「ねえ、あなた。死んでもらえる?」
僕は味噌汁を吹いた。
「なんで?」
「できれば午前中に」
「いや、だからなんで?」
「大丈夫。保険金は非課税よ」
「前向きな殺意やめて」
妻は真顔だ。冗談に見えない。
「死亡保険、増額しといたから」
「勝手に増やすな」
「だって私の医療費払えないし」
通帳がテーブルに置かれる。
「残高、千八百円」
「五桁ないのかよ」
「あるよ。小数点以下なら」
僕はゴーストライター。
有名作家の感動作も、謝罪会見の名文も、全部僕。
僕の魂は、一文字十円。
名前は出ない。拍手は他人。
「昨日の追悼文、バズってたよ」
「僕の名前は?」
「関係者」
妻が笑う。
僕も笑う。乾いた音がした。
その日、出版社に呼び出された。
「君の原稿、もういらない」
「え?」
「コスト削減。AIの方が安くて泣ける」
職を失い、家に帰る。
妻が保険の書類を広げていた。
「死亡時、三千万円」
「本気?」
「あなたが死ねば、私は助かる」
翌週、家賃滞納で退去通知。
病院から督促状。
妻の治療費、未払い。
「払えないの?」
「あなたが死ねば払える」
もう、目が笑っていない。
夜中、臓器売却サイトを見た。
腎臓の相場を、指でなぞる。
「何してるの?」
「副業」
「売るなら早くして」
「いつまで?」
「今でしょ」
妻がため息をつく。
「売るなら肝臓にして」
「なんで?」
「すぐ現金になる」
追い詰められた僕は、ビルの屋上にいた。
「死ぬの?」
少し離れて、妻が立っていた。
「君が望んだ」
「望んでない」
「……」
封筒を押しつけられた。
中身は、出版契約書。
「は?」
「あなたの本。ゴーストの暴露本」
「誰が書くの?」
「あなた」
「誰の名前で?」
「あなた」
即答だった。
「出版社は?」
「炎上込みで計算済み。売れるわよ」
「怖いんだけど」
「今さら?」
契約書をめくる。
著者の欄に、僕の本名。
初めて、僕の名前が世に出る。
「なんで、ここまで」
「死なれるより、安いから」
妻が咳き込む。
「医療費、払えよ」
「あなたの本が先」
顔色が悪い。
ずっと、幽霊みたいだった。
「何を隠してる」
「何も隠してない」
妻が笑う。
目が、少しだけ濁っている。
「あと八か月」
「は?」
「あなたの原稿の締切」
違う。
封筒の中に、もう一枚。
大学病院の診断書があった。
喉がひりつく。
「なんで言わなかった」
「言ったら、あなた死ぬでしょ」
屋上の音が遠のく。
「私は先にいく。でもあなたは残る。名前を持って」
「……」
僕を見る。
「だから本を書いて。私の代わりに、生きて」
膝が笑う。
妻が、僕の手を握った。
冷たい。
骨の感触。
「私ね」
長い沈黙。
「あなたといる人生、悪くなかった」
「……勝手に総括するな」
「だから、最後まで書いて」
妻が視線を落とす。
「私が消えても、あなたの中に、私が残るように」
目が合う。
「死んでもらえる? は取り消し」
少し笑う。
「生きて」