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キャットアイ・ナラティブ

ー/ー



​ そのカメラは、親指の先ほどのサイズしかなかった。


猫の首輪につけても、重さを意識させない最新のガジェットだ。猫が見ている世界を、その揺れと高さのまま、SNSにリアルタイム配信できるという。


最初は、ただの流行りものだった。


「猫視点(キャット・アイ・ビュー)」のハッシュタグは、瞬く間にタイムラインを埋め尽くした。床すれすれを滑るように進むフローリング、意味もなく追いかける埃の光、突然画面を塞ぐ巨大な飼い主の足。


フォロワーたちは口々に言った。

「人間視点より癒やされる」
「余計なノイズがなくて最高」


私自身も、愛猫の視界を共有することで、彼との距離が縮まったような錯覚を覚えていた。

けれど、配信を続けるうちに、奇妙な感覚に囚われるようになった。

仕事からの帰り道、スマホ越しに留守番中の彼が見ている自室を眺める。そこにあるのは、私の知る賑やかな世界とはまるで違う、凪のような時間だった。


窓辺で踊る小さな埃。
午後の光に透けるカーテンの繊維。
遠くの街角から歪んで届く、救急車のサイレン。


猫は、何かを待っているわけではない。
ただ、何も起きていない時間を、そのまま受け取っている。そこには「退屈」という言葉すら入り込む余地がなかった。


ある夜、配信が爆発的にバズった。


画面の中で、猫はじっと動かず、一点を見つめている。

その視線の先にいるのは、私だった。

床に座り込み、顔を覆っている私の姿を、カメラは低い位置から執拗に映していた。猫は鳴きもせず、毛繕いもせず、ただ静かに私を見上げている。



コメント欄は、かつてない熱狂に包まれた。


「この目、絶対愛されてる」
「飼い主の悲しみを察してるんだね」
「究極の信頼関係」



通知が止まらない中で、私は冷めた気持ちで画面を見つめていた。

そこに並ぶ「愛」や「信頼」という言葉が、どうにも軽く見えたからだ。

あの日、私は仕事の失敗で打ちのめされ、情けなく泣いていただけだ。

猫が動かなかったのは、私の感情を理解したからではない。目の前の大きな存在が止まったから、自分も足を止めただけだ。


彼は、私の涙を「悲しみ」としてではなく、ただ頬を伝い落ちる水滴として、その網膜に映していた。


私は震える指で配信を止め、首輪からデバイスを外した。


それ以来、SNSには戻っていない。


あの透明で、残酷なまでに静かな視界を、他人の評価や「いいね」に変換してしまうことが、どうしても耐えられなかった。


それは、彼の高純度な世界を、濁ったフィルターで覆う行為に思えたのだ。


カメラを外したあとも、彼は私の足元で、何も起きていない時間を生きている。


スマホ越しではない、直に見るその瞳は、深く、何も語らない。


意味を与えないこと。
解釈を挟まないこと。


それこそが、彼らの世界を最も正確に写す、解像度なのだと思う。











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​ そのカメラは、親指の先ほどのサイズしかなかった。
猫の首輪につけても、重さを意識させない最新のガジェットだ。猫が見ている世界を、その揺れと高さのまま、SNSにリアルタイム配信できるという。
最初は、ただの流行りものだった。
「猫視点(キャット・アイ・ビュー)」のハッシュタグは、瞬く間にタイムラインを埋め尽くした。床すれすれを滑るように進むフローリング、意味もなく追いかける埃の光、突然画面を塞ぐ巨大な飼い主の足。
フォロワーたちは口々に言った。
「人間視点より癒やされる」
「余計なノイズがなくて最高」
私自身も、愛猫の視界を共有することで、彼との距離が縮まったような錯覚を覚えていた。
けれど、配信を続けるうちに、奇妙な感覚に囚われるようになった。
仕事からの帰り道、スマホ越しに留守番中の彼が見ている自室を眺める。そこにあるのは、私の知る賑やかな世界とはまるで違う、凪のような時間だった。
窓辺で踊る小さな埃。
午後の光に透けるカーテンの繊維。
遠くの街角から歪んで届く、救急車のサイレン。
猫は、何かを待っているわけではない。
ただ、何も起きていない時間を、そのまま受け取っている。そこには「退屈」という言葉すら入り込む余地がなかった。
ある夜、配信が爆発的にバズった。
画面の中で、猫はじっと動かず、一点を見つめている。
その視線の先にいるのは、私だった。
床に座り込み、顔を覆っている私の姿を、カメラは低い位置から執拗に映していた。猫は鳴きもせず、毛繕いもせず、ただ静かに私を見上げている。
コメント欄は、かつてない熱狂に包まれた。
「この目、絶対愛されてる」
「飼い主の悲しみを察してるんだね」
「究極の信頼関係」
通知が止まらない中で、私は冷めた気持ちで画面を見つめていた。
そこに並ぶ「愛」や「信頼」という言葉が、どうにも軽く見えたからだ。
あの日、私は仕事の失敗で打ちのめされ、情けなく泣いていただけだ。
猫が動かなかったのは、私の感情を理解したからではない。目の前の大きな存在が止まったから、自分も足を止めただけだ。
彼は、私の涙を「悲しみ」としてではなく、ただ頬を伝い落ちる水滴として、その網膜に映していた。
私は震える指で配信を止め、首輪からデバイスを外した。
それ以来、SNSには戻っていない。
あの透明で、残酷なまでに静かな視界を、他人の評価や「いいね」に変換してしまうことが、どうしても耐えられなかった。
それは、彼の高純度な世界を、濁ったフィルターで覆う行為に思えたのだ。
カメラを外したあとも、彼は私の足元で、何も起きていない時間を生きている。
スマホ越しではない、直に見るその瞳は、深く、何も語らない。
意味を与えないこと。
解釈を挟まないこと。
それこそが、彼らの世界を最も正確に写す、解像度なのだと思う。