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月とアコーディオン

ー/ー



 もうすぐ地球に隕石が落ちる。
 激しい気候変動が起きて、氷河期が再来する。地球全土は不毛地帯となって、人の住めない惑星となるだろう。その時が、一ヶ月後に迫っている。仕方がない。三十年前からわかっていたことだ。
 満ちては欠けてを繰り返し、ある夜は影となって姿を隠す。白金の月を見る度に、彼のことを思い出す。月へ行ったきり、父は帰って来なかった。

♢♢♢

 眠れないのか。それなら僕が子守唄を聴かせてあげよう。
 自慢気にそう言って担ぎ出すアコーディオン。鍵盤に指を置き蛇腹を引くと、ぼぅんと空気が揺れて、部屋いっぱいに太い音が響く。
 お父さん、うるさい。
 こんな大音量の中で眠れるはずがないと訴える、幼い私。でも父は平然として笑うだけだ。
 しょうがないじゃないか。僕は歌が下手なんだ。弾ける楽器もこれひとつしかない。
 なら音楽はいらない。このあいだだって、隣のおうちのおばあさんにちょっと怒られた。夜に楽器を弾かないでって。それより絵本を読んで、お話をして。隣で眠って、お腹を撫でて。
 もちろん。君の望むままに。僕は君のためなら、月面でアコーディオンを弾くことさえ出来る。

 大人になって知った。アコーディオンは空気の振動で音を出す楽器。真空状態の月面では音が鳴らない。それに演奏する人だって、月面に立つなら宇宙服を着なければいけない。あんな分厚い服を着て全部の指をすっぽり手袋で覆って、一体どうやってあの小さな鍵盤を操作するつもりなんだろう。
 思えばあれは、父の創作した慣用句。いつも少しずれたあの人なりのユーモアだったんだろう。君のためなら不可能も可能にしてみせる。きっとそういうことを言いたかったのだ。幼くして母をなくし、父も仕事で家を空けることが多かった。寂しさを持て余した私への、精一杯の献身だったのだと思う。
♢♢♢
 もうすぐ地球に隕石が落ちる。
 激しい気候変動が起きて、氷河期が再来する。地球全土は不毛地帯となって、人の住めない惑星となるだろう。
 その時が、もうすぐそこまで来ている。三十年前からわかっていたこと。皆、覚悟していたことだ。失われゆくものへ、未だ別れを告げることが出来ずにいたとしても。
 人々にはいくつかの選択肢があり、それぞれの理由で、それぞれの道を選んだ。地球に残り、海底基地や地下都市のシェルターで暮らす人。人口宇宙居住地、宇宙コロニーに移住する人。そして月へと移住する人。
「月を見るのも、あと少しで終わりだね」
 バルコニーで白い息を吐きながら、不安そうにあなたは言う。こんな時でも夜空は変わらない。それどころか、いっそう輝きを増しているようにさえ思う。月は冴え冴えと街を照らし、星々は涙を零すようにちらちらと瞬く。消えゆく惑星への、そこに住む人々への、彼らなりの弔いだろうか。
「そうね。でも向こうへ行ったら、きっと他の惑星が見えるわ」
 慰めに小さな頭を撫でてみても、まだ不安は消えないみたいだった。その筈だ。住み慣れた星を離れ、友達とも離れ離れ。暗い宇宙空間を進み、今までと全く違う生活を送らねばならないのだ。幼いあなたにとっては、過酷な経験となるだろう。
 並んで月を眺めながら、私はこれから移り住む場所がどんなところか、話して聞かせる。
 居住先に選んだドームは、月に設置された居住基地の中で一番古くて小さい。もっと新しくて設備の整った基地もあった。でもそこには、他の基地にはないものがある。天井が一面の特殊ガラスで覆われた、ドーム型の演奏会場だ。
「そこに古いアコーディオンがひとつ、あるはずなの。着いたら弾いてあげる。星の見えるドームで演奏会、素敵でしょう?」

 父は宇宙飛行士だった。隕石の衝突予測がほぼ確実なものとなった三十年前、月面移住計画の研究者の一人に任命されて、月へと旅立った。
 調査を終えて地球へ帰る復路の途中で、機器トラブルにより父の乗る宇宙船との連絡は途絶えた。私が最後に見たのは、もうすぐ帰るよ、と笑う父の顔だった。宇宙船に乗り込む前の、月からのビデオメッセージだ。
 父は、カメラの前でアコーディオンを弾いていた。それは正確には月面ではなくて、月面に設置されたドーム基地の中だった。彼の背中には、砕いた金平糖を散りばめたような星空が一面に広がっていて、とても綺麗だったのを覚えている。
 ほら、見てごらん。僕は君のためなら、月でアコーディオンを弾くことさえ出来る。
 私たちはもうすぐ、地球から旅立つ。一生戻ることのない、長い旅になるだろう。想像もつかないような困難が待っているのかもしれない。でも、私にはこの子がいる。満月のようにまんまるな頭をした、幼い息子。
 きっと、私だって弾ける。そうでしょう?
 白く輝く満月の下で、もう帰らないあの人へと語りかける。 
 ほのかにあたたかな夜の風が、静かに頬を撫で、通り過ぎていった。

