148. 無情なる激流

ー/ー



 十万の魔物。

 十万の命――――。

 王都の人口は、およそ三十万。周辺の町や村を含めれば、五十万を超える。

 その多くが――いや、ほとんどが、この女の狂気の野望の生贄にされる。罪なき人々が、理不尽な死を迎える。

「止めろ!」

 レオンが、喉が裂けんばかりに叫んだ。

「どんな理由であれ、殺人なんて肯定されない! 人の命を奪う権利なんて、神にも、誰にもないんだ!」

「はぁ?」

 イザベラは、心底不思議そうに首を傾げた。まるで、幼い子供が愚かな質問をしたとでも言うように。

「人間の歴史なんて、いつだって殺し合いだったじゃない。戦争、略奪、虐殺……愚かな権力争いがずっと、ずっーーと繰り返されてきた。私がこれで『殺し合い』を最後にしてあげるのよ? むしろ感謝されるべきではなくて? ふふっ」

「き、詭弁だ! そんなの、ただの言い訳じゃないか!」

 レオンは叫んだ。けれど、言葉が続かない。

 『人を殺してはダメ』という人としての当たり前が、人間の歴史では否定されているのはその通り。倫理、道徳で説得するのではダメなのだ。では何と言えば――――?

 くぅぅぅ……。

 熾天使(セラフ)の降臨という、狂気の計画。

 それを、こんな溺れかけている状況で、どう止めたらいいのか。皆目見当がつかなかった。

 無力感が、レオンの心を締め付ける。歯を食いしばり、拳を握りしめるが、何もできない。何も。

 【運命鑑定】があれば――。

 ふと頭をよぎるが、今更そんなことを考えても、意味はない。【運命鑑定】はこの女に壊され、栄養にされててしまったのだから。

「さあ、そろそろ儀式を始めましょうか」

 イザベラは、優雅に杖を掲げた。杖の先端が、まるで血のように禍々しい紅い光を放ち始める。

「貴方たちには、熾天使(セラフ)様降臨の証人となっていただきますわ。新たな世界の誕生を、その目に焼き付けてちょうだい。光栄に思いなさいよ!」

 ブンと振られた杖とともに、貯水槽全体が不気味な紅い光に包まれ始めた。壁に刻まれた古代ルーン文字が、脈動するように次々と紅い光を放っていく。まるで、悪魔の心臓が鼓動しているかのように――。

「はーっはっはっはっは!」

 イザベラの甲高い笑い声が響き渡った。

 狂気と陶酔が入り混じった、恐ろしいほど純粋な笑い。それは、もはや人間のものとは思えない、悪魔の笑い声のようだった。

「さあ、もう時間ですわ!」

 イザベラは、すっと杖を高く掲げた。その動きは、まるで指揮者がクライマックスを奏でさせるかのように、優雅で、そして絶対的だった。

「貴方たちは、特等席で熾天使(セラフ)様がこの世界を一新する様を見届けてなさい! ふふっ、楽しみでしょう?」

 その言葉に、レオンたちの顔が絶望に歪む。

 止められない。

 このままでは、世界が――みんなが。

「ああ、そうそう」

 イザベラは、まるで大切なことを思い出したかのように、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも恐ろしかった。

「ご安心なさい。すべてを見届けた後は、核を埋め込んで差し上げますわ。永遠に、神に仕える(しもべ)として……」

 イザベラの瞳が、恍惚の光に染まる。

「自我も意志も必要ありませんわ。ただ、神に仕え、従うだけ。何も考えなくていい。何も悩まなくていい。それは、とても、とても幸せなことですのよ」

 その言葉の意味を理解した瞬間、五人の背筋に氷のような悪寒が走った。

 死よりも恐ろしい運命。

 自我を奪われ、操り人形として永遠に生き続ける。

 それは、死ぬことすら許されない、生きながらの地獄だ。

「ふざけ――」

 レオンが叫ぼうとした、その瞬間だった。

 ブゥン! とイザベラが、優雅に杖を振り下ろす。

 途端、貯水槽の底から、地の底から響くような異様な音が響き始めた。

 ゴゴゴゴゴゴ……!

 水が、不自然に揺れ始める。波紋が広がり、やがてそれは渦となる。

 最初は小さな渦だった。けれど、それは瞬く間に巨大化し、見る見るうちに成長していく。貯水槽全体を飲み込むほどの、恐ろしい大渦へと変貌していった。

「ま、待て! 待ってくれ!」

 レオンが叫ぶ。けれど、その声は渦の轟音にかき消される。

 ゴオオオオオオッ!

