピードをあげ、そしてとうとう大空に飛び立った。

 お母さんがお弁当屋さんのお店の中から手を叩いてくれているのが見えた。


 奨学金を借りて、音楽科のある高校へ入学し、それから色々な人に教えてもらって、たくさん助けてもらったけれども、

 私が音楽家と呼ばれるようになれたのは、間違いなくあの商店街の入り口の小さな広場にあったあの古いピアノと温かい人たちのおかげだ。



 このベルリンの音楽ホールで奏でる音よ。

 天井を突き破り、大空へ、あの商店街に届け。



 コンドルよ、飛んでいけ!



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 我が家はとても貧乏だった。
 お世辞にもキレイとは言えないオンボロのアパート
 外階段は錆びていて一段歩くごとに耳障りな音を立てた。
 お風呂もなかった。
 私は父親の顔を知らない。
 物心ついた時からいなかった。
 幼い頃に亡くなったと聞かされて育ってきたけれども、写真の一枚もなく、お墓参りにも行ったことがない。
 つまり、そういうことなんだろう。
 大きくなってから奨学金の申し込みをするために、区役所で戸籍謄本を取り、母親と私の名前だけが記され、空欄になっている父親の欄を見ても、ああ、やっぱりね。そう思っただけだった。
 お母さんは女手一つで、私を一生懸命育ててくれた。
 でも、手に職がある訳でもない女の稼ぎだけで生計を立てるのはやはり大変だったのだろう。
 記憶の中のお母さんはいつも疲れている様子だった。ゴムで後ろに束ねただけの髪の毛、化粧っけもほとんどなかった。
 朝は近所の老人ホームで朝食の配膳の仕事を、
 昼はお弁当屋さんとスーパーのレジ打ちをしていた、どっちか片方だけだと毎日は働けないからね、と笑った。
 毎晩ではないけれども、お酒を出すようなお店の手伝いにも時々行っていた。
 お母さんがいない日は、誰かが来ても、電話が来ても決して出てはいけないと厳しく言われていた。
 冬に暖房が使えないのは辛かったけれども、火事になんかなったら大変だからね、と、布団の中に入れてもらった湯たんぽで暖を取った。
 明け方、お化粧とお酒の匂いのするお母さんが帰ってきて、
 ただいまと私の布団に潜り込んで来ると温かいのと安心したので嬉しくってぎゅっと抱きついた。
 小学校に入る時、真っ赤なランドセルを買ってもらった。
 嬉しくて誇らしくて何度も何度も鏡の前でポーズを取ってみせた。
 そんな私のことを見つめながらお母さんは少し泣いていた。
 今なら少しだけその時のお母さんの気持ちがわかる気がする。
 小学三年生の音楽の時間、私に運命の出会いが訪れた。
 担任の先生が気まぐれみたいにかけてくれたレコードとの出会いだ。
 あの時の教室に差していた陽の光も、クラスメートたちのざわめきも、何もかも今でも忘れられない。
 ペルーの作曲家ダニエル・アロミア・ロブレスによって1913年に作られた曲
「コンドルは飛んでいく」
 シンプルだけど深い哀愁と力強いメロディ、ゆったりとしたテンポが心に染みるような曲だ。
 先生が話してくれた、ケーナやチャランゴという伝統楽器にも興味を持ったけれども、それよりもアンデス山脈に生息する巨大な鳥アンデスコンドルが魅力的でかっこよくてワクワクした。
 ゆったりとしたリズムが遠くまで連なる山々を感じさせ、高い音がまるでコンドルが羽ばたいているかのように感じた。
 コンドルがアンデスの雄大な山脈を越え大空を気高く自由に飛んでいくイメージが目の前に広がった。
 吹き抜けるさわやかな風の香りまで感じられるような気がした。
 授業が終わってもふわふわとした気持ちはずっと続き、私の脳内で曲が鳴り止むことはなかった。
 もう一度あの曲を聴きたい、そう願っても、その日以降の授業で先生がそのレコードをかけてくれることはなかった。
 次の音楽の授業は、音楽室で合唱の練習だった。合唱曲はもちろん違う曲だった。
 先生が奏でるピアノの音がキレイ、課題曲を大声で歌いながら、私はまた心をアンデスに飛ばした。
 どうしてあの曲にこんなに心惹かれるのだろう。
 他にも美しい旋律の曲はたくさんあるのに、今、クラスメートたちと歌っているこの曲だって素敵なのに。
 初めてレコードを聴いたあの日から私の脳内にはずっと『コンドルは飛んでいく』が流れ続けていた。
 だからと言って、ピアノを習わせて欲しいとか、
 ましてやピアノが欲しいなんて、お母さんに言い出せるわけもなかった。
 子供だったけれども、自分の家の経済事情はなんとなく分かっていた。
