雨の日の非常口
ー/ー雨の日だけ、そのマンションの非常階段は開放される。
普段は施錠され、住人でさえ存在を忘れているような場所だ。管理人が「湿気対策」と言って解錠するのが、決まって雨の朝だった。
私は傘をたたみ、七階の踊り場で足を止める。コンクリートの壁に、雨粒が小さく弾いている。そこに、先客がいた。
「こんにちは」
声をかけると、彼は少し驚いた顔で振り返った。年齢はわからない。スーツでも私服でもなく、どこか中途半端な服装だった。
「雨の日、ここに来るんです」
彼はそれだけ言って、手すり越しに空を見ていた。雲は低く、街はぼやけている。
「見晴らし、いいですね」
「ええ。音も、ちょうどいい」
それきり、しばらく雨音だけが会話の代わりをした。
名前も、住んでいる階も聞かない。
ただ、同じ雨に濡れない場所に立っている。それだけで、十分だった。
「また会えますか」
私が言うと、彼は少し考えてから微笑んだ。
「雨次第ですね」
それが、この階段で交わした唯一の約束だった。
それから何度か、雨の日に非常階段へ行った。彼がいる日も、いない日もあった。短い挨拶と、短い沈黙。それ以上は増えなかった。
ある日、掲示板に紙が貼られた。
『告知:非常階段は防犯および安全上の理由により、今後、常時施錠いたします。管理組合』
その日は、よく晴れていた。
次の雨の日、私はいつものように七階の扉へと向かった。
ノブを回そうとしても、固く閉ざさられたまま動かない。
扉の向こうからは、激しい雨音が聞こえてくる。
けれど、もうあの中へ入ることはできない。
彼がどの部屋の住人だったのか、そもそも住人だったのかも、私は知らない。
今でも激しい雨が降るたびに、私は心のどこかで七階の扉に手をかけている。
あの他愛ない会話の続きを探して。
雨音の中に溶けていった彼の微笑みは、今も私の記憶の踊り場で、静かに湿り気を帯びたまま残り続けている。
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