お隣さんの贈りもの 前編
ー/ー新しいマンションのベランダは、隣の部屋との間が避難用の薄い仕切り板一枚で隔てられているだけだった。
引っ越して一週間。
私は「隣人」の顔を一度も見たことがなかった。ただ、毎朝七時になると、隣からジョウロで水を撒く「シャーッ」という規則正しい音が聞こえてくる。
引っ越し祝いに友達から貰った小さなローズマリーの鉢植えを、仕切りのすぐ脇に置いた。
東京の空気は少し乾燥していて、私も毎朝、隣の音に合わせるように水をやるようになった。
「あっ」
ある朝、ジョウロをひっくり返し、水が仕切り板の下のわずかな隙間を伝って、大量に隣のベランダへ流れ出してしまった。向こうからの水を撒く音が止まった。
「すみません、水をこぼしてしまって。大丈夫でしょうか?」
声をかけたが、返事はない。
ただ、隙間から細い指先が見え、こぼれた水を小さなタオルでさっと拭き取る気配だけがした。
翌日、私はローズマリーの隣に、もう一つ鉢植えを増やした。
手入れのしやすいワイルドストロベリーだ。
「おはよう。可愛い実をつけてね」
仕切りの向こうで、誰かが足を止める気配がした。
一週間が過ぎた頃、変化が起きた。
仕切りの下の隙間に、見たこともないほど立派な青じその鉢が置かれていたのだ。
こちら側へ、元気に葉を伸ばしている。
「立派ですね。青じそてすか?綺麗ですね」
「……薬味に、どうぞ、使ってください」
「え、あ、ありがとうございます」
初めて聞いた声は、低くて少し掠れた、年配の男性のものだった。
それから、私たちの不思議な交流が始まった。
言葉はいつも、仕切り越し。顔は見えない。
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