 新しい流行りの服を取っ替え引っ替え着ている同級生と、つぎあてのついた自分の服を、見比べる時もあった。
 お母さんが一生懸命つぎあててくれた服を悲観するようなことはなかったけれども、それでも服や筆入れやシャープペンシルや、そんな小さな持ち物が貧富の差を如実に物語っていた。
 週に一回の音楽の授業、音楽室で授業がある時は誰よりも早く音楽室へ行った。
 ピアノの蓋をこっそり開けて「ラ」の鍵盤を押さえた。
 澄んだキレイな音が音楽室中に響いた。
 私の心はまたアンデスに飛んでいき、耳が覚えている音を2つ3つ押さえては胸が高鳴った。
 放課後、どうしてもピアノを触りたくて、
もう一度音楽室へ行ってみたけれども当然のように音楽室には鍵がかかっていた。
 画用紙に描いた白鍵と黒鍵
 指で押さえてもなんの音も鳴らなかったけれども。
 この間音楽室のピアノで押さえた鍵盤で鳴らした音を頭の中に響かせながら何度も何度も同じ場所を押さえた。
 そんなある日、私にまた運命の出会いが訪れた。
 二度目の運命の出会いだ。
 商店街の入り口の小さな広場に置かれた古いアップライトのピアノ
「ス、ト、リート、ピ、アノ……?」
 口の中にある大切な飴玉をゆっくりと転がすように注意深くその看板を読んだ。
「おう、|倻胡《やこ》ちゃん。ピアノ弾いてみるかい?」
「いいのっ!?」
 声をかけてくれたのは、母が働いているお弁当屋さんのおじさんだった。
「もちろんいいさ、いつ誰が弾いてもいいピアノ、それがストリートピアノだ。金物屋の近元さんの娘さんが、小さい頃買ったんだけど、練習が嫌だって、ほとんど弾かれないままだったんだと。そんでその娘さんがお嫁さんに行っちまってからは、ずぅっと何十年もリビングの置物みたいになっちまってたんだと。商店街の集客アップのために、この広場に置いてみんなに弾いてもらうことになったってわけだ。ほら、ここ少しだけ屋根があるから雨が降っても大丈夫だしな。近元さんが『このピアノも、その方が幸せだろう』って」
 私だけでなく、同じ小学校に通う子供たちや、もっと小さい子供も、中学生も高校生も大人もみんな笑顔でピアノを鳴らした。上手い人もいたし、そうではない人もたくさんいた。
 それでもみんな笑顔でピアノに触れて、音を鳴らした。
 私も毎日毎日ピアノのある広場に通った。
 混んでいてなかなか順番が回ってこない日も、他の人が奏でる音楽を楽しんだ。
 広場には半屋根があるとはいえ、雨の日はあまり人が来ないから、ピアノを独り占めできた。
 |倻胡《やこ》のワンマンリサイタルショーだ。
 最初はとても下手くそで、演奏なんて呼べるものじゃなかった。
 楽譜なんて持ってないから、頭の中で鳴っている音を一つずつ拾って鍵盤を叩いた。
 コンドルはなかなか飛び立たない。
 それでも楽しくて嬉しくて毎日毎日広場に通った。
 夜になってピアノが片付けられてしまう時間ギリギリまで毎日弾いた。
 時々、怖い高校生のお兄さんやおじさんに
「下手くそ」「耳障りな騒音だ」なんて意地悪を言われることもあったけれども、「そう思うんやったらお前が去ねや」って広場の向かいにある魚屋のおじさんが撃退してくれた。
 昔、ピアノを習っていたという女子高生のお姉さんが指の動かし方や和音の基礎を教えてくれた。
「私も|倻胡《やこ》ちゃんみたいに楽しい楽しいって思いながら弾けていたらもっと違ったのかもね。ピアノの先生がとっても厳しくてね、練習が辛くて嫌で嫌で逃げ出しちゃったの」
 そう言って寂しそうに笑った。
 ご主人がピアノの先生だったという奥様が、「亡くなってからずっと段ボールの中に眠らせていたけれども、|倻胡《やこ》ちゃんに使ってもらえたら」って、几帳面な字でたくさん書き込みがされた古い楽譜を、私にくれた。
 その中には『コンドルは飛んでいく』の楽譜もあった。その楽譜は今でも私の宝物だ。
 遅くまで夢中で弾いていると肉屋のおばちゃんが温かいコロッケを差し入れてくれた。
「だんだん上手になってきたな」って八百屋のおじいちゃんは毎日声をかけてくれた。
 コンドルは徐々に助走のスピードをあげ、そしてとうとう大空に飛び立った。
 お母さんがお弁当屋さんのお店の中から手を叩いてくれているのが見えた。
 奨学金を借りて、音楽科のある高校へ入学し、それから色々な人に教えてもらって、たくさん助けてもらったけれども、
 私が音楽家と呼ばれるようになれたのは、間違いなくあの商店街の入り口の小さな広場にあったあの古いピアノと温かい人たちのおかげだ。
 このベルリンの音楽ホールで奏でる音よ。
 天井を突き破り、大空へ、あの商店街に届け。
 コンドルよ、飛んでいけ!