 巨大な渦は、容赦なく五人を吸い込んでいく。

 抗う術もない。麻痺毒で弱り切った体では、この激流に逆らうことなど到底できない。まるで木の葉のように、無力に翻弄される。運命の激流に飲み込まれていく。

「レオーーン!」「いやぁぁぁ!」

「みんなぁ!」

 仲間たちの叫び声が、渦の中で交錯する。恐怖と、必死さと、諦めきれない想いが込められた声。

 レオンは必死に手を伸ばした。誰かの手を掴もうと。仲間を離すまいと。せめて、せめて一人でも。

 指先が、何かに触れた。

 エリナの手だ。冷たく、震えている手――。

 けれど、次の瞬間、激流がその手を無情に引き離す。



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 十万の魔物。
 十万の命――――。
 王都の人口は、およそ三十万。周辺の町や村を含めれば、五十万を超える。
 その多くが――いや、ほとんどが、この女の狂気の野望の生贄にされる。罪なき人々が、理不尽な死を迎える。
「止めろ!」
 レオンが、喉が裂けんばかりに叫んだ。
「どんな理由であれ、殺人なんて肯定されない! 人の命を奪う権利なんて、神にも、誰にもないんだ!」
「はぁ?」
 イザベラは、心底不思議そうに首を傾げた。まるで、幼い子供が愚かな質問をしたとでも言うように。
「人間の歴史なんて、いつだって殺し合いだったじゃない。戦争、略奪、虐殺……愚かな権力争いがずっと、ずっーーと繰り返されてきた。私がこれで『殺し合い』を最後にしてあげるのよ? むしろ感謝されるべきではなくて? ふふっ」
「き、詭弁だ! そんなの、ただの言い訳じゃないか!」
 レオンは叫んだ。けれど、言葉が続かない。
 『人を殺してはダメ』という人としての当たり前が、人間の歴史では否定されているのはその通り。倫理、道徳で説得するのではダメなのだ。では何と言えば――――?
 くぅぅぅ……。
 |熾天使《セラフ》の降臨という、狂気の計画。
 それを、こんな溺れかけている状況で、どう止めたらいいのか。皆目見当がつかなかった。
 無力感が、レオンの心を締め付ける。歯を食いしばり、拳を握りしめるが、何もできない。何も。
 【運命鑑定】があれば――。
 ふと頭をよぎるが、今更そんなことを考えても、意味はない。【運命鑑定】はこの女に壊され、栄養にされててしまったのだから。
「さあ、そろそろ儀式を始めましょうか」
 イザベラは、優雅に杖を掲げた。杖の先端が、まるで血のように禍々しい紅い光を放ち始める。
「貴方たちには、|熾天使《セラフ》様降臨の証人となっていただきますわ。新たな世界の誕生を、その目に焼き付けてちょうだい。光栄に思いなさいよ!」
 ブンと振られた杖とともに、貯水槽全体が不気味な紅い光に包まれ始めた。壁に刻まれた古代ルーン文字が、脈動するように次々と紅い光を放っていく。まるで、悪魔の心臓が鼓動しているかのように――。
「はーっはっはっはっは!」
 イザベラの甲高い笑い声が響き渡った。
 狂気と陶酔が入り混じった、恐ろしいほど純粋な笑い。それは、もはや人間のものとは思えない、悪魔の笑い声のようだった。
「さあ、もう時間ですわ!」
 イザベラは、すっと杖を高く掲げた。その動きは、まるで指揮者がクライマックスを奏でさせるかのように、優雅で、そして絶対的だった。
「貴方たちは、特等席で|熾天使《セラフ》様がこの世界を一新する様を見届けてなさい! ふふっ、楽しみでしょう?」
 その言葉に、レオンたちの顔が絶望に歪む。
 止められない。
 このままでは、世界が――みんなが。
「ああ、そうそう」
 イザベラは、まるで大切なことを思い出したかのように、にっこりと微笑んだ。その笑顔は、あまりにも無邪気で、そしてあまりにも恐ろしかった。
「ご安心なさい。すべてを見届けた後は、核を埋め込んで差し上げますわ。永遠に、神に仕える|僕《しもべ》として……」
 イザベラの瞳が、恍惚の光に染まる。
「自我も意志も必要ありませんわ。ただ、神に仕え、従うだけ。何も考えなくていい。何も悩まなくていい。それは、とても、とても幸せなことですのよ」
 その言葉の意味を理解した瞬間、五人の背筋に氷のような悪寒が走った。
 死よりも恐ろしい運命。
 自我を奪われ、操り人形として永遠に生き続ける。
 それは、死ぬことすら許されない、生きながらの地獄だ。
「ふざけ――」
 レオンが叫ぼうとした、その瞬間だった。
 ブゥン! とイザベラが、優雅に杖を振り下ろす。
 途端、貯水槽の底から、地の底から響くような異様な音が響き始めた。
 ゴゴゴゴゴゴ……!
 水が、不自然に揺れ始める。波紋が広がり、やがてそれは渦となる。
 最初は小さな渦だった。けれど、それは瞬く間に巨大化し、見る見るうちに成長していく。貯水槽全体を飲み込むほどの、恐ろしい大渦へと変貌していった。
「ま、待て! 待ってくれ!」
 レオンが叫ぶ。けれど、その声は渦の轟音にかき消される。
 ゴオオオオオオッ!
 巨大な渦は、容赦なく五人を吸い込んでいく。
 抗う術もない。麻痺毒で弱り切った体では、この激流に逆らうことなど到底できない。まるで木の葉のように、無力に翻弄される。運命の激流に飲み込まれていく。
「レオーーン!」「いやぁぁぁ!」
「みんなぁ!」
 仲間たちの叫び声が、渦の中で交錯する。恐怖と、必死さと、諦めきれない想いが込められた声。
 レオンは必死に手を伸ばした。誰かの手を掴もうと。仲間を離すまいと。せめて、せめて一人でも。
 指先が、何かに触れた。
 エリナの手だ。冷たく、震えている手――。
 けれど、次の瞬間、激流がその手を無情に引き離す。