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タイムラグ・ディナー

ー/ー



      ー*ー*ー*ー

  「美味しい」と君が言った三秒後 
   空から降った 嘘の味覚が

      ー*ー*ー*ー



​「美味しいよ、今日のスープも」

​食卓の向かい側で、夫のタカシがスプーンを口に運ぶ。その言葉は、彼が飲み込んだ瞬間に迷いなく発せられた。


この世界では、真実は光速に近い。心と思考が一致している限り、声は空気の振動として即座に相手の鼓膜を震わせる。

​「そう、よかったわ」

私の返事も、遅延(ディレイ)はない。

​私たちは、この「声の物理法則」を愛していた。隠し事ができない不自由さは、裏を返せば、届いた言葉のすべてを信じられるという、残酷なほどの潔白さを意味する。


​ だが、メインディッシュのローストビーフを並べたとき、わずかな違和感が走った。

​「来週の結婚記念日、仕事で行けなくなったんだ。急な出張が入って」

​タカシがそう言った。

……一秒。二秒。

彼の唇が動き終わってから、たっぷりと三秒の間を置いて、声だけが遅れて虚空から降ってきた。


​三秒のディレイ。それは、彼が今ついた嘘が、それなりに「用意周到な不実」であることを示していた。些細な見栄ならコンマ数秒、重大な裏切りなら数分は声が届かない。三秒という時間は、彼の中に明確な後ろめたさがある証拠だった。



​私はナイフを置いた。

「……本当は、誰と行くの?」

​タカシは黙り込んだ。彼は何かを言いかけ、そして口を閉じた。

彼が今、何かを釈明しようとしても、その声が私の耳に届くのは、きっとデザートを食べ終える頃になるだろう。この世界で嘘を重ねるのは、ひどく効率が悪い。


​「ごめん」

​その謝罪は、即座に届いた。

それだけは真実なのだと、空気の震えが証明している。

皮肉なものだ。裏切りの報告は遅れて届き、後悔の念だけが最速で突き刺さる。

​私は冷めかけたスープを飲み込み、ゆっくりと告げた。

「嘘の内容によって、声が届く時間が決まる。……ねえ、タカシ。もし私が今から『あなたのことを、もう愛していない』って言ったら、声は何分後に届くかしらね」


​私は深く息を吸い、その言葉を口に出そうとした。

​だが、言葉は出なかった。

喉の奥で、声が激しく渋滞している。

一分、二分……。十分経っても、私の部屋には沈黙だけが支配していた。

​声が、一向に届かない。

私がつこうとした嘘は、自分自身すら騙しきれないほど、あまりに巨大で、あまりに深い「偽り」だったらしい。


​結局、私の声が夜の静寂を破ったのは、日付が変わる頃だった。



      ー*ー*ー*ー

   さよならの響く速さで愛を知る 
   即座に届く 終わりの合図

      ー*ー*ー*ー








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      ー*ー*ー*ー
  「美味しい」と君が言った三秒後 
   空から降った 嘘の味覚が
      ー*ー*ー*ー
​「美味しいよ、今日のスープも」
​食卓の向かい側で、夫のタカシがスプーンを口に運ぶ。その言葉は、彼が飲み込んだ瞬間に迷いなく発せられた。
この世界では、真実は光速に近い。心と思考が一致している限り、声は空気の振動として即座に相手の鼓膜を震わせる。
​「そう、よかったわ」
私の返事も、遅延(ディレイ)はない。
​私たちは、この「声の物理法則」を愛していた。隠し事ができない不自由さは、裏を返せば、届いた言葉のすべてを信じられるという、残酷なほどの潔白さを意味する。
​ だが、メインディッシュのローストビーフを並べたとき、わずかな違和感が走った。
​「来週の結婚記念日、仕事で行けなくなったんだ。急な出張が入って」
​タカシがそう言った。
……一秒。二秒。
彼の唇が動き終わってから、たっぷりと三秒の間を置いて、声だけが遅れて虚空から降ってきた。
​三秒のディレイ。それは、彼が今ついた嘘が、それなりに「用意周到な不実」であることを示していた。些細な見栄ならコンマ数秒、重大な裏切りなら数分は声が届かない。三秒という時間は、彼の中に明確な後ろめたさがある証拠だった。
​私はナイフを置いた。
「……本当は、誰と行くの?」
​タカシは黙り込んだ。彼は何かを言いかけ、そして口を閉じた。
彼が今、何かを釈明しようとしても、その声が私の耳に届くのは、きっとデザートを食べ終える頃になるだろう。この世界で嘘を重ねるのは、ひどく効率が悪い。
​「ごめん」
​その謝罪は、即座に届いた。
それだけは真実なのだと、空気の震えが証明している。
皮肉なものだ。裏切りの報告は遅れて届き、後悔の念だけが最速で突き刺さる。
​私は冷めかけたスープを飲み込み、ゆっくりと告げた。
「嘘の内容によって、声が届く時間が決まる。……ねえ、タカシ。もし私が今から『あなたのことを、もう愛していない』って言ったら、声は何分後に届くかしらね」
​私は深く息を吸い、その言葉を口に出そうとした。
​だが、言葉は出なかった。
喉の奥で、声が激しく渋滞している。
一分、二分……。十分経っても、私の部屋には沈黙だけが支配していた。
​声が、一向に届かない。
私がつこうとした嘘は、自分自身すら騙しきれないほど、あまりに巨大で、あまりに深い「偽り」だったらしい。
​結局、私の声が夜の静寂を破ったのは、日付が変わる頃だった。
      ー*ー*ー*ー
   さよならの響く速さで愛を知る 
   即座に届く 終わりの合図
      ー*ー*ー*ー