〈了〉



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 もうすぐ地球に隕石が落ちる。
 激しい気候変動が起きて、氷河期が再来する。地球全土は不毛地帯となって、人の住めない惑星となるだろう。その時が、一ヶ月後に迫っている。仕方がない。三十年前からわかっていたことだ。
 満ちては欠けてを繰り返し、ある夜は影となって姿を隠す。白金の月を見る度に、彼のことを思い出す。月へ行ったきり、父は帰って来なかった。
♢♢♢
 眠れないのか。それなら僕が子守唄を聴かせてあげよう。
 自慢気にそう言って担ぎ出すアコーディオン。鍵盤に指を置き蛇腹を引くと、ぼぅんと空気が揺れて、部屋いっぱいに太い音が響く。
 お父さん、うるさい。
 こんな大音量の中で眠れるはずがないと訴える、幼い私。でも父は平然として笑うだけだ。
 しょうがないじゃないか。僕は歌が下手なんだ。弾ける楽器もこれひとつしかない。
 なら音楽はいらない。このあいだだって、隣のおうちのおばあさんにちょっと怒られた。夜に楽器を弾かないでって。それより絵本を読んで、お話をして。隣で眠って、お腹を撫でて。
 もちろん。君の望むままに。僕は君のためなら、月面でアコーディオンを弾くことさえ出来る。
 大人になって知った。アコーディオンは空気の振動で音を出す楽器。真空状態の月面では音が鳴らない。それに演奏する人だって、月面に立つなら宇宙服を着なければいけない。あんな分厚い服を着て全部の指をすっぽり手袋で覆って、一体どうやってあの小さな鍵盤を操作するつもりなんだろう。
 思えばあれは、父の創作した慣用句。いつも少しずれたあの人なりのユーモアだったんだろう。君のためなら不可能も可能にしてみせる。きっとそういうことを言いたかったのだ。幼くして母をなくし、父も仕事で家を空けることが多かった。寂しさを持て余した私への、精一杯の献身だったのだと思う。
♢♢♢
 もうすぐ地球に隕石が落ちる。
 激しい気候変動が起きて、氷河期が再来する。地球全土は不毛地帯となって、人の住めない惑星となるだろう。
 その時が、もうすぐそこまで来ている。三十年前からわかっていたこと。皆、覚悟していたことだ。失われゆくものへ、未だ別れを告げることが出来ずにいたとしても。
 人々にはいくつかの選択肢があり、それぞれの理由で、それぞれの道を選んだ。地球に残り、海底基地や地下都市のシェルターで暮らす人。人口宇宙居住地、宇宙コロニーに移住する人。そして月へと移住する人。
「月を見るのも、あと少しで終わりだね」
 バルコニーで白い息を吐きながら、不安そうにあなたは言う。こんな時でも夜空は変わらない。それどころか、いっそう輝きを増しているようにさえ思う。月は冴え冴えと街を照らし、星々は涙を零すようにちらちらと瞬く。消えゆく惑星への、そこに住む人々への、彼らなりの弔いだろうか。
「そうね。でも向こうへ行ったら、きっと他の惑星が見えるわ」
 慰めに小さな頭を撫でてみても、まだ不安は消えないみたいだった。その筈だ。住み慣れた星を離れ、友達とも離れ離れ。暗い宇宙空間を進み、今までと全く違う生活を送らねばならないのだ。幼いあなたにとっては、過酷な経験となるだろう。
 並んで月を眺めながら、私はこれから移り住む場所がどんなところか、話して聞かせる。
 居住先に選んだドームは、月に設置された居住基地の中で一番古くて小さい。もっと新しくて設備の整った基地もあった。でもそこには、他の基地にはないものがある。天井が一面の特殊ガラスで覆われた、ドーム型の演奏会場だ。
「そこに古いアコーディオンがひとつ、あるはずなの。着いたら弾いてあげる。星の見えるドームで演奏会、素敵でしょう?」
 父は宇宙飛行士だった。隕石の衝突予測がほぼ確実なものとなった三十年前、月面移住計画の研究者の一人に任命されて、月へと旅立った。
 調査を終えて地球へ帰る復路の途中で、機器トラブルにより父の乗る宇宙船との連絡は途絶えた。私が最後に見たのは、もうすぐ帰るよ、と笑う父の顔だった。宇宙船に乗り込む前の、月からのビデオメッセージだ。
 父は、カメラの前でアコーディオンを弾いていた。それは正確には月面ではなくて、月面に設置されたドーム基地の中だった。彼の背中には、砕いた金平糖を散りばめたような星空が一面に広がっていて、とても綺麗だったのを覚えている。
 ほら、見てごらん。僕は君のためなら、月でアコーディオンを弾くことさえ出来る。
 私たちはもうすぐ、地球から旅立つ。一生戻ることのない、長い旅になるだろう。想像もつかないような困難が待っているのかもしれない。でも、私にはこの子がいる。満月のようにまんまるな頭をした、幼い息子。
 きっと、私だって弾ける。そうでしょう?
 白く輝く満月の下で、もう帰らないあの人へと語りかける。 
 ほのかにあたたかな夜の風が、静かに頬を撫で、通り過ぎていった。
〈